エピローグ
「そう言うわけでエマ、陛下と王妃殿下のお許しを頂いてきた」
「まあ!」
「だから今夜は……」
「はい!」
うっとりした表情で彼女は主の唇に自分の唇を軽く重ねた。だが、抱きしめようとする彼の腕をするりとすり抜ける。
「え、エマ?」
「うふふ。昨日、必死の思いで心の準備をしたのに、旦那様は私を抱いて下さいませんでした」
「え?」
「旦那様は昨夜こう申されました。俺にも心の準備というものがある、と。私も今日は心の準備が出来ておりません」
「そ、それは……」
「そのようなことは女子が口にすることですよ」
エマはもう一度マツダイラに口付けすると、彼の横に並んで腕を絡める。
「それにこうも申されました。俺はもう少し、お前と今の生活を続けたいんだ」
「うっ……」
「そこで私も考えたんです。私だって旦那様と二人だけの生活を続けたいと思ってます。だから子作りはもう少し先に……」
そう言って彼女は彼の顔を覗き込んだ。
「我慢出来ませんか?」
「エマ……」
「どうしても我慢出来なければ仰って下さい。頑張って心の準備を致しますから」
さすがにそう言われてしまっては、我慢出来ないなどとは言えなくなってしまう。
「その代わり、お付き合いさせて頂きますよ」
「酒か?」
「お風呂も、です」
それでは生殺しではないか。そう思った彼だったが、真っ赤になってうつむいた彼女を見て、妙な充足感に満たされていた。
「旦那様、お聞きしてもよろしいですか?」
少しの沈黙の後、エマがふと思いついたように顔を向けた。
「うん?」
「昨日の夜はだめだったのに、どうして今日はよかったんですか?」
「あ、いや、それは……」
「もしかして昨日は陛下や王妃殿下からお許しを頂いてなかったから、ですか?」
「ば、馬鹿なことを!」
「だって、昨日と今日の違いはそれくらいしかありませんし、先ほど旦那様もそのようなことを仰っておいででしたので」
「違う! 断じて違う!」
「なら教えて下さい。どうして今日は……」
「も、もういいではないか!」
エマは寂しそうに目を伏せる。
「何だか隠し事をされているようで悲しいです」
「うっ……」
これにはマツダイラも降参するしかないようだ。好きな相手が悲しそうな顔をしているのは耐えられない。
「き、昨日のお前は死を覚悟していただろう?」
「え? あ、はい。確かにそうでした」
「だが俺はお前が首を刎ねられるようなことはないと知っていた」
「はい……」
「だからその、あれだ……死ぬと思って抱かれたいと言ったお前を抱きたくなかった、ということだ」
「あ……」
「それは卑怯だからだ」
確かに彼女は昨夜、これがこの世の最後になると思っていた。だからこそ、せめて愛した彼に身を捧げたいと思ったのだ。
ところが初めから彼はそんなことはないと言っていた。そして今日、自分も国王の振る舞いを見て、彼がそう言った理由が腹に落ちた気がしたのである。
「旦那様、私は何も知らない愚か者でした」
「そ、そんなことはないと思うが……」
「覚悟を決めたつもりが、私は何も覚悟出来ていなかったということですね」
エマは彼にもたれかかり、肩に頭を乗せる。そんな彼女の髪を、マツダイラは優しく撫でた。
「旦那様はやっぱりお優しいです」
「優しいかどうかは分からんが、お前が待てというならいつまででも待つさ」
時間はまだまだこれからたっぷりあるのだ。ゆっくりと愛を育んでいけばいいだろう。マツダイラは彼女をそっと抱きしめ、その日何度目かになる口付けを交わしていた。
『何だか本当に心の準備が出来てしまいました』
エマはそう思ったが、彼女がそれを口に出すことはなかった。
「長らくお世話になりました」
メイドたちの控え室で、大勢の仲間たちを前にトウノ・エマは深々と頭を下げた。彼女は俺の許しを得て城勤めを辞め、マツダイラ閣下の屋敷で家政婦として住み込むことになったのである。もちろん将来は彼の許に嫁ぐ前提で、だ。
「マツダイラが嫌になったらいつでも戻ってきていいぞ」
「へ、陛下!」
「ありがとうございます。その時はよろしくお願い致します」
「エマ殿まで……!」
これはその少し前、マツダイラ閣下がエマを伴って執務室に挨拶に来た時の会話である。
「トウノ・エマさん、こちらこそ今までご苦労さまでした」
メイド長のセツが彼女の手を握りながら言うと、周囲から惜しみない拍手が贈られた。
「セツ様、皆さん、本当にありがとうございました」
「やったじゃない。先は伯爵夫人なんて! あ、でもそうなるともう、私たちとは簡単に口もきいてもらえなくなるのね」
「そ、そんなことないですってば!」
「うふふ、冗談よ。結婚式には招待してね」
「あ、それなんですけど……」
エマが同僚たちに申し訳なさそうに言う。
「旦那様……マツダイラ閣下は特に陛下のお側にお仕えされているので、陛下から結婚式はお城を使わせて下さるとお許しを頂いて……」
「まあ!」
「ですから招待と言うよりも……」
「任せて! 素晴らしい給仕を披露させて頂くわ」
「どんな給仕ですか」
「そしてあわよくば私たちも名のある貴族様に見そめられて……」
「それが目的……」
それからしばらくの間、控え室ではそんな会話と笑い声が続くのだった。




