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隠れて手を回し

 職員室というのは、どうしてこうも敷居が高いのか。


 扉をノックして、失礼しますと声をかける。通りかかった先生がこちらを向けば、誰々先生はいらっしゃいますかと聞く。

 いれば呼んでくれたり、自分がそこまで出向いたりするし、いなければ職員室を出る。

 言葉にすると大した作業じゃないけれど、これが意外と疲れる。


 たぶんそれは、職員室が学校ではなく、教師の職場、オフィスだからだ。子どもが生まれて初めて足を踏み入れるオフィスといえば、おそらく職員室であることが多い。

 学校という日本最大のブラック企業に勤める、彼らのオフィス、職員室。

 働くということを一番身近に感じられる場所であり、同時に教師も教師である前に人であることを垣間見る空間でもある。


「松蔭が来るなんて、珍しい」


 敷居が高くて嫌だといいつつ、私は担任の前に立っていた。

「聞きたいことがあるんです」

「数学じゃないよな?」

「違います」

「……大宮のことか?」

 私はこの担任を信用している。そして、こういう察しのいい大人は嫌いじゃない。

「はい」

「事件のことはまだ調査中だ」

 これは予想内の反応だ。彼は教師全体で統一されているマニュアル通りの反応を返したにすぎない。

「それは聞きました」

 そこまで言うと、私は周囲を見回し、声を潜めて聞いた。

「私が聞きたいのは、大宮優が毎朝早朝に何をしているか、知っているかどうかです」

 それは、劇的な変化だった。

 担任は何も言えずに固まった後、ふっと笑い出した。

 この反応は、おそらくイエスだ。

「鍵、三浦先生が渡してるんですか?」

 私がそうやって畳み掛けると、担任はふるふると首を横に振った。

「俺じゃないよ。誰がどうして、っていうのは、大宮に直接聞け」

「分かりました」

 担任は知っていたけれど、音楽室の鍵を渡した訳ではない。誰が、どうして、というところは気になるが、それは今はいい。

「さて、それで、本題は?」

 次を仕掛けようと思ったら、先手を打たれてしまった。

 やっぱり担任は察しがいい。

「私、あの音をこっそり聞くのが朝の楽しみなんです。それを長く奪われたくないので、ちょっと動こうと思ったんです」

「それで?」

 まずは言い訳をした私は、少し考えて、聞いた。

「西高のなんていう名前の生徒が殴られたのかは、教えてくれないって分かってます。ただ、私が知りたいのは、被害者の三人・・の顔をこの学校の先生は誰かご存知ですか?」

「いや。でも俺が今日、話を聞きに行くから、その時に会う予定だ」

彼はおそらく、私がさらりと三人の生徒と言ったことに気がついている。そしてそれを否定しなかった。被害者が三人・・の生徒ならば、私の立てた仮説は現実味を帯びる。

 それにいいことも聞けた。今日彼が会いに行くならば、問題の三人組が下校するのはかなり遅い時間になるはずだ。

「そうですか。ありがとうございました」

「終わりか?」

 話を切り上げようとした私に、担任はかなり不満げだった。それもそうだろう。私の行動は端から見ればちょっとおかしい。自覚はある。でも話すわけにはいかなかった。

「何か知ってるんだろ?」

「知っているかもしれません。でも、間違いかもしれない。だから判断は任せます。あ、あとこのことは内緒にしてください。大宮に興味があると周囲に知られるのは、居心地の良いものではないので」

 担任はまだ不満げだったが、最後の私の言葉には頷いた。彼は高校生の心の機微をある程度理解できる人だ。

 彼はきっと黙っていてくれる。

「先生は、どう思われますか?」

 ここで切り上げようと思っていたが、ふと思いついた疑問を口に出した。

「大宮はやっぱり無抵抗の生徒を殴ったと?」

「いや。殴った可能性がないとは言わないが、相手が無抵抗ではなかっただろうと思ってる。あいつの顔に(あざ)があったからな」

「でも、ほかの先生方は、大宮が無抵抗の生徒を殴ったと思い込んで話を聞かない」

 それは推測だったが、担任はおもしろいように黙り込んだ。それが事実だ。現実だ。教師というものは、非常に”前科”に敏感だと思う。それは必ずしも犯罪の”前科”だけではない。

 去年の担任がその生徒をどう評価していたか、あるいはその生徒の中学校が、どのような生徒だと内申書に書いたのか。それは”前科”となって積み重なって、一人の人間像を作り上げしまう。非常にバイアスのかかった人間像を。

 だから得てして、優等生は本質以上に信用されるし、問題児は本質以上に疑われる。

「だから、聞きに行くんだよ」

「そうでしょうね。では、失礼します」

「松蔭は……」

「?」

「松蔭は、やっぱり音楽から離れられないのか?」

 彼は私の家の事情を知っている。そして、どうやら私がピアノを弾いていたことも知っていて、黙っていたらしい。デリカシーのない教師は、すぐに私にピアノはどうしたと聞きたがるのに。

 こういうところが、やっぱり彼は信頼できると思わせる所以なのだ。

「音楽は蟻地獄なんです。外から見つめていれば害はない。けれど、中に入れば、もがくほどに埋まってしまう。まあ、それの良し悪しを決めるのは、その人本人ですが」

「松蔭詩音としては?」

「苦しかった。でももう、受け入れました。だから、私は他人の音を純粋に羨むことが出来るんです」

「受け入れた、か……」

 担任はまだ何かを言いたげだったけれど、私は一度礼をしてから、その場を去る。


 職員室を出たところで、私はある人物を見つけて足を止めた。

「舞ちゃん」

「詩音ちゃん……聞きたいことは聞けた?」

「……何のこと?」

 すっとぼけてみたものの、これはきっとバレている。舞ちゃんはゆるゆると首を振ると、いつものおっとりさを消した強いまなざしで私を見据えてきた。

「大宮君のこと。詩音ちゃん納得いってないんでしょう?」

 誤魔化すべきか、正直に言うべきか。

 そんな私の葛藤を見抜いたかのように、舞ちゃんはさらに言葉をつづけた。

「私は納得いってないよ。もし本当に殴ったのだとしても、きっと理由があると思う」

「どうしてそう思うの?」

「それは……」

「以前、舞ちゃんの身内か、それとも友達を助けてもらったから? それが原因で、大宮が警察にお世話になったからなの?」

 私がそう問い返すと、舞ちゃんは目を大きく見開いた。どうやら当たりのようだ。

「なんで、友達だって……?」

 身内ではなく、友達だったらしい。

「大宮が起こした事件の本当の原因を知ってるってことは、事件の当事者である可能性が高いと思った。でも違和感があった。舞ちゃんなら、助けてもらった恩はきっちり返すと思ったから。警察に大宮のほうが咎められたってことは、助けてもらった人間は証言してないってことでしょ? それなら、舞ちゃんには言えたけれど、警察には言いに行けなかった誰かなのかなと思ってね」

 偉そうにこう言っているが、この仮説があっているかどうかは50:50フィフティフィフティだと思っていた。いくつかの前提条件を私は知らなかったからだ。

「そっか……。すごいね。その通りだよ。千代ちよは言えなかったの。本当のこと。言わなきゃって言ったけど、あの子はダメだった……」

「だから、今回は助けたいって思ったの?」

「うん。詩音ちゃんは……どうして?」

 舞ちゃんの切り返しに、私はどう説明しようか悩んだ。ピアノのことを知られたくはない。私と音楽を結びつけるものは極力、皆の視界から排除したいのだ。

「……借りがある。だからそれを返そうと思って」

「詩音ちゃんも、助けてもらったの?」

「助けてもらった……うん。そういう言い方もできるかな」

 彼の音楽は果たして私を助けたのだろうか。私を蟻地獄へと引き込んだのではないのか。しかしながら、誰かのピアノを聴いて、純粋に賞賛できたのは久しぶりだった。

 兄のピアノは私を苦しめたし、母のピアノも同じだ。

 しかし他人のピアノは、やはり身内以上には響いてこなかった。

 それなのに、大宮優の音は、まっすぐに私の中に溶け込んできた。素人で、私よりもずっと下手で、だけど、彼の音は私にはない何かがある。

「もし……詩音ちゃんが何かしようと思うなら、手伝えないかな? あと、千代にも手伝ってもらいたいの。千代は西高だけど、だからこそ私たちより詳しい事情を知ってるかもしれないし」

「西高? あの三人組(・・・・・)と同じ?」

「三人組?」

 私としたことが、しくじった。

 これは私が知っていてはいけない情報なのだ。

「さっき、三浦先生がそう言ってた。被害者は三人だったってね。それより、その子、西高に通ってるの? 同級生?」

 本当はそんなことを担任が漏らすはずはないのだが、ここは素直にごまかされてくれることを祈るしかない。

「そっか」

 舞ちゃんは素直にうなずいてくれた。良かった。

「それより、その子、西高に通ってるの? 同級生?」

「うん。私たちと同じ二年生」

「手伝ってくれるかな? その子」

「彼女にできることなら。でも……何をするの?」

「そうね……その子の制服、舞ちゃんは着れる? 大きすぎるとか、そんなことはない?」

 舞ちゃんは小柄だから、彼女が小さくて着れない制服はおそらくないだろう。しかし逆は十分に考えられた。

「制服? サイズは、大丈夫だと思う」

 サイズは大丈夫。でも、どうしてそんなことを聞くんだろう。

 舞ちゃんはわかりやすい。

「上手くいけば、証拠を作れる(・・・)かも」

「証拠を作る? 偽造ってこと?」

 舞ちゃんの顔が渋くなった。彼女は正義感が強いらしい。いくら友達を助けたいと思っても、不正はしたくないのだ。

 とはいえ、私も証拠偽造だなんて面倒なことはしない。きっちり調べられて、あとからそれが偽造だと判明したとき、容疑者の疑いはさらに深まってしまうリスクもある。

「偽造じゃない。本物。もっというなら、自白(・・)()る。これでね」

 そういって私はICレコーダーを鞄から取り出した。

「自白? それに、どうしてICレコーダーなんて持ってるの?」

 もっともな疑問に、私はいいわけを考え忘れていた。何せ、事件が発覚したのは今日だ。私が一度家に帰っていないことは時間からして分かるだろう。つまり、私が普段からICレコーダーを常備していると簡単に推測できるわけだ。

「その……本当は、さやかに貸してって言われてたの。自分の音を録音して、家で個人的に聞きたいからって」

「ああ、さやかちゃんって吹奏楽部だもんね」

 困ったときの親友頼み。

 さやかなら、私の嘘には適当に話を合わせてくれる。これまでもそうだったし、きっとこれからもそうだ。

 だから私は、いつか、恩返ししなきゃいけない。できれば、彼女が望むことで。

「それで、自白って言うのは?」

「うーん。あくまでも可能性。でも、馬鹿なやつほど、自分たちの功績を口にしたくなるものだから。そういう状況さえ、作れればね。とりあえず、私は急いで家に帰って、スーツに着替えてくる」

「え、スーツ?」

 舞ちゃんは何がなんだか分からないと言ったような表情をした。

 私は歩きながら話そうと提案し、私の作戦の全容を舞ちゃんに話した。舞ちゃんはとりあえず証拠が偽造ではないことに安堵しているようでもあった。そして彼女はすぐに彼女の友達、千代に電話をかけた。


 上手くいくかは、分からない。

 でも上手くいけば、かなり強力な証拠になる。

 そして、私の計画は、動き始めた。


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