第1話 歪む世界
初投稿です。
遅筆なので、不定期投稿になりますが、よろしくお願いします。
東の山々から顔を出す太陽が、街を、森を、そして海を照らし、朝焼け色に染める。街を東西に分けるように流れる川は、今も昔も変わらず人々の営みを支えている。南の臨海部の工場地帯の煙突から上る煙が、街を囲む山からの春風に流される。臨海部と北の山間部との中間に位置する居住区と商業区は、朝早い住人達の生活の息吹に満ちている。関東地方臨海都市、三方山市のありふれた日常の光景である。
その居住区の通りを道着姿で走る、一人の十代の少年がいる。少しばかりの羞恥心と、数キロもの距離を走った疲労で、顔を真っ赤にして息を切らしながら走っている。師から出された今日の最初の修行を一刻も早くやり遂げようと、残った体力を振り絞って走るペースを上げる。走り始めて三十分程経過し、ようやくゴールである道場に近づいてきた。すると、道場の前の上り階段の手前で同じ年頃の少女とすれ違った。
「あ、おはよう、草薙くん。日曜なのに大変だね」
少年を草薙と呼んだ少女は、春風に腰まで伸ばした黒髪をたなびかせ、穏やかにほほえんだ。服装も今の少年と違い、花の香りがしてきそうな上品な装いだ。どことなくのんびりとした雰囲気が印象的だ。
「よう松村、おはよう」
草薙は挨拶してきた少女、松村にそう返すと、そのままランニングを続けた。後ろから松村の「頑張れー」という、どこかぼんやりとした声が聞こえてきた。階段の長さは十メートルもない。あっという間に登り切ると、そこには草薙の師匠がストップウォッチを手に待っていた。師匠の鍛え上げられた身体は、草薙と同じ道着を内側から膨張させていた。頭は綺麗に剃り上げている。荒く削った岩のような顔には、深い皺が年輪のように幾重にも刻まれている。
「先月の今頃より、一分近くタイムを縮めたか。言ったとおり、怠らずに日々鍛練を積んでおるようだな」
草薙よりも半世紀以上は年を重ねているにも関わらず、声の張りも眼光の鋭さも、草薙には到底及ばなかった。草薙は硬質な髪を掻き上げながら、額と頭部の汗を拭った。師匠には遠く及ばないが、草薙も師匠の弟子、つまり『松村空手道場』の門下生になって一年以上の間、必死に鍛え上げただけあって、並の運動部員の体力を大きく超えている。
「師匠、休憩が終わったら、今日は他に予定がないので、いつもより長めに稽古をとらせて下さい」
しかし、草薙はそれで満足することはない。やがて休憩が終わり、夕方遅くまで道場で稽古に励んだ。
夕方遅くになって師匠が「そろそろ終いにしよう。若いお前と違って、俺はいつまでも無理はきかないからな」と言って、稽古を切り上げた。草薙自身はまだまだ体力も気力も余裕があるのだが、金曜日に出た学校の宿題がまだ少し残っているので、学生の本分を疎かには出来ないと、師匠の言うことに従った。
居住区の中でも、比較的古い家並みが軒を連ねる北地区から、新居住宅の多い南地区に繋がっている坂を下っていく。その途中、買い物袋を下げた松村と、北地区と南地区の境目にあたる入り組んだ路地で鉢合わせた。
「草薙くん、もしかして帰り? お疲れー」
買い物袋の重さに時々よろめきながら、松村は草薙に駆け寄ってきた。草薙はその姿に苦笑を浮かべると――、
夕焼け色の空が血のような赤色に変色し、物陰が不自然なほど濃くなった。
「はあ!? なんだよこれ!?」
草薙の疑問の声にもお構いなしに、異変は次々と起こる。周囲から人の気配が途絶え、爽やかな春風の代わりに、不気味な笛の音のような寒風が吹き始める。二人の身体から幾ばくかの体温が奪われ、それにも関わらず、動悸は不自然に速くなり、真夏の太陽の下にいるかのように、全身から汗が止まらなくなる。
そして、最大の異変が姿を現した。
ゆらり、と松村の背後の景色が揺らいだ。気味の悪い背景から滲み出るように、季節はずれの黒いコートを着た覆面の大男が、松村の背後に出現した。大男は右手に持ったナイフを、松村の背中を狙って突きだそうとした。
「させるか!」
草薙は一息に間合いを詰め、手刀でナイフを叩き落とした。ナイフを叩き落とされた大男は草薙の方に向き直り、血走った両目で睨みつけた。その視線に思わず寒気が走ったが、怯える松村の姿が視界に入ると、意を決し、松村と大男を引き離す為に、今度は大男の脇腹に右足の蹴りをくらわせた。しかし、まるで鉄板でも蹴ったような固い感触が伝わるのみで、大男は痛がるそぶりも見せなかった。
(くそ、コートの中に鉄板でも入れていんのか!?)
痺れる足を引きずりながらなんとか一歩後退すると、先程まで草薙の顔面があった場所を大男の拳が通過する。
弱い。少なくとも格闘技を習熟している動きではない。この一瞬の攻防で、草薙は大男の大まかな実力をそう判断し、豪快に空振りして身体が泳いだ大男の顔面を、覆面の上から殴りつけた。脇腹を蹴ったときと同様、拳が痺れるほどの固い感触が伝わってきたが、覆面の下にフェイスマスクでもしていたとしても、衝撃自体は覆面やマスクの上から伝わるはずだと、草薙は考えていた。
しかし、大男は微動だにせず、体勢を立て直して再び草薙に殴りかかった。片手と片足が痺れている草薙は回避しきれず、大男の拳が顎をかすめた。脳が揺れ、失いかけた意識を必死に縫い留め、草薙はもう一度距離をとった。不覚にも急所を打たれたが、師匠の打撃に比べれば、目の前の大男の打撃など大したことはなかった。
「松村、逃げろ! 警察を呼べ!」
未だ状況を理解できず、おろおろするばかりの松村に、草薙は怒鳴るようにそう言った。だが、松村は草薙の身を案じてか、逃げようとする気配はない。
「俺は大丈夫だ。俺を信じて、助けを呼んでくれ!」
今度はなるべく穏やかに言うと、ようやく松村は、恐怖と混乱に脚をもつれさせながら逃げ出した。大男はその後を追おうと、草薙に背を向ける。その背中に向かって飛び蹴りをくらわせると、大男は煩わしそうに乱暴に振り返った。その間に、松村は曲がり角を曲がって姿を消した。
(これで松村は大丈夫。問題は、俺だな)
大男は両目をさらに血走らせ、草薙を親の敵のように睨みつけている。路地は細く、大男の大柄な身体が、目の前の道をふさいでしまっている。かといって、後ろの道に逃げたとしても、大男は追いかけてくるだろう。最悪の場合、また松村を追いかけようとするかもしれない。そうさせない為にも、やはり、松村が助けを呼ぶまでここで足止めするしかない。ようやく手足から痺れが消えたのを確認すると、再び間合いを取り、半身に構えた。
それからわずか数秒の沈黙の後、痺れを切らした大男が間合いを詰めようと、一歩踏み出したときだった。
エンジンのけたたましい排気音と共に、草薙と大男の間に筒状の何かが投げ込まれた。
筒状の何かは白い煙を吐き、二人の視界を遮った。大男は混乱したのか、両方の拳を闇雲に振り回し始めた。拳が空気を切る音が何度も聞こえてくる。同様に混乱状態に陥った草薙だが、誰かが突然、自分の右腕を掴んできたので、反射的に振り払おうとした。
「待ってくれ、落ち着いてくれたまえ。私は敵ではない」
振り払おうとする前により強く掴まれ、そんな声が聞こえてきた。声の響きからして、おそらく同年代の女性だろうか。エンジンの排気音が間近からする。その音からこちらの位置を知ったのか、大男が近づいてくる気配を感じ取った。
(こいつが本当に敵じゃないのかは分からない。だが、このままだと殺されるかもしれない。だったら……)
それから草薙は迷わず救いの手に従って、エンジンの排気音の正体、すなわちバイクの後部座席に座った。運転手は草薙と同じ年頃の少女だった。髪を肩の高さで切りそろえ、ライダースーツに身を通している。
エンジンがさらに大きな排気音を撒き散らし、少女の運転するバイクは急発進する。遅まきながらこちらの正確な位置を把握した大男が、のしのしと追いかけ始めた。しかし、バイクと大男との間の距離はあっという間に離れていく。
こうして、草薙は未知の現象と遭遇し、これから起きる事件の数々に巻き込まれることとなった。
初投稿は緊張しますね。
まずは、ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
ゆっくりマイペースで更新していくので、改めてよろしくお願いします。