第3話 馬泥棒でも構わない!
学校に行くのも家にいるのも辛かったからフラフラと出歩いて、いつの間にか来ていたのが家の近くにあるふれあいパークだった。
週末には家族で遊びに行くのが定番だった思い出の場所だ。
ジンは毎日のようにそこに通ううちに、乗馬体験コーナーに入り浸った。
子どもを乗せるポニーの優しい瞳が、心地よかったのかもしれない。
そのうちに、常連となったジンは、簡単な馬の世話の手伝いもさせてもらえるようになった。
ジンにとって、馬という生き物は、辛い時期を乗り越えさせてくれた特別な存在だったのだ。
思い出したことのなかの辛いことという出来事をジンは思い出そうとしたが、それは無理だった。
思い出そうとしないものがきっかけによって思い出され、思い出そうと意識するとたちまち消えてしまう。
それはひどくもどかしい思いをジンに抱かせたが、今はそういった感傷にゆっくりと付き合っている場合ではない。
馬小屋のなかは生き物の熱気で外と違って少し暖かかった。
馬糞と藁の臭いは、今時の都会の人間なら嫌がるような臭いだが、ジンにとっては馴染んでいて、落ち着く臭いでもある。
「悪いな、ちょっとだけ隠れさせてくれよ」
馬たちに謝りつつ、奥へと移動した。
何かあったらすぐに飛び出せる入り口近くにいたほうがいいかもしれないとは思ったが、ジンはあえて奥へと進んだ。
馬という動物はかなりデリケートで、知らない人間が近くにいると落ち着かない。
入り口近くの馬が騒いでいては、誰かが潜んでいると教えるようなものだと思ったのだ。
「ごめんよ、大丈夫だからな」
真っ暗でジンの目には馬小屋のなかの様子はさっぱりわからない。
足を何かに引っ掛けないようにゆっくりと探りながら進むしかなかった。
それにしても、と、ジンは思った。
「デカイ馬だな」
はっきりとは見えないが闇に慣れた目で生き物が動く様子はなんとなくわかる。
それがかなり大きいのだ。
日本でよく知られているサラブレッドもかなり大きい。
しかし馬の種類的にはサラブレッドは軽種であると言われていた。
走るために作られた馬なので全体的にスリムなのだ。
そのサラブレッドに比べて、なんというか圧迫感がある感じがした。
しかし世界には背が高くて重量級の馬もいる。
ここがどこだかわからないが、そういう馬を育てている国なのかもしれない。
発する声も「ブルルッ!」と言う馬らしいものから「ガルルッ!」という、まるでネコ科の獣のようなものまである。
ジンがこれまで接してきた馬とはどこか違う雰囲気があった。
ゆっくりと、這うように奥へと進んだジンは、馬房が途切れたのを感じた。
生き物の気配が薄くなったのだ。
ふうと息を吐いたが、もっと奥のほうからおかしな気配がした。
「ん? 唸り声みたいなのが聞こえる」
馬房が途切れて、通路があり、その奥にまた仕切りがある。
隠れ場所としては最適だが、そこに何か気配があった。
グルルッとか、フッフッといった、唸り声や息遣いがするのだ。
「隔離されている馬がいるのかな?」
発情期中などに気性の特に荒い牡馬などは房を離すことがあると、ジンは聞いたことがある。
気性の荒い馬は競走馬としては人気があるが、激しすぎると制御するのが難しいので乗り手には嫌われるとも聞いた。
そんな馬に近づいては危険なのだが、馬好きのサガでひと目なりとも見てみたいと思ってしまう。
馬小屋の奥のほうだからすでに外の騒ぎが聞こえなくなっていて、そのための一種の気の緩みもあったのだろう。
「にしても、暗いからなぁ」
目を凝らしても、闇のなかではうすぼんやりとしか周囲の様子はわからない。
無理をするのは止すか、と、その仕切を背に座り込む。
が、背後から唸り声や、ガツッ! ガツッ! と、土を削るような音が聞こえ、やはり気になった。
その声がひどく苦しげだと思ったのだ。
「おい、大丈夫か? 水が足りないとかないか?」
ジンは手探りで仕切りの側面から取っ手らしきものを探し出し、その上に閂らしき横木を見つける。
いくらなんでも扉を開けたら飛び出せるような造りにはなっていないだろうと、ジンはその閂を外した。
ご丁寧に重くて大きなものが二つも嵌っていた。
ギィと蝶番の音が鳴り、なかの気配が警戒するように静かになる。
ゆっくりと扉を開いて、その隙間からジンはなかを窺った。
「ん?」
なかはなぜか仄かに明るかった。
とは言えそれは灯火などの光というよりも、赤外線の光のような、赤っぽくて物を見づらい明るさだ。
「な、なんだ、これ!」
思わず声を荒げてしまい、ジンは慌てて自分の口を塞ぐ。
普通の馬房よりはかなり大きいのだが、なかにいる存在からするとそうとう狭く感じる房には、がんじがらめに縛られた巨大な生き物がいたのだ。
「馬、かな? これ」
デカイ。
とにかくそのデカさといったら驚くべきものだった。
いわゆる軽トラよりもデカイかもしれない。
しかも、その馬(?)は、全身、赤黒いもっさりとした毛で覆われていた。
「まぁ毛深い馬はいるけどね」
ジンにとって馴染み深いポニーも馬のなかでは毛深いほうだ。
「それにしても……」
馬の種類よりも、ジンが気になったのはその扱いだ。
その馬は、房の四方から伸びた太い綱によって拘束されていた。
それだけならまだしも、その綱は、馬の首に二方向から掛けられて、暴れればそれが首を締め付けるように結ばれているようだったのだ。
「こりゃ酷い」
ムカムカするものが喉の奥からせり上がって来るのをジンは感じる。
ジンにとって馬とは特別なものだ。
それなのにその馬にこのような酷い扱いをしている。
ジンのなかで、推測としてあった自分を誘拐した連中が極悪人であるという考えが、完全に決定した瞬間でもあった。
ジンが扉を開けてなかへと足を進めると、その馬は低く唸る。
「こんな目に遭わされりゃあそりゃあ人間なんて信用出来ないよな」
とは言え、完全に固定されている馬は、ジンが近づいても動くことが出来ない。
脚は地面を掻くが、それもがっちりと数本の綱が掛けられていてほとんど動かせないようだった。
ジンはギリッと奥歯を噛みしめる。
よく見ると、綱が掛けられている部分の皮膚は、裂けて血が滲んでいるようだ。
全体的に赤っぽく見えるのでわかりにくいが、皮膚の色が違っていた。
「なんか、ナイフとかないか」
薄ぼんやりとした赤っぽい光のなかで物を探すのは大変だ。
房の隅に棚があるのを見つけてそこを探ると、頑丈なムチや堅い棍棒のような物が見つかった。
「クソが」
吐き捨てる。
「おっ」
棚の脇に炉のようなものがあり、そこに薪割り用なのか手斧があった。
手斧は台木に深く刺さっていてなかなか抜けなかったが、何度かの試行錯誤の末に抜くことに成功する。
とは言え……。
「グルルルゥ」
「だよね」
手斧を手に近づけば激しく威嚇された。
それはそうだろうなとジンも思う。
あのムチや棒などで殴られたこともあるのだろう、手に得物を持った人間を警戒するのは当然だ。
「なぁ」
言葉は通じないことはわかっているが、ジンはあえて話し掛けた。
馬は人間の心を読むと言われている。
なんとか理解してもらうしかない。
「俺はお前を助けたい。お前も苦しいのは嫌だろう?」
海外の何かのドキュメント番組で、犬を虐待している飼い主の家から救出するものがあった。
犬はその家主の財産なのだから立派な泥棒であるが、そういったことをおかまいなしの動物愛護精神が、いかにも外国らしいとジンは思ったものだ。だが。
「こういうのやっぱりさ、見ていられないんだよ。そりゃあ俺にお前を助ける権利はないのかもしれないけどさ。いいじゃん。もし罰を受けなきゃならないなら受けるさ。だってそんなことより、今目の前で苦しんでる奴を助けるほうが大事だろ」
「グル……」
ジンの言葉を理解している訳はないだろうが、その馬は微動だにせずにじっとジンを見据え、威嚇を止めた。
そしてフーッと長い鼻息を響かせると、首を掲げてうなずくように首を上下させる。
「ええっと、いいってことかな?」
わからないが、やるとしたら今しかない。
ジンはままよとばかりに馬を縛る綱の根本を切った。
手斧で何度も切りつけなければならない程頑丈な綱で、全て切り落とすまでに、ジンはそれまで寒かったはずなのに、びっしょりと汗をかいてしまった程だ。
「よし、全部切ったはずだよ」
ジンが作業している間、じっとしていた大きな馬に向かってそう言うと、巨大な頭に向かってそっと手を差し伸べる。
下手をすると噛みちぎられる可能性もあるが、動物を相手にするときに恐れを見せるのは悪手なので、ジンはあえて堂々とした態度で接した。
ブルルとグルルの中間ぐらいの声を出し、その馬は一歩を踏み出す。
その脚が間違って振り下ろされただけで、ジンなどは踏み潰されて死んでしまうだろう。
しかし、その馬はゆっくりと自由を確かめるように身を震わせると、ジンの手にゆっくりと鼻面を寄せた。
とは言え、そのまま撫でようとしたらスイと顔を逸らされてしまったので、完全に懐いたという訳ではなさそうだ。
「でもよかった。そうだ、水飲むだろ。水桶どこかな? そもそも水場はなかにあるのかな?」
そう言ってキョロキョロとしたジンの、マントの襟の部分を馬がガブリと咥えた。
「え?」
そのままひょいと持ち上げられ、ふわっと自由落下の感覚を味わったジンは、ドサリと動物臭い毛のなかに埋もれた。
「え?」
グワッと地面が持ち上がる。
ジンは慌てて周辺の毛を掴んだ。
ドカァ! という激しい破壊音が鳴り響く。
と、同時に、風がジンの頬を打った。
「え? え?」
ドカッ! ドカッ! という、まるでハンマーを地面に打ち付けるような音が響き、地面がうねり、風が激しさを増す。
「も、もしかして、俺、あいつの背中にいるのか?」
ジンの理解が追いつかないままに、事態は急激に動き出していた。