再び取り戻した音
結論から言って、私の作戦は上手くいった。
協力してくれた舞ちゃんと千代ちゃんには、私が関わったことを黙っているように念入りに口止めしておいた。そんなことをしなくても、おそらくあの二人はしゃべらないだろうとは思っていたが。
私は家に帰るとICレコーダーの音声と、ビデオカメラの映像を新品のUSBメモリに放り込んだ。ついでに編集ソフトを駆使して、ビデオカメラの静止画をより明瞭になるようにしておいた。
ちなみにこの作業をするのに、私は手袋をしている。USBやそれを入れる封筒に指紋を残さないためだ。こんなことをしていると自分が犯罪者にでもなった気分だが、念には念を入れておくに限る。ゆるく癖のある黒髪も後ろで束ねて、毛が落ちないようにしている。
「あとは……なんていう文章を添えようかな」
パソコンの画面を前にして、私は小さくつぶやいた。
ワードを開き、敦賀に宛てる手紙の内容を考える。私が手に入れた証拠たちは、すべて敦賀によって担任へと提出してもらう予定だった。彼はこのUSBの中身を見れば、迷いなく担任のところへ持って行くだろう。そして担任、三浦先生ならば、真っ正面からこれを検討し、上司だけでなく警察に持って行って調べてくれるはずだ。
この段階で、担任だけは、この証拠の出所が私だと気づくだろう。しかし彼はそれを誰にも言わないはずだ。たぶん。もしかすると、敦賀にばらされる可能性もあるが、そのときは私が白を切ればいい。教室で全員の前でそんなことをぶちまけられたら、ごまかすのに一苦労だが、人一人ごまかすくらいの技量は自分にあると信じている。
担任は、敦賀が証拠を持ってきたから、とも言わないはずだ。彼ならばあくまでも事実関係がはっきりしたから、大宮の謹慎が解けたと説明するはずである。
事件の概要を細かく説明することもおそらくないだろう。ただ単に、大宮が無実だったという事実だけを語るに違いない。
私はキーボードに手を乗せた。そしてためらいなく文章を打っていく。これは敦賀へのメッセージだ。確実にUSBの中身を確かめてもらえるように。
『どうしてそこまで、助けたことを隠したいの?』
ふと、舞ちゃんが口にした疑問が脳裏に蘇る。作戦がうまくいって、彼女達に口止めした時、舞ちゃんはそう尋ねてきたのだ。全くもってごもっともな疑問だと思った。それでも、私の中でその疑問の答えは決まっている。
『自分のためだから、感謝されても困るのが一つ。そして何より、私は面倒なことは嫌いなの。大宮と関わるなんて面倒なことになりたくない。いや、関わるのがっていうよりは、大宮のためにそこまでしたんだ、って思われるのがいやだ。どうしてかって理由は、詮索されたくない』
ばっさりとそう言い切った私を、舞ちゃんはなぜかほほえんで見つめていた。
『なんで笑ってるの?』
『ううん。ちょっと、思い出したの。自分の行動はすべて自分のためだから、感謝されても困る。そう言った人がいたなあって』
誰だろうか。私はきっとその人と話が合うに違いない。その時そう思ったし、今でもそう思う。
あの時もう少し突っ込んで聞いておくべきだったかもしれない。
パソコンで文字を打ち終えると、私は立ち上がり、ぐっと伸びをした。そして立ったままマウスを動かし印刷ボタンを押すと、プリンタが音を立てて紙を吐き出す。
そこに印刷された文字は自分で書いたものなのに、どことなくよそよそしい感じがした。
それを手袋のまま丁寧にたたむと、USBとともに封筒に入れた。
これで準備は完了だ。
これがちゃんとした証拠だと認められれば、大宮の謹慎は解けるはずだ。彼は実際のところ何もしていない。謹慎だなんておかしい。あの音をそんな理不尽な理由で奪われるなんて許せない。
「結局、自分のため」
ため息とともに吐き出した言葉は、一人の部屋で虚しく消えてゆく。
自分のためにしか動けない自分が、そんな自分を自覚している自分が、私は大嫌いで、しかし大好きなのだ。
偽善者と言われるよりいい。私は、私でしかありえないのだから。
USB入りの封筒は、然るべき場所に放り込んでおいた。敦賀の机に。
放り込んだその日は、やはり大宮の姿はなかった。事実関係の整理が終わるまで停学処分中らしい。
担任はその話をする時、一度だけ私の方を見た。私が微笑んで見つめ返すと、担任は一瞬だけ驚いた顔をし、すぐに切り替えて、違う話に移った。
隣の席の敦賀は、封筒に気がついてはいるようだったが、まだ封は開けていない。というのも、彼が登校してすぐにホームルームが始まったため、開ける時間がなかったのだ。
彼は封筒に気を取られているようだった。机の下で、封筒の中にある硬い何かを、封筒の上からなぞっている。
私は前を向きながらも、視界の端にかすかにちらつく敦賀の行動に意識を集中させていた。
早く開けろ。と念じながら。
結局のところ、敦賀はホームルーム中は開けなかった。ホームルームと一時間目の間の時間で、彼はそれを開けた。
私はその瞬間、次の時間の予習に集中している振りをした。敦賀の視線は確かに一度こちらを向いたが、私は何も気づかない振りをして、あえて視線を上げた。
互いの視線が交錯する。
敦賀は何かを言いかけて、何も言わなかった。ただ立ち上がって、教室を出て行く。
「詩音」
話しかけてきたのはさやかだった。
「何?」
問い返すと、さやかはにっこりと笑って聞いた。
「何したの?」
「鋭い」
「そんな雰囲気あったし、まあ、ちょっと事情も聞いたし」
私はちらりと舞ちゃんを見て、彼女が振り返ってこないことを確認した。
「また、マックかな」
「いいね。聞かせてね。ちゃんと」
「もちろん」
私はこういうことに関して、彼女に隠し事をしたりはしない。恋愛が絡むと沈黙したことは実はあったが、それ以外は基本的に全て話すと決めている。
私は面と向かってさやかに大切な親友だ、なんていうことはできない。でもその代わり、彼女にいくつかの秘密を打ち明けることで、彼女がほかの友人とは違うのだということを示すのだ。
放課後、計画の全容をすべてさやかに打ち明けた。舞ちゃんもまた、私が何をしたかはすべて知っている。しかしさやかだけが、私がどうしてそういう行動をしたのか、本当の理由まで含めて知っているのだった。
USBを敦賀の机に忍ばせてから二日後。私は早朝に学校についた。
今日もまだ大宮はいないだろう。そう思っていたが、下駄箱に靴を放り込むと、かすかに音が聞こえてきた。私は階段を駆け上がり、最後のほうは音を立てないように静かに歩いて、音楽室に近づいた。
間違いない。大宮だ。
彼が弾いているのは、モーツァルトのロンドニ長調 K.485だ。兄はこの曲が好きで、よく弾いていたのを覚えている。
そして大宮もまた、この曲を弾きこんでいるに違いない。簡単そうで地味に難しいこの曲は、下手をすると聞くに堪えないものになる。しかし彼はそれを美しくまとめあげていた。やはり上手い。
音楽室の入口近くの壁にもたれかかりながら、私は静かに耳を澄ます。
実は今まで、彼がどんな曲を弾いているかにはあまり注意してこなかったのだが、よくよく考えると、彼の曲の好みは、兄の松蔭奏楽のものとよく似ている。
弾き方もまた、誰かと似ているような気がしなくもないのだが、久しくプロの演奏を聞いていない私には、判断ができなかった。
「さて、描きますか」
あともう少しで絵は完成する。
スケッチブックの中に色づく桜を見つめると、私はその場にしゃがみ込み、色鉛筆を取り出した。
せっかく”音”を取り戻したのだ。絵を描かないともったいない。
こうして私は、ささやかな朝の楽しみを取り戻した。