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少しずつ積もる

 日曜日の朝は、ピアノを弾くことから始まる。欲求のままに弾くと、永延と弾きがちなので、一時間のタイマーをセットしておく。

 もともとは三十分にしておいたのだが、それだと長い曲が弾ききれずにもやもやするので、諦めてちょっと延ばしたのだ。

 タイマーが鳴ると、ピアノの蓋を閉じて、立ち上がる。

 誰も起きていない静かな家のリビングに降り、トーストを焼き紅茶を入れる。そして朝食を食べながら、七時のニュースを見る。ここまでが私の日曜日の日課ルーティーン


 大宮のピアノが戻ってきたのが一昨日のこと。敦賀と大宮にUSBについて問い詰められたのも同じ日。

 作戦の一部が失敗した苛立ちを解消するべく、昨日は二時間もピアノに触れていた。

 こういう時、私はどうしようもなくピアノを愛しているのだと気付かされる。

 自分の音は嫌いでも、ピアノを弾く行為そのものは嫌いではない。

「あの子がバラすなんて計算外だった……」

 おとなしそうな少女で、私の計画を狂わせそうには思えなかった。まさかわざわざうちの学校まで来て、事の成り行きを調べにくるとは。

 紅茶を飲みきると、洗面所で髪を整え、ポニーテールにした。今日はさやかとファミレスでのんびりお喋りに興じる予定だ。より正確に言えば、私は彼女に様々な報告をしなければいけなかった。

 その待ち合わせは十一時なので、それまでは絵を描く。

 部屋に戻ると、机に画材と下絵の済んだ紙を置き、iPadに絵のモチーフを表示させる。

 服は作業用にしている濃いグレーのトレーナーにジーンズだ。腕をまくって、絵筆をとる。今回はグリザイユ技法で描こうと思っているため、青一色で先に濃淡だけを塗ってしまおうと思っていた。

 影の色が濃い部分は濃い青色で、淡い影の部分は水で薄めた青色で。まずは大きくざっくりと色を塗っていき、徐々に細かいところを塗っていく。今回のモチーフは、大宮の無実を証明したあの川辺だ。あの動画を使うのはさすがに気が引けたので、昨日、撮影に行ったのだった。

「あ」

 筆運びを間違えて余計なところまで塗ってしまった。水を垂らしてティッシュでふき取る。ちょっとくらいのミスなら、これでどうにかなる。

 少しずつ色を乗せて行って、青で濃淡を描き切ると、時計は既に十時を指していた。そろそろ着替えて家を出なければ。



 家を出ると、外は雲ひとつない綺麗な青空だった。ゴールデンウィーク二日目の今日は、かなり暑い。半袖でもいいのではないかと思うほどだ。

 太陽の光がじわじわと肌を焼く。まだまだ夏の日差しには劣るものの、春特有の包み込むような暖かさは、もうない。

 今の絵が描き終ったら次の題材は何にしようか。

 道を歩きながら、そんなことを考える。

 ここから駅までの風景でもいいし、今日みたいな青空でもいい。夕暮れ時の橙と赤色に染め上げられた雲を描くのもいい。普段見ている景色でも、時間によってさまざまな表情を見せてくれる。よくよく見れば、世界は美しいもので満ち溢れているのだ。

 そして街を歩く人々も、時にそんな美しい風景の住人になり得る。彼らは私の想像も及ばない世界で生きていて、無意識に無自覚に世界に作用している。それは小さな物だけれど、しかし確かに作用していて、だからたぶん私たちは生きているのだ。

「詩音!」

 待ち合わせ場所につくと、先についていたさやかがこちらに気づいて手を振った。私は振り替えして、速足で彼女に近づいた。

「ごめん。ちょっと遅かった?」

「ううん。まだ十一時五分前だから。私が早かっただけ」

「あれ……なんで制服?」

 今日は休みだというのに、なぜかさやかはセーラー服を着ていた。紺のセーラー服は、今日はなんだかとても暑苦しく思えてくる。うちの学校は衣替えの時期は生徒が各自決めて良いのだが、まだ半袖のセーラーを見てはいない。ゴールデンウィークも明け、暑さが安定してきたら、ぼちぼち現れるだろう。それまでは、このちょっと暑そうな紺のセーラーとお付き合いしなければいけない。

「実は、午後三時から練習が入っちゃって……。ごめん」

「そうなの? さすが、吹奏楽部は忙しい」

「うーん。まあ、全員ってわけじゃないんだけど……」

「どういうこと?」

 私が問い返すと、さやかは少し照れたように、しかしとても嬉しそうに微笑んで言った。

「同じ楽器の先輩に、自主練に誘われちゃったの」

「え? もしかして、さやかが気になるって言ってたあの人?」

 その問いかけにさやかは頷くと、はにかんでその場で跳ねた。

 通りで時間が中途半端なわけだ。

「二人で?」

「ううん! まさか! トランペットの来れるメンバーみんなで」

「へえ?」

「あ、まあみんなを誘おうって言ったの私だけど!」

「へえー」

「せ、先輩は二人でこっそりって言ったけど、でもやっぱりばれたら大変っていうか、二人だけじゃ顧問の承認取れないっていうか。顧問来れないから、代わりの先生探すのにちょっと色々やらなきゃいけなかったし」

「へえぇ」

「もう、へえ、ばっかりバリエーション豊かに言わないでよ!」

「ごめんごめん」

 さやかが気になると言う先輩は、トランペットが上手いらしい。できれば全国大会に行ってもらって、そこで演奏を聴きたいものだ。

「とりあえず、ファミレスがあるとこまで歩こうか」

 駅からいつものファミレスに向かって歩く。私はこういう時も、じっと周りを観察してしまう。どこかに綺麗な風景が落ちていないか、美しい音が降ってこないか。

「あれ、大宮くん?」

 歩いていると、さやかが本屋の前で立ち止まった。私も入口に近づく。クーラーが効いているのか、ひんやりとした空気が肌に触れた。

「ほら、あそこ」

 自動ドアのそばのガラスに顔を近づけると、レジで会計をしている大宮優を見つけた。彼が手に取っている本は、さすがにわからない。

「大宮くん、本読むんだね」

 さやかは意外だとばかりにそういうと、興味をなくしたようにまた歩き始める。それに合わせて私も歩き出すが、彼が買った本が気になった。薄手で、単行本よりももっと大きい本。あれは楽譜なのでは、と頭によぎる。あの男が雑誌を買うとすれば、それはおそらく漫画雑誌だ。しかしあれは漫画雑誌にしては薄すぎた。

「詩音?」

「あ、ごめん」

 気になって考えていたら、足を止めてしまっていたらしい。さやかはそんな私を見ると、かすかに首をかしげ、そのあと何故かにっこりと微笑んだ。

「詩音。ちゃんと話してね、大宮くんとのこと」

「え? うん話すけど……?」

 さやかはさして大宮には興味がない。少なくともさっきまでは。彼女が知りたいのはあくまでも私の行動だ。

 しかし、なんだか今は違う意味で言われた気がする。



 予定通りファミレスに来ると、いつもと似たり寄ったりな注文をして、メニューを閉じる。

 いつも同じ場所に食べに来ると、次こそ違う注文をしようと思いながら、案外同じものを頼み続けてしまったりする。

 食べたいものが変わらないというよりは、ファミレスのような安さ重視の店では、どうしてもコストパフォーマンスを気にしがちちなるからだろう。バイトをする時間のない高校生としては、このくらいが身分相応だというのもある。

「金曜日に敦賀くんに捕まったんだよね?」

「え、うん。なんで知ってるの?」

「噂になってた。目撃した部員がいたからか、吹奏楽部では敦賀くんと詩音が付き合っている説が浮上中」

「げ、最悪」

 おそらく下駄箱付近でのやり取りを見られたのだろう。大宮とでなく敦賀と噂が立つなんてもっと面倒かもしれない。

 敦賀は食えない男だが、クールで爽やかなイケメンだと人気なのだ。確かに短い髪の似合うイケメンである部分は肯定するが、クールでも爽やかでもないと思う。ついでに言うなら、大宮は顔だけ見れば、敦賀より顔立ちは整っている。

 敦賀だけ人気がでるのは、どうにも腑に落ちない。

「それで、どうして呼び出されちゃったの?」

「簡単に言えば、私が色々と画策してたのがバレた。というよりは、舞ちゃんの親友にバラされた」

「あらら。詩音が失敗するなんて珍しいね」

「なんかそんな言い方したら、私がいつも何か企んでるみたいじゃない」

 このタイミングで注文したドリンクとサラダがやってきた。

 さやかから箸を受け取ると、二人で手をあわせる。

「いただきます」

「いただきます。いつも企んでるみたい、っていうか企んでると思うよ? 中学の時だって、クラスの均衡を保つためにあれこれしてたし、私と仲良くなったのだって、小学生四年生の時に私が三山君告白されて、梨花りかと対立したのを収めてくれたからじゃない」

「あー懐かしい」

 指摘されてみると、まあそれなりに企んでるかもしれない。とはいえ、全部自分のためだ。私が自分の環境を向上させるために骨を折っているにすぎない。他人には迷惑をかけていないのだから、企むという言い方はどうなのだろう。

「あの時、詩音の言葉に私は感動したの」

「私、何か言った?」

「どうしてそんなに仲良くない私を助けてくれたの、って聞いたら、全部私のためよ。花柳さんのためじゃないって」

 そんなことを言ったかもしれない。それはいかにも私が言いそうな言葉だ。でも正直に言って、あまりちゃんと覚えていない。

「あのときに、詩音っておもしろいなって思ったの。それにすごいって尊敬したのもある」

「尊敬?」

 人と上手な距離感で広い人間関係を築けるさやかのほうがよっぽどすごい。私はいつだって自分本位だから、自分から友達の輪を広げようとはできないのだ。面倒ごとを避けるために上辺だけのつきあいはするが、私が友達だ、と認識できる相手は少ない。

「しっかり自分を持ってて、きれい事を言えなくて。でも、無自覚に人を助けてる」

「私ってそんな子に見える?」

 しっかり自分を持っていてきれい事を言えないのは事実だ。ただし人を進んで助けるようなボランティア精神にあふれているわけではない。自分の利益にならないことは一ミリもしない主義だ。

「詩音は自分で思っている以上に、自分の周りの人を大切にしてるんだよ。友達じゃなくても、自分の目に見える範囲の人間は、健やかに過ごしてほしいと思ってる」

「目に見えない範囲の人間は私に何の影響も与えないからね。でも……目に見えても放っておくことだってあるけど」

「そうかな? 詩音は全っ然、放っておけてない気がするな。それに行動力が有り余ってるから、一人でかなり多くのことを抱え込んで、でも、解決しちゃう」

 さやかがそう言うのならば、他人からはそう見えているのかもしれない。

私が自覚する“私”という人間と、他人が認識する“私”の間にはズレがある。そのズレが少ない人間もいるけれど、完全に埋まることはないはずだ。人の認識とはその程度のものだし、自分がどういう人間かを一番理解しているのが自分であるとは限らない。

「詩音は手の届く範囲の人間を放っておけないから、あのとき私を助けてくれた。詩音がなんと言おうと、私にとってそれが真実なの」

 さやかは今テーブルに来たばかりのドリアにスプーンを入れた。チーズがやぶられると、中からふんわりと湯気が立ち上ってきた。ホワイトソースの良く絡んだご飯とチーズをスプーンにすくい、彼女は息をふきかけて冷ます。

 そして、ゆっくりと口へと運んだ。

「初めてさやかが目の前に立った時は、すっごくイライラしたのを覚えてる。さやかを欺ききれなかった自分が情けなくって悔しくて」

 私にとってさやかは、初めて私の計画を頓挫とんざさせた女だった。

 今まではバレないように裏で糸を引いていたのに、さやかはきっちり調べて私までたどり着いてしまった。ピアノ以外で表舞台に立つ気のなかった私を、無理やり舞台の上に引きずり込んだのだ。だから始め、私はさやかに対して決して優しくはしなかったはずだ。

 むしろ不機嫌さすらあらわにして、彼女に当たったであろう。それなのに、さやかは何故か私を好いて、よく話しかけてくるようになった。

「そうそう。すっごく邪険に扱われて、でも私は詩音と友達になりたかったから、けっこうがんばったなあ。半分ストーカーみたいになってた。でも、いつからか詩音がほだされてくれたんだよね」

 いつからか、ではない。

 実は私が明確にさやかという存在を受け入れた瞬間がある。しかし彼女が気づいていないのならば、私からあえて言うことはしない。

「でも邪魔してくれて良かったよ」

言葉で何かを率直に表現するのが苦手だ。だから、私には音楽や絵が必要なのかもしれない。でも、私だって言葉で表現しようという努力はする。

「え?」

「さやかが、私が裏であれこれしてるって気づいたの、あのときは確かに嫌だったけど、結果的にこれで良かった」


 さやかとこうして親友になれたから。


 私は決してそれを口に出したりはしない。ただ、時折こうやって匂わせるだけ。

 それでも、さやかはあふれんばかりの笑顔を見せた。そして、私には言えない台詞を言う。

「ありがとう。私も、詩音を追いかけて良かった。詩音は大好きな親友で、私のヒーローだからね」

 ストレートな言葉を受け取って、私はそれをストレートに投げ返したりはできない。その代わりに、私はことの詳細を語り出した。彼女に秘密を作らない。それが私なりの誠意の見せ方だから。



 

 

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