トイレの花子さん、トイレを出る
夕陽が少しずつその足を早めていく。輝くバトンを月へと渡しに行くのだろう。
暗くなった校舎を歩き回りたい子供はそうはいない。ましてやここは小学校。幼い少年少女は互いの手を取り合って、怖い怖いとはしゃぎ行く。
古い校舎の三階は、備え付けられた照明も遠慮気味で、むしろ味の滲む壁を演出してしまっている。そんな廊下の突き当り、音楽準備室の向かい、階段側のトイレに響く。
手前の扉にノックが三回。
「花子さんいらっしゃいますか?」
同じく、二番目の扉にノックが三回。
「花子さんいらっしゃいますか?」
最後に、三番目の扉が叩かれて、
「花子さんいらっしゃいますか?」
すると声の主は、扉の前から離れて再び一番目の扉をノックしていく。
まただ。また来やがったあのジャリガキが。
子供にしては随分と明瞭に喋る男児はこの学校で学ぶ小学三年生。少々細身だが利発そうな顔つきで、怖いものなし。にしても程があると思う。
「花子さんいらっしゃいますか?」
学校の怪談、トイレの花子さん。
その怪談話によると、校舎の三階にあるトイレの扉を、一番手前から順にノックを三回して尋ねて回る。それを三回繰り返す。すると最後の呼びかけに返事が返り、扉を開けるとトイレに引きずりこまれてしまう。
「花子さんいらっしゃいますか?」
全ての工程を終えた児童が、最後の扉の前で待っている。
「花子さんいらっしゃいますか?」
追加の呼びかけ。
「花子さんいらっしゃいますか?」
「花子さんいらっしゃいますか?」
無視だ。無視、無視。
「はーなーこちゃーーん! あーーそびーーましょーーーー!」
「おいこらガキ! ちゃん付けすなゆーとんやろがアホ!」
「僕はアホじゃないよーだ。ねぇねぇ花子ちゃん、今日は何して遊ぶ?」
しまった。このセリフで飛び出すのはもう何度目だろう。この綾太というガキは、あたしが思わず反応してしまう類の文言をランダムで使ってくる。忘れた頃にというやつだ。まったく小賢しい。
あたしは学校の怪談でお馴染みのお化け。正真正銘の幽霊が、出来得る限りの強面を晒して迫っている。というのに綾太は愛らしい笑みで何をしようかと前かがみ。身長の足りないあたしに合わせる小さな紳士は、さぁ行こうと手を差し伸べた。
「……はぁ。今日は何するんや? 頼んから遠くまで行かんでな」
渋々手を繋ぐと綾太は早速エスコートを開始する。
「えーっとねぇ~、今日は映画館で映画を見るんだ!」
「は? 映画て、また突拍子もない。一応聞くけど、なんでなん?」
トイレを出て、あたしがいる故に不気味と化した廊下を意気揚々と綾太は進む。彼は横を歩くあたしへ首を巡らせると、自身たっぷりに答えてくれた。
「だって映画館はデートの鉄板だ! って書いてあったから!」
「……まぁ間違ってへんねん。その鉄則は間違ってない。せやけど間違いだらけなんや……」
片手は綾太と繋いだままであるから、もう片方の手でやれやれと頭を悩ませるしかない。……果たしてこの頭に脳みそがあるのかは知らないが。
はぁあと一つ深いため息をついてやれば、綾太は不思議そうに小首を傾げている。あたしの勘では、将来こいつは女の子を悩ませる鈍感モテ野郎に育つぞきっと。
綾太の丁寧なエスコートを受け辿り着くのは学校の玄関だ。片手だけで器用に靴を履き替えた綾太はあたしを連れて、
「せんせー、さようなら!」
「はいさようなら。もう暗いから気をつけて帰るのよ」
「はーい!」
わざとらしい挨拶を交わして学校を出た。
怪しい気配に眉を顰めそわそわと落ち着かない女性教諭を心苦しく見ていれば、綾太は彼女の様子が可笑しいのか笑いを堪えている。やっぱりこいつの将来が心配だ。
「そういえば金はあるんかいな。映画って金がいるんやろ?」
残念ながら生前に映画を見る機会はなかった。それでも何十年と生き――死んでいればそれくらいは聞こえてくる。
「うん、チケットを買うんだって。昨日おじいちゃんにお小遣いもらったから大丈夫だもん。花子ちゃんのチケットも僕が買うんだ。こういうのを、おごりって言うんだって」
「いやまぁ、おごりはそれで合ってんねんけど……んー、せやこの間のぱふぇや。一緒にぱふぇ食べたんはちゃんとおごりやったぞ? せやけど今日はおごってもらわれへんなぁ」
ちょっと難しかったのか、それとも腑に落とそうとしているのか。目的地へと向けていた足を止め、綾太は視線を宙へ彷徨わせて考えている。利発的とはいえ、まだ知り行くはこれからだ。
「どうして?」
「幽霊の席なんか買えんやろうが。綾太の席を綾太が買うんやからおごりちゃうねん」
「えっ! じゃあ花子ちゃんは映画見れないの?」
そうではないのだ。あーもう、もどかし可愛い奴め。
「……幽霊は勝手に入ってええんや。つまり、無料で映画が見れるからお得なんや」
「そっか、花子ちゃんすごいね!」
すごいだろう、と胸を張ってやれば綾太はそれは嬉しそうに歩き出した。あたしとしては幽霊相手に動じない子供こそ凄いと思うのだが、どこか間違っているだろうか。
映画館への道のりを歩く中、綾太は最近あったことや見たこと聞いたことを披露してくれる。学校のトイレから出られないあたしに、外の世界を教えようと頑張る姿は微笑ましくて、流石に知っている話であってもあたしは聞いてやるのだ。
「花子ちゃん、こっちだよ」
手を引かれる。綾太が手を引いてくれるから、あたしは外へ出られる。
トイレの花子さんとして語られるあたしは、地縛霊に等しい。トイレの花子さんがトイレを離れるのは可笑しいからだ。綾太と手を放してしまえば、あたしは一瞬でトイレに戻ってしまう。
『おいで、こっちだよ』
あたしの数少ない生前の記憶にも、こんな風に手を引かれた覚えがあった。
綾太が手を引いてくれる。手を繋げば出られるとは知らなかった。手を繋いでくれる相手がいるとは思わなかった。
「綾太。自転車が来ているぞ」
「わっ。ありがとう、花子ちゃん!」
この子は、礼を言うには必ず対面をとる。親の躾がなっている証左だろう。
綾太の両親は中々忙しい御仁のようで、週に一度は帰りが大分遅くなるという。そんな日はお留守番を言いつけられる綾太だが、こっそりあたしと遊んでから帰るのがいつものパターン。
綾太の言動、所持品、服装から、彼は多くの人に愛されているとわかる。唯一悪い素行があたしとの遊びだと思われるが、あたしは叱らずにご両親に代わって彼を見守るのだ。
「着いた。ここが映画館だよ!」
連れて来られたのは、渋く味のある建物。近代ビルディングはまだ苦手の為、あたしはほっと胸をなで下ろした。……大きさはないけどな。
「なんや、綾太緊張しとるやんけ。今からそんなんで大丈夫なんか」
「だ、大丈夫だよ。ちゃんとおじいちゃんに聞いたんだ」
硬い面差しはあまり変わらなかったが、綾太は入口を真っ直ぐ見据えて一歩を踏み出した。全く初々しいったらありゃしない。
こじんまりとしたロビーの奥にある受付には、三十は過ぎようかという女性が座っていた。凛々しさを振りまきながら近づく綾太を見止めて、彼女は砕けた笑みでこちらを迎えてくれる。
「こんばんは! チケット下さい!」
「はいこんばんは。チケットは何枚欲しいの?」
ふむ。まだ九つの子供が一人で来るとは思えんよな。
「一枚!」
「一枚? 僕一人で見るの?」
「ううん。二人で見るんだ」
あぁあっ。
「ふふふ。二人で見るならチケットは二枚ね」
「違うよ。チケットを買うのは僕だけでいいんだ」
子よ、待つのだ。
「こら綾太! あんた幽霊と映画見るて言う気か? さっきも言うたけどあたしは勝手に入ってええねんから、そのまま一枚買っとき」
腕を引っ張り響かぬはずの大声を上げてやれば、はっと綾太は表情を変えた。
人前であたしと会話することの意味はもう綾太も理解している。綾太は返事をせずにこくりと頷くと、
「えっと、……あ、あのね、このお人形さんと見るんだよ。お人形さんはチケットを買わなくてもいいんだって、お母さんが言ってたんだ」
ふむ。相変わらず利口である。
綾太がランドセルに下げてある拳大の人形がついたキーホルダーを指すと、受付のお姉さんは輝いた瞳を細めて相槌を繰り返す。
「――はい、どうぞ。これが僕のチケットよ。その子と一緒に楽しんで来てね」
「うん! ありがとうございました!」
微笑ましい光景は、受付だけでなく周囲を取り込み心地よい空間に一筋の幸福が垂れ込んだ。周りから振られる手振りの挨拶を、綾太は軽快に返していく。
全く恐ろしい子だ。ここまで片腕だけで上手くやり取りをしている事に、周りはちっとも気を向けられずにいるのだから。まぁ天然だけどそれがまたねぇ。
映画のスクリーンは入場を始めており、幾人かが吸い込まれるように箱とも呼べる場へ進んでいく。
「花子ちゃん、どうしたの?」
入口の手前で立ち止まったあたしは少しばかり慄いていた。夜の闇とは違う、薄暗い知らぬ場所。満ちているのは生の気。
時々思う。あたしのいる場は決まっているのではないかと。
「花子ちゃん」
あたしの前に綾太の笑顔。綾太という子は生の象徴だ。みなを愛し愛される子。
「行こうよ」
「せやな。綾太、ありがとう」
綾太はあたしの手を取り引いてくれる。だからあたしはここにいる。
階段を一段一段上がって見えたのは大きなスクリーン。おいおい綾太。あたしはやっとテレビに慣れてきたのだぞ。ちょっと想像超えたデカさなんだが。
別の意味で困惑するあたしは綾太に促されるまま席に着いた。というかなんだこの席は。頼むから近くを通らないでくれよ、何も乗ってないのに閉じない座面という絵面がここに。
「花子ちゃん、楽しみだね!」
心が弾んでいるのだろう。綾太は飛び切りの笑顔ですでに楽しそうである。
「そういえば、何の映画見るんや?」
「ふっふーん。仮面ヒーローリュウジンだよっ!」
「そ、そうか。そら面白そうやんな」
「うん!」
器用に小声ではしゃぐ小学三年生。ふむ、間違いない。
仮面ヒーローリュウジンの名は度々綾太の口から聞いてはいたが、思っていた内容にしては客の年齢層広いのだけどそれは大丈夫、か?
鮮やかだった画面が暗転し、厳かな効果音を伴って何かのマークが現れる。隣の綾太は座り直し、感じられる人々の気配は皆前を向いていた。
真っ暗な空間、眩い画面、綾太の体温。
いつの間にか綾太に倣い、あたしも映画に没入していった。
「凄かったね花子ちゃん! リュウジンはすっごくかっこよかったでしょ?」
「なんや思てたよりすごいんやな。綾太が勧めるんもわかるわ」
映画を見終わるなり快速で映画館を出た綾太は、人目につかない場を見つけるとぴょんぴょん跳ねながら仮面ヒーローリュウジンの魅力を語る。相変わらず手を繋いでいるのだから、あたしは振り回される格好だが構わなかった。
仮面ヒーローリュウジン。意外にあたしも楽しめた。客層が幅広いのも理解できた。……結構人間ドラマが深いんですが、ホントに子供向けですか?
「ねぇ花子ちゃん。今度は何して遊ぼっか?」
歩くあたしに合わせつつ、スキップを取るように弾む綾太。すっかり道を覚えた綾太の家は、もうすぐそこだ。
「せやなぁ。金使わんでええとこやな。ぱふぇに映画に、子供のすることちゃうで」
「でも、本に書いてあったんだよ?」
足を止めた綾太は、あごに拳を置いてあたしを見てきた。
「どんな本なんやそれ」
「んー、薄い本!」
「……そら雑誌かな。いいか綾太? 子供は遊ぶのに金かけんでええねん。ここぞって時でええ。いいな?」
大事な話は目を見てする。ご両親の教育方針だ。綾太は良くわからないながらも頷いた。
綾太の家は裕福な部類に入る。今からこの調子では、将来金目当ての奴が寄ってくるに違いない。
残りの帰り道で、あたしは綾太に金の使い道を語って聞かせた。こんな時間まで幼子を連れ歩いているのだから、長くを生きる者の義務であろう。
「花子ちゃん、楽しかったね!」
薄明かりの点いた玄関前で、満足そうな綾太の笑みは何よりも明るい。
「そやな。綾太、今日もありがとう」
ありがとう。外に連れ出してくれて、手を引いてくれて、あたしの所に来てくれて。ありがとう。
あたしは学校の怪談。トイレの花子さん。死んだその一室で長くを過ごし、未練と共に子供たちを怖がらせてきた。
でも、最近は――
「それじゃまたね! ――今度は花子さんにも会えるといいなぁ」
あたしは学校の怪談。トイレの花子さん。だが、このガキはそれを信じようとしない。
「だからぁっ、あたしがトイレの花子さんなんじゃいっ!」
「えー違うよ! トイレの花子さんはもっと背も大きいし、髪も長いんだ」
「それは本の中の話やろがっ! 本物はこうなんじゃい!」
「絶対違うもん! 花子さんは大阪弁なんか喋らないもん!」
「じゃかしぃわっ。大阪から越してきたとこやったて何度言えばええんや!」
「違うもん。絶対違うもん!」
「じゃああたしはなんなんや!」
「花子ちゃんは花子ちゃんだよ?」
じっと無垢な瞳があたしを愛でる。観念して見つめ返せば、綾太の微笑みはあたしを待っすぐに照らした。
互いに手を振りながら、つなぎ合わせていた手を、そっと離した。
失われた感触は、あたしの新たな未練となる。
綾太はいつかこの学校を卒業する。もしかしたらそれより早く、あたしを訪れなくなるかもしれない。
でも構わない。そうなればあたしは、ただの怪談話だけを残しきっと成仏することだろう。
だって今のあたしの未練は一つだけ。綾太のまたねという言葉だけ。
次が無いと分かったなら、未練はあたしの願いに押し潰される。その願いはどうしようもなく生の気を帯びてしまっているのだから。
綾太。あたしは楽しみだよ。
あんたが一体どんな人に育つのか。どんな人を愛するのか。どんな日々を送るのか。
天へ逝けばいつだってあんたを見守れる。それならこんなトイレなぞさっさとおさらばだ。そうだな――
もし許しがあれば、守護霊にでもなってやるさ。
ありがとうございました。