夜更けの続きとその翌朝
もちろん、アリアはその申し出を謹んで辞退した。
しかし正直に言って危ない所だった。物凄い勢いで「喜んで!」と叫んでしまいそうだった。
単純にあの良い顔面も、低くささやく声も、真剣な眼差しも何もかも狡いのである。アリアが一体何年オスカーに憧れていたと思っているのか。答えは『聖国物語』を初めて読んだのは九歳の時で、こちらの世界に来てからもファンを辞めた覚えは無いから計十一年である。完全に処置無しだ。
せっかくの申し出を断ったアリアに、オスカーは「…そうか」とだけ言って、その後は普通におしゃべりを続けてくれた。
宿が異なるオスカーとは宴会場で別れて、自分の宿に帰ってきたアリアは、ベッドに横になって足をバタバタさせた。
(守る、守るだってー!!ぎゃー!!!)
酪農協会の人が仲介してくれたお陰で、一緒の部屋に泊まれることになった森狼が、部屋の隅からアリアを胡乱げな表情で見ている。
アリアは視界に入った森狼を見ながら、しかし今日一日色々あった…と思い返す。
小金を稼ごうと思って今朝宿を出たのが大昔のようだ。それから今に至るまで、オスカーに遭遇して、森狼討伐に出掛けて、森狼の目を抉って治して、酪農協会の晩餐を受け、オスカーに同行の申し出をされ……。
アリアはどっと疲れが湧いてきた。数時間だけ仮眠を取ろう。何せ今日はまだやらなくてはならない事があるのだ。
ーそしてその晩遅く、アリアはぱちりと目を覚まして、ベッドから体を起こした。昼間に随分な大仕事をしてしまったけれど、本当のキヌカに来た理由はここからだった。部屋の隅で寝そべっていた森狼が、起き上がったアリアにどうしたのと言うような顔で近付いてくる。
「ごめんね。今夜だけはちょっと、ここで留守番していてね」
アリアは森狼に額をくっつけてそう伝える。森狼は少し拗ねたような顔をしたので、やれやれと思いつつ、旅が始まったらいつでも一緒だよと伝えれば、森狼は満足げな顔になって再び床に寝そべる。何せ今日は目を抉り出されるというとんでもない目に遭っている森狼は、さすがに疲れているらしくすぐに目をつむった。
森狼が寝息を立て始めるのを見届けて、アリアは窓からそっと抜け出した。夜のキヌカの町は静まり返って、澄んだ夜空にぽっかりと月が浮かんでいる。
町中を素早く抜けてアリアが向かったのは、キヌカの町の境界にある、渓谷を臨む岸壁である。アリアは岸壁に立ち目を閉じる。しばらく経って、アリアはぼそりと呟いた。
「…やっぱり、怪物の気配はない…」
怪物が現れるのは、瘴気が凝る条件を満たした土地である。
風に運ばれた落ち葉が吹き溜まり易い場所があるように、瘴気にもやはり、凝り易い場所というものがあるのだ。時間をかけて瘴気が溜まり続けて、具現化出来る程に凝ってしまった時、『怪物』は現れる。
『聖国物語』の中で確かに怪物が現れるこの場所は、土地の魔力質を確認する限り、瘴気が凝るような条件は満たしておらず、また今の時点ではほとんど瘴気の気配が見られなかった。むしろ普通の土地よりも瘴気が薄い、清廉なくらいの土地だった。それに気付いたのは、昼間にこの町をあれやこれやと歩き回った時で、その時はただ不思議だったのだ。
けれど魔力変異種の森狼に出会って、腑に落ちた。
森狼の魔力の暴走による竜巻が、この土地の魔力質を変えて、急速に瘴気を集めてしまうような条件が備わってしまったのだろう。森狼の魔力暴走で土地を変質させる可能性は無くなった。何せアリアが連れて行くのだから。だから、この地には怪物が出現する心配はもう無いのだ。
安心して宿に引き返そうとしたその時、アリアは昼間の疲れが祟ったようだ。ぐらりと視界が歪み、足元がふらついた。最悪な事にアリアが立つのは岩壁の上だ。まずいと思ったその時には、アリアの体は谷底側に傾いでいて、足が地面から離れた。
(ま、ずい…!)
様々な事が出来るこの世界の魔術に、飛行術だけは存在せず、空は翼を持つ者だけの領域だ。
谷に叩きつけられるその直前に、風の魔術で浮くことくらいは出来るかもしれないが、その後どうやって谷登りをするというのか…。一瞬の間にアリアの脳裏に様々な思考がよぎった。
「…っ、やっぱり、君を一人にしておくのは止めておいたほうが良さそうだ」
そんな声が聞こえたその瞬間、宙を泳いでいたアリアの手がぱしりと掴まれ、強い力で引っ張り上げられた。岩壁の上に引き戻され、べちゃりと地面に着地した。少し痛かったが硬い地面の感触に安堵した。そして、自分を引っ張り上げた人を見上げた。
「オスカー…?」
「…寝付けずに散歩に出ていたら、君が町外れに向かうのを見た。怪しんで尾行した事は、謝っておこうかな」
明々と光る満月に照らされ、オスカーは座り込むアリアを見降ろしている。
「こんな時間にこんな場所で、一体何をしていたのかは聞かないでおこう。どうせ答えないのだろうから」
「……」
「けれど、君に伝えていただろう?俺は国の騎士だ。ディーリンジアの民が危険な目に陥ろうとしているならば、騎士として守る義務がある。晩餐会での申し出は俺の個人的なものだったから、君が断ったことも受け入れたけれど」
オスカーはそこで言葉を切り、月の下ではやけに冴え冴えとして見える緑の目でアリアを見据えた。
「ディーリンジアの騎士として、君の旅への同行を申し出る。君に断る権利は、無い」
「えっと、あの、でも。確かオスカーは任務中の身なんですよね?私の旅の護衛なんかしている暇は無いのでは…」
「君はこれから、キヌカから北上するのだろう?であれば俺と同じルートだ。任務の道すがら君の護衛をして何ら問題は無い」
騎士の表情は無情で、交渉の余地はないように思えた。
(ど、どうしよう…!一日でこれだけぼろが出てるのに、同行はまずい…命運的にまずい…)
ぐるぐると考えながら、アリアは四年前、自分はこの騎士から逃げ切っていることを思い出した。どこかで隙をつけば逃げ出せるかもしれない。
しかし騎士は、アリアの瞳に浮かんだ思惑を読んだように目をひそめ、座り込んでいたアリアをぐいっと立ち上がらせた。アリアははずみで、オスカーにしがみつくような形になってしまい、目を白黒させる。手首を掴まれ、腰に腕が回される。オスカーがアリアの耳元で囁く。
「…捕まえられたくないのなら、逃げない事だ」
***
翌朝、アリアは宿の自室にてぱちりと目を覚ました。外は快晴で、旅立ち日和である。アリアは起き上がり、服を着替えてトランクの整理をした。
森狼を連れて、お世話になった気の良いおかみさんに挨拶をして宿賃を支払う。おかみさんに見送られて宿を出れば、そこに立っていたのは銀の髪に若葉色の瞳をした、長年憧れの騎士だった。オスカーはにっこり笑った。
「おはよう、アリア。…では、行こうか」
「はい…」
オスカーと肩を並べて、アリアは歩き出す。
旅は道連れ、世は無情だ。そんな事を考えていると、森狼が無邪気にじゃれてきてアリアの手のひらに頭をこすりつけるので撫でてやる。
この世界に来て四年。
初めての、一人じゃない旅の始まりだった。
ここまでが除幕編になります。




