第十話 そろそろ肉を焼いてもらおうかな
「旦那様、お帰りなさい」
「だ、旦那様?」
「はい。あの、そうお呼びしてはいけませんか?」
マツダイラが帰宅すると、城のものとはデザインが異なるメイド服姿のエマが玄関で頭を下げて出迎えた。レモンイエローの可愛らしいそれは、彼女によく似合っている。
「いや、まあいいだろう」
「先にお風呂になさいますか? それともお食事になさいますか?」
「きょ、今日の夕食は何かな?」
「お肉は仔牛を焼きます。他にお野菜の煮込み汁と和え物をご用意致しました」
「そうか、楽しみだ。酒のあては何かあるか?」
「でしたらちょうどよさそうな腸詰め肉を買って参りましたので、薄く切ってお出し致します」
「おお! それはいいな。では先に風呂に入るとしよう。其方も付き合え」
「え! お、お風呂にでございますか? でも旦那様のご命令なら……」
「ち、違う! 酒だ、酒に付き合えと言ったのだ」
「あ!」
二人とも真っ赤になりながら、マツダイラは風呂に、エマは台所に向かう。そして彼が風呂から出て居間に入ると、すでにそこには果実酒と腸詰め肉、つまりハムが数枚切られて用意されていた。
「旦那様、私も頂いてしまってよろしいのですか?」
「構わん。城ではないのだし今は其方と二人だけだ。堅苦しく考えなくていい」
「はい、ありがとうございます。お注ぎ致します」
「うむ」
マツダイラは彼のグラスに果実酒を注ぎ、自分のグラスにも注ごうとした彼女の手から瓶を取る。
「注いでやろう。杯を持て」
「で、でも、旦那様に注いで頂くなど……」
「言っただろう? 堅苦しく考えるなと」
「はい……ありがとうございます」
二人のグラスに果実酒が注がれたところで、彼はエマにグラスを傾けた。
「エマ殿。仕事とは言えここには俺しか住んでいない。だから気楽にしてくれていいぞ」
「はい、あの……」
「うん?」
「私は平民の出です。ですからこのように旦那様……マツダイラ伯爵閣下と食卓を共にするなど恐れ多くて……」
言うとエマは肩をすぼめた。その様子にマツダイラは苦笑いしながら果実酒を一口、口に含む。
「陛下の人となりを存じているか?」
「陛下……イチノジョウ陛下のことですか?」
「そうだ。あのお方はな、仔細は明かせぬが故あってあまり身分をお気になさらない方なのだ」
「はあ……」
「気位ばかり高い貴族にはうんざりだそうだ」
「そう言えば陛下の色々なお噂を耳に致しますが、あれは作り話ではなく?」
「全て事実だ。厨房のサナとリツ、城門脇の靴磨きのおマサ、庭師見習いのシンサク、皆の目に触れたことのある者だけでも、これだけの平民や奴隷をお救いになられているのだよ」
「おマサちゃん! 私も一度だけですけど靴を磨いてもらったことがあります。とても丁寧なお仕事でした。そう言えばおマサちゃんのお店には陛下のお墨付きがあったような……」
「あれも本物だ。エマ殿は陛下との会食会には?」
「会食会は人気があり過ぎて、申し込みましたがなかなか順番が回ってこないのです」
「そうか。出来れば口を利いてやりたいところだが、陛下はそのような優遇は好まれんからな。こればかりは時を待て」
「そ、そんな! 私はこうして旦那様とお食事させて頂けるだけで満足です!」
「そう、それだ。其方は何故この俺の家政婦をやろうという気になったのだ?」
「え? あ、あの……」
「ま、まあいい。言いたくなければ無理には聞かん」
耳まで赤くしてうつむいた彼女を見て、マツダイラは何となく察したようだった。だがそれを口に出すほどデリカシーのない男ではない。まして考え違いだった時のことを思うと、さすがにこれ以上の追及は得策ではないだろう。
「そろそろ肉を焼いてもらおうかな」
「は、はい!」
こうして二人の夕食は少しずつ和み、時が経つのも構わず会話は深夜にまで及んだのだった。
「目明かしのキュウゾウだ。お前たち、ここで何してやがる?」
「キュウゾウ親分ですか。俺たちは何も」
キュウゾウと手下二人の前に、四人の男たちが立ち塞がっていた。彼らは口元に薄気味悪い笑みを浮かべ、首を斜めに傾けて明らかに親分たちを見下している。
「ここには誰も住んでいないはずだな」
「へえ、その通りですぜ」
「なら先ほど聞こえた赤ん坊の泣き声は何だ?」
「はて、そんなもの聞こえたか?」
「親分の空耳じゃないんですかい?」
「あくまでしらを切るか。ならちょいと長屋を検めさせてもらうぜ」
「おっと親分、それはやめた方が身のためですぜ」
「何だと!」
四人の脇をすり抜けようとしたキュウゾウたちを、脇差しを抜いた男たちが通せんぼする。
「何の真似だ?」
「俺たちは四人ともそこそこの剣術の使い手なんでね。これ以上行くってんなら怪我だけじゃ済みませんよ」
「ほほう。てことはこの先には見られたくないものがあるってことだな?」
「親分さんが何を言っているのかは分かりませんがね、俺たちは誰もここを通すなって言われてるんですよ」
「誰にだ?」
「そんなことどうでもいいでしょう。分かったらさっさと引き返して下さい」
「ふん! ここは今は誰のモンでもねえ。つまりお前たちに指図される謂われはねえってことだ」
「どうしても通ると?」
「そうだ。そこをどけ!」
「やっちまえ!」
四人の男たちが脇差しを振り上げた。次の瞬間、キュウゾウは正面の男の鳩尾に拳をねじ込む。二人の手下も脇差しを抜いて、襲いかかってきた男たちに応戦を始めた。
だが、人数の差は如何ともし難い。残った一人が親分の背後に回り、背中に刃を突き立てようと構えるのが見えた。
「親分、後ろだ!」
思わず叫んだ俺の声に振り向いたキュウゾウだったが、すでにその時、切っ先が彼の背中に届く寸前だった。




