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第5話 病気でなんかくたばるか!

 それはジンが五才のときだった。

 朝は晴れていたのに夕方から雨になり、しかも酷い豪雨が夜まで続いた。

 ジンとジンの母は、会社に傘を持って行かなかった父を駅まで迎えに出た。


 ジンは黄色い合羽で片手に父の傘、片手は母と手を繋いで歩いた。

 母の傘は明るいピンクと黄色の花柄で、酷い雨のなかを歩いているのに母はどこか楽しげだった。


「帰りはお父さんと一緒ね」


 と、家を出るときに言っていたことを覚えている。

 住宅地の道は、道幅が狭く、車が二台すれ違うのもギリギリで、しかも勝手に車を道端に停めている人もいて、余計に狭くなっていた。

 ジンが道の端で母が道路側。

 二人並んで傘も差しているとなれば、どうしても車道側にはみ出すことになる。

 そもそも住宅地の道路にはガードレールもなく、歩行者道と自動車道の境目ははっきりしていなかった。

 そういう場所ではお互いに注意することが鉄則と言えるだろう。


 ジンの母も、ジンと道路に注意を払っていた。

 しかし、その車は、あまりにもスピードを出しすぎていた。

 そもそもジンはそれを車とは認識出来なかった。

 すさまじい水の壁のようなものが迫ってきていると見えたのだ。

 さすがに母はすぐに状況を理解した。

 すぐさま傘を手放すと、ジンを抱きかかえて道路脇へと逃げ込もうとしたのだ。


 だが、その車の速度はそんな回避を許さなかった。

 激しい衝撃を受けて、何が起こったか把握しきれなかったジンが我を取り戻したのは、冷たい雨が合羽のなかにたくさん入り込んだからだ。

 

「さむい……」


 そう口にしながら母を探す。

 いつの間にか手に持っていた父の傘を無くしていた。

 母はそばに倒れていた。

 思うように動かない体でなんとか母に近づいたジンは、母の目を見る。

 母はジンを見て、わずかに口を動かした。

 だが、言葉は聞き取れず、やがて、その目の力は失われた。

 ジンは母に触れて、なんとかその体を起こそうとしたが、全く動かせなかった。

 雨が激しく打ちつけて、ゴウゴウと耳のなかで轟音を鳴らす。

 

「だれか助けて、お母さんを助けて」


 雨音が全てをかき消してしまった。


 ―― ◇◇◇ ――


「うっ……はっ!」


 ジンは最悪の気分で目を覚ました。

 体が氷のように冷たい。

 そのくせ、頭が灼熱を帯びている。

 同じような体験を、インフルエンザに罹ったときにしたことがあると、ジンは思い出した。


「なんで……熱」


 脱出した馬の背で冷えてしまったからか。いや、もしかして、と、ジンは思い出す。

 大きな蚊のような虫に噛まれた。


(もしかして、これって話に聞くマラリアなんじゃ?)


 考えた途端、恐怖と吐き気が押し寄せる。

 知らない土地でマラリアに罹って、発症してしまったなら、もう助からないかもしれない。

 死というものが急激に身近に感じられた。


(嫌だ! 死にたくない! 俺が死んだら父さんは一人になってしまう。母さんを亡くしただけで、あんなに辛い思いをしたのに)


 父は母がひき逃げに遭って死んでしまったことを自分のせいだと思っていた。

 母の忠告に従って朝傘を持って出ていれば、あんな事故は起こらなかったのだと。

 母の事故以来、父のカバンにはどんなに晴れた日でも折りたたみ傘が入っている。


 取り戻した記憶が、強い郷愁を引き起こした。

 家に帰りたかった。

 どこだかわからない場所で死にたくはなかった。


「気がついた? お薬飲める?」


 傍らから声が聞こえた。

 横たわったまま視線を横に向けると、そこには小さな子どもの姿があった。

 一瞬、ジンは昔の自分の幻影を見たのかと思った。

 しかし、その子どもとジンの子ども時代の姿とは全く違う。


 子どもはぱっとベッドから離れると、どこかへと駆けて行く。


「ねーちゃん!」


 やがて、入れ替わるように人の姿が見えた。

 ねーちゃんと呼ばれていたから当然女性のはずだが、その人は質素なズボンとシャツの上下を着ていて、しかも体型がわからないガボッとした物で、おしゃれな要素など一つもなかった。

 髪も短く、適当に切りそろえているという感じだ。


 手にはなんらかの容器を持っていて、ジンのそばに来ると、床に膝をついて、ジンの顔を覗き込んだ。


「薬、飲んで。熱が楽になるから」


 病院ではないようだったが、ジンは楽になるという言葉にすがるように、半身を起こしてもらうと、その茶碗のようなものから薬らしきものをなんとか飲み込もうとした。

 

(苦い。しかも何か匂いが独特で)


 不味いというよりは、飲み下しにくい味わいだった。

 しかし、死を意識していたジンは、それこそ必死にそれを飲んだ。

 その飲みにくさが、逆に薬っぽい感じもした。

 ようやく薬を飲むと、それだけで力尽きたようにまた眠ってしまった。


 それからどのくらい経ったのか、やがてジンは意識を取り戻した。

 目がゴリゴリして開けにくい。

 触れると、バリバリと剥がれるような目やにが目を覆っていた。

 こすって目を開ける。


 熱のだるさはない。

 ひどく喉が乾いていた。


「水……」


 見ると、ベッドの脇に椅子のようなものがあり、そこに水差しとコップらしきものが置いてあった。


「これ、飲んでいいのかな?」


 迷ったが、乾きがひどく、水差しからコップへと水を注いだ。

 手が震えて、なかなか水が注げないのがもどかしい。

 ようやくわずかにコップに注ぐことに成功した水を貪るように喉に流し込む。


「うまい」


 水ってこんなにまろやかで甘かっただろうか? ジンは感慨深くその味を堪能した。

 喉や胃から水の染み込むことで細胞が蘇るようなキュウという音が響く。


「生きてる」


 ジンは感慨深く呟いた。

 ふと、視線を感じて顔を上げたジンは、部屋の入り口らしきところから子どもが覗いているのを見つけた。

 髪の色は赤茶色、肌も赤褐色で、明らかに日本人ではない。

 しかし、あのリリスという女とも違う人種のようだった。

 その子どもはぱっと頭を引っ込めると、「ねーちゃん! あの人起きた!」と声を上げる。


「あ、あのときの」


 あの、熱でうなされていたときの子どもだと、ジンは気づいた。

 そして、はた、と、思い至る。

 あの子の言葉が自分にわかるのはおかしいことではないかと。

 今、聞いた言葉は、明らかに日本語ではなかった。

 しかし、ジンにはその意味がスムーズに理解できる。

 どういうことかさっぱりわからなかった。

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