気が付けば闇落ち寸前
ハッと気付いた時、私は恐ろしいことにナイフを振りかざしていた。
目の前には怯えた表情で床に座り込む、十四、五歳の少女。
このプラチナのふわふわ髪と金色の瞳を持つ少女の、とんでもない美しさと可憐さに呆気にとられたものだから、振りかぶってそのまま重力を味方に彼女に振り降ろそうとした、ナイフの勢いを止めることが出来たのだろう。
「…聖女レティナ…?」
呆然と呟いた私に、目の前の美少女は震えながら、桜色の唇を薄く開いた。
「おねえさま…!!」
美少女は間違いなく、自分に向けてそう言っている。私は思わずぺたりと両頬を自分で掴んで辺りを見回し、何故か床に広がっていた水溜りを発見して、勢いよく駆け寄り覗き込む。
そこには、知っている自分の顔とは似ても似つかない、ウェーブを描く腰までの長い黒髪と、真っ赤な瞳の娘がこちらを見つめてきた。年の頃はレティナとそう変わらないだろうが、少しだけ大人びた顔。
「ひぇ、闇落ち令嬢のナタリア・リュシャン…?」
試しに水溜まりに手を振ってみれば、水溜まりの中の彼女も同じように手を振った。何ていうことだろう。訳がわからないけれど、私は今、ナタリア・リュシャンになっているのか。
そしてこの状況を見るに、もしやこれは『聖国物語』のあのシーンでは…。改めて周囲に目を向けた。幾何学模様の石の床に、高い高い天井。壁に彫られたレリーフ。
百人くらいは入りそうな広間にいるのは、自分と美少女だけである。美少女は、黒い茨で縛り上げられて、涙ながらに私を見つめている。彼女は聖女、レティナ・リュシャン。そう、ナタリアのたった一人の妹でもある。
(私は今、レティナを殺そうとしていた……?ちょっと待ってくださいよ、つまり、聖国物語レティナ編、第二章のクライマックスシーン…!)
「まずい、私もうすぐバッサリやられる!!」
私の叫びは、バリバリという雷のような音に掻き消された。振り返ると、ナタリアが魔法陣で封じていた筈の扉が吹っ飛び、辺りを粉塵が舞っていた。
(ぎゃー!!来たぁ!)
きっと自分は、昨日愛読書を読みながら寝落ちしてしまったらしい。だからこんな夢を見るのだ。冷静に考えればそれしかなく、しかし自分の想像力はこんなに素晴らしかったのかというリアリティーに汗がだらだら流れる。
(ひぇ、粉塵の向こうから何やら人のシルエットが…!)
この流れであれば、あの影は私が好きでやまないヒーローのものである。とても見たいけれど、このリアルさでそのヒーローにバッサリ切られるのは、夢の中の事だとしてもトラウマになりそうだ。
(となれば、私が今すべき事は、ただ一つ…!)
そしてすぐに、銀の甲冑を身にまとう騎士が現れた。彼は聖女に覆いかぶさる黒い女のシルエットに、迷うこと無く切りかかった。
確かに剣は女を切り裂いた。しかし次の瞬間、そのシルエットはぼろりと崩れ、黒い靄となり霧消した。騎士は呟く。
「逃げられたのか…?」
部屋にはうずくまり泣き崩れる聖女の慟哭が響くのみ。城を乗っ取り、聖女を殺すと、国さえも敵に回してやると叫んだという恐ろしい女の姿は、どこにもなかった。
***
その頃城の外。有沙は試してみたら出来た写し身の術に機嫌よく木々の間を駆け抜けていた。
「騎士さんには悪いけど、ひとまずトンズラさせて貰います!せっかく『聖国物語』の世界にいるんだから、目が覚めるまで満喫するぞー!」




