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でも、駆け出した

 私はいつもと変わらぬ時間に登校した。

 つまり、午前六時。

 そしていつものようにピアノを聞きながら絵を描く。窓の外の桜はとっくに散っているけれど、スマホの中の桜はいつまでも美しい。それを参考にしながら、適当に花びらを足し、色付けて行く。

 もうすぐ完成しそうだ。

 絵が完成したら、私はどうするのだろう。ただピアノを聞くためだけに来るだろうか。それとも、違う絵を描こうと思うだろうか。

 教室に戻りながら、私はそんなことを考える。

 いつものように教室では予習をして、ちょっと疲れたらスマホをいじって時間をつぶす。

「おはよう」

 午前八時。舞ちゃんがやってきた。この学校の朝のホームルームは、八時四十分スタートだ。つまり、舞ちゃんもまた比較的早く登校している生徒である。

「おはよう」

「それ、数学の予習?」

「そうそう。舞ちゃんはもう終わった?」

「うん。でも、二問目が分からなくて」

「数列難しいよね。私は関数のがまだ分かる」

「私はどっちも微妙」

「でも英語すごいできるじゃん」

 舞ちゃんは英語が得意だ。テストの点数は知らないけれど、授業の時の音読の発音がずば抜けて良い。耳には自信があるから、発音の善し悪しの判定にも自信がある。彼女の発音は、CNNラジオで流れてきそうなアメリカ式の発音だ。

「三年ほど、シカゴに住んでたから」

 シカゴか。それは発音もうまくなるわけである。

「いいなあ……アメリカ行ったことないんだよね。英語話せるようになりたい」

「詩音ちゃんもかなり上手だと思うけど……」

「まあ……ヨーロッパは親の影響でけっこう行ったから。英語を使ってたしね」

 母の演奏旅行についていった時には、ドイツ語やオランダ語はさっぱりなので、英語をしゃべらざるを得なかった。とはいっても英語もそれほど得意ではないので、もっぱら聞き専だったけれど。

「ヨーロッパ! イギリスとかフランスとか?」

 実際にはオーストリアやドイツのほうが多かったが、舞ちゃんに話を合わせておく。フランスも母が好きなので他の子よりも多く行ったのは事実だ。

「うん。そうそう」

「わあいいなあ……パリとか、行ってみたい」

 舞ちゃんには悪いが、パリは日本人が幻滅しがちな都市である。特にきれい好きには薦められない。パリに限らず、フランス全土が、比較的、衛生観念の緩い土地だからだ。

 とはいえ、建物の作りそのものは美しいので、町並みはきれいだし、おしゃれである。写真を撮るのにはいい。

 ケーキのショーケースに普通に虫が飛んでいたり、犬がカフェの椅子に堂々と座っていたり、東京ディズニーランド並みに存在する町のごみ箱がことごとく無視されて、たばこやゴミが散乱していたりしなければ、もう少し日本人の人気もあがるだろう。

 あるいは、旅行代理店はパリのうたい文句に一言付け足せばいい。パリは美しい街並みですが、清潔ではありません。これなら日本人の期待値が下がるので、幻滅率はさがると思う。もちろん、旅行意欲もそがれるので、そんな文句を付け加えることは現実ではありえないともわかっている。

「でも……やっぱりフランス語を話せないと旅行は厳しい?」

「いやいや。それだけ英語が喋れれば大丈夫。まあ、フランス語話せたほうが、便利ではあるけどね」

 東アジア人は英語もフランス語もダメな人が多いせいか、どちらかが話せればかなりほっとした表情をされる。それでも、母がフランス語を話した時のフランス人の愛想の良さを見る限り、やっぱり母国語のほうがいいんだろうなとも思う。

「おはよう」

 舞ちゃんとそんな話をしていると、敦賀がやってきた。

「おはよう」

「おはよ」

 私と舞ちゃんは彼に挨拶を返す。すると敦賀は、さっと教室を見回して、再び私たちを見た。

「ねえ、優を見かけなかった?」

「ううん。教室には来ていないと思うけど……」

 舞ちゃんがそう答えたので、私もそれに合わせて肩をすくめて見せた。彼が学校に来ているのは知っているが、私はそれを知らないことになっている。

「そう……。ありがとう。あいつ……どこ行ったんだ?」

 敦賀は何やらぶつぶつと言いながら、鞄を置いて教室の外に出て行った。

 大宮が教室に姿を現すのはホームルーム直前である。だからいつもならまだ大宮は教室にいなくてもおかしくない時間だ。それをわざわざ敦賀が確認するということは、敦賀と大宮はいつも、ホームルームの前は学校のどこかで時間をつぶしているのだろう。

「いつも一緒に来てるのかな?」

 舞ちゃんも同じことが気になったようだ。彼女は大宮が早朝にピアノを弾いていることなど知らないので、そんなふうに言った。

「うーん……どうだろうね」

 下手に話してぼろがでても困るので、私は適当に濁しておいた。


 それから二十分ほど経ち、副担任が教室にやってきた。クラスメイトたちは、みんな不思議そうに副担任を見た。なぜなら朝のホームルームはいつも担任がしているからだ。

「三浦先生が緊急の案件を抱えていらっしゃるので、今日は代わりに私が来ました」

 副担任の高い声が教室によく響いた。

 彼女の言った”緊急の案件”という言葉に、クラスメイトたちの視線は、ある一点に集まる。大宮優の席だ。

 私の隣の敦賀の席も空いているが、その空席はみんなの目には止まらないらしい。

 副担任はクラスの雰囲気を感じ取ったようだった。小さく息をつくと、長い髪を背中に流した。そしてもう一度ため息をついてから話し始める。

「どうせ噂になるでしょうから、正直に言います。本校に警察からの連絡がありました」

 警察。聞きなれないその単語に、私もまた、思わず大宮の席を見てしまった。そういえば昨日、大宮は殴られっぱなしになっていた。警察沙汰になるほどではないけれど、大宮の親が騒げば騒ぎにはなるかもしれない。

 そんなことを思っていた私は、次の瞬間、自分の予想が百八十度逆だったことに気付かされる。

「本校の生徒が、無抵抗の他校の生徒に殴りかかったという話です。今はまだ事実を確認中ですが――」

 副担任は話し続けるが、教室は一気に騒然として、誰も彼女の話を聞いていない有様だった。

 この話に対する反応は概ね似たようなものだった。

 やっぱり、あいつか。

 もし、私が彼の音を知らなければ、私も同じことを思ったかもしれない。否、そもそも興味がなくて、そんなことは他人事だと聞き流し、絵の題材に想いを馳せていたかもしれない。

 しかし私は知ってしまった。

 あの音を知った私は、大宮に興味がある。しかも昨日、殴られても殴り返さなかったあの男が、わざわざ他で事件を起こすとは思えなかった。

 大宮優は、クラスメイトが想像しているよりはるかに、忍耐力のあるやつだ。

「詩音ちゃん」

 舞ちゃんがちょっとこちらを振り返ると、敦賀の席に視線を向けた。

「敦賀君が大宮君を見つけられなかったのって……呼び出されてたから、なのかな?」

「たぶんね。本当・・に無抵抗の生徒を殴ったのなら、停学処分でしょ」

「そんな……。でも、大宮君はそんな人じゃない……。停学処分だなんて……」

 こんな風に舞ちゃんが大宮をかばうのは二度目だ。ただ、彼女がどうしてそう思うのか、私にはなんとなく予想がついていた。

「やってない証拠がない限り、お咎めなしって言うのは厳しいと思う。あいつはもともと目をつけられてるから」

 人間っていうものは、歳を重ねるにつれ、先入観に振り回されがちである。大宮は問題児なのだというバイアスをかけて見ると、たとえ本人が否定しても、それを信じることはできないだろう。

「証拠……証拠か」

 私は小さくつぶやいて、ちらりとかばんに目をやった。

 行動するかどうかは、もう少し事件について調べてからでも遅くはない。今はまだ、情報が足りなすぎる。



 私の隣の席は、二時間目が終わるまで空いていた。三時間目が始まる前に、珍しく不機嫌さを露わにした敦賀が戻ってきて、教室は一瞬にして静まった。

 全員が興味深げに彼を見るが、話しかけたら噛み付いてきそうな敦賀に話しかけられる猛者はいないようだ。ああいう話しかけにくい雰囲気は大宮の専売特許かと思っていたが、さすがあいつの親友とでもいうべきだろうか。

 敦賀はクラスメイトの注目を集めていることなど気にせず、席まで移動すると、派手に音を立てて椅子を引いた。

 苛立ちが音に積もっている。

 私がじっとその様子を見ていると、敦賀はこちらを向いた。

 目立つことはしたくない。そういうことは面倒だ。しかし私は時に、自分の欲望に理性が敗けることがあるのを知っていた。


「事情、聞いたの?」


 私がそんな質問を投げかけると、教室はバカみたいに静かになった。もともと静かだったけれど、更に静かになった。まるで完全防音の部屋の扉を閉めたみたいだ。

 尋ねられた敦賀は、そんな直球勝負を想像もしていなかったらしい。しばし目を瞬かせた後、大きく息を吐いて頷いた。

「どこの学校?」

 それでもまだ質問を続ける私に、教室が今度はかすかにざわめいた。しかし敦賀の返答を聞き漏らすまいと、みんなすぐに静かになる。

「何が?」

「被害者っていう自己申告した生徒の学校」

 私の物言いは、敦賀の心を幾分か和らげたようだ。私は分かっていてそういう言い方をした。

 私は知りたいことを知るために、できる努力は惜しまない。

「西高」

 そして、得られた答えは、私の期待通りだった。

 西高は正式名称ではない。ただ、私がメモしたあの高校をそう呼ぶのは分かっている。それだけで十分だ。

「なんで、笑ってるの?」

 かちりと音を立てて組み上がった仮説が、あまりにも素晴らしい出来だったからだ。

 しかし苛立っている敦賀に、そんなことを正直に言いはしない。それに、断定するにはまだ、ピースがいくつか足りない。

「大人しく殴られそうな生徒が思いつかないと思って。みんな強そうなイメージだったから」

 副担任は他校の生徒が無抵抗に殴られたと言った。だから私はただ、愚かなふりをした。西高の生徒がみんなガラが悪いわけではないが、そういうイメージのある学校だ。

 今の一言で、賢いクラスメイトには、私の“偏見たっぷりの”意見が伝わったはずだ。

「松蔭は……」

 敦賀は何かを言いかけた。しかし、国語の教師が入ってきて、私はあえてそちらを向いた。

 すると、私より前に座っているさやかが、ちらりとこちら向いた。

 彼女はきっと、私が嘘を言ったことに気がついている。私が笑った理由を推し量れずとも、先ほどの言葉が本心ではないとわかっているのだ。

 私はちょっとだけ笑って、そして、後でと口だけで言った。するとさやかも小さく頷いて前を見る。


 私は時に、欲望が理性に打ち勝ってしまう。でもそれを後悔することはきっとない。

 それが私が私である理由だから。

 そう、だから、私は自分に出来ることをして、大宮の冤罪を晴らしたいと思っていた。

 彼のピアノを、聴くために。

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