とあるひのこと
むつが抵抗を諦めると、ばしゃばしゃっと鳴っていた湯の音も静かになり、微かに揺れているだけになった。
「…諦めた?」
こくっと頷いたむつの耳が真っ赤になっているのに、西原は気付いていた。酒粕が入っているから、酒の香りもするしアルコールも湯に溶けている。西原はそのせいだけではない、身体の熱さを感じていた。むつの身体は少し強張っているようではあったが、西原に身体を預けるようにしている。
「重くない?怪我…まだ…」
「大丈夫。もう大丈夫だから、心配すんな」
「うん…」
西原の言葉を信じてか、むつは身体から力を抜いてもたれかかった。アップにしているから、うなじから鎖骨にかけてのラインがはっきりと分かる。それに、甘い香りもしていて、それだけでも西原はドキドキして落ち着かなくなる。
「…お前、気にしすぎ。怪我なんて仕事中に負う事あるし、いいだろ…生きてるんだから。俺より、お前のが傷だらけだぞ?まだ黒ずみになってる」
背中や腕に残っている青黒くなった痕を指先で、数えるように軽く押していく。少し痛むのか、むつがぴくっと身体を動かすと、面白そうに西原は笑ったが、すぐに笑みを引っ込めて溜め息をついた。
「女の子なのに、こんなに傷だらけで…」
「ん、まぁ…仕方ないよね。怪我はつきもの」
「痕が残らないようにだけ気を付けろよ。折角、肌綺麗なんだから。しっとりしてるのは…酒粕効果か?」
「そうじゃないかな?何かお湯がまとわりつく感じがして、気持ちいい」
「…来て正解?」
「正解。すっごく暖まった気がする…でも、さ…外出たら寒くて一瞬で湯冷めしそうな気もする」
「だな。ここに来たからって風邪なんか引かないでくれよ?看病しに行ってやれるとは限らない」
「そうね…先輩、あんまり料理出来ないし。返って、申し訳ない気分になりそうだわ…暑い、1回上がる」
「1回?また入るのか?」
「うーん…時間あって、お湯がまだ暖かかったら?ほら、美容効果があるんでしょ?入らなきゃ」
振り向いたむつの額には、玉のような汗が浮かんでいた。西原はそれをぬぐってやると、先に上がって浴衣を着ろと言った。西原も本当は出たかったが、少し気持ちを落ち着かせてからではないと、上がるに上がれなかった。




