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興味なんてない

 大宮のピアノは、私の心を軽くする。

 それは私にとって奇跡のような出来事だった。人を惹きつける音は、弾けない私を責め立てるようで、むしろ遠ざけたかったものだったはずなのだ。

 私は今日も彼のピアノを聞いてから、教室に戻る。そしてぼんやりしているうちにさやかが来て部活に行き、戻ってきて、ホームルームが始まるのだ。

「大宮優」

「……」

 担任が出席をとるために名前を呼んだ。大宮はこれに一度も答えたことがない。かすかに反応はするが、返事はしない。

 担任は五秒ほど彼を見つめた後、次の人の名前を呼ぶ。担任が大宮に返事をしろと言わないのは、あきらめているからなのか、それとも待っているからなのか。

 さらさらとクラスメイト達の名前が呼ばれてゆく。声が小さい生徒はいても、大宮のように担任を無視するやつはいない。

「松蔭詩音」

「……はい」

 名前が呼ばれて、私はそれに答えた。松蔭という名前が呼ばれるたびに、私は妙に脈が早くなってしまう。それが自意識過剰だとわかっていても、そうならずにはいられない。

 クラシックの世界では、”松蔭まつかげ”はかなり有名な苗字だ。今どきの高校生が、対してクラシックに興味がないのは百も承知で、それでもバレるんじゃないかとおびえてしまう。

 無邪気にピアノを弾いてよ、なんて言われたら、私はどんな顔をするだろうか。

 朝のホームルームから、そのまま数学の授業に入った。担任は教科書を開くと、生徒を数人当てて問題を解かせた。問題は予習の段階で解いているという前提で授業は進められる。授業スピードは速いが、この学校の生徒は要領がいいから、予習をきっちりしているか、真面目に予習をしているほかのクラスの子にノートを借りて授業を乗り切っている。まあ、中には予習なんてしなくても、初見で解ける天才肌もいるが。


 私はみんなが数式を描いている間に、前の黒板をぼんやりと見つめると、ノートに無意識のうちに落書きをしていた。

 描いているのは教室だ。誰もいない教室。ノートの四分の一ぐらいを使ってどうどうと描いていると、ふと隣の席から視線を感じた。

 敦賀だ。

「松蔭って……絵、うまいんだね」

 この男の、全てを見透かしたような視線が苦手だ。

「……ありがと」

 私はそういうと、次のページをめくって、自分の絵を隠した。

 敦賀は、私が彼の親友のピアノを聞いて絵を描いていることを知ったら、いったいどんな表情かおをするだろう。そもそも、敦賀は知っているのだろうか。大宮がピアノを弾くことを。

 担任が生徒の書いた数式を手直ししていく。それがあらかた終わると、教室の後ろの黒板へと移った。

 あと三人くらい当たるだろう。担任はかなり無差別な当て方をするので、私も当たるかもしれない。

「じゃあ次は松蔭」

 ほら、やっぱり。

「あと花柳と……」

 さやかの名前が呼ばれて、ちらりとそちらに視線を向ける。さやかの口が、教えて、と動いた。あの子はあまり数学が得意ではない。あの様子だと、予習もやっていないに違いない。


「大宮」


 その名前が呼ばれて、教室が一気にどよめいた。

 一年生の時は同じクラスではないから知らないけれど、すくなくとも二年生になって、彼を指名した教師は担任が初めてだった。

 大宮は、授業の時、机の下でいつも本を読んでいる。ブックカバーをかけているからわからないけれど、みんなあれは漫画なのではないかと思っていた。大宮が勉強しているなんて、なんとなく想像できなかったのだ。

 だから教室のほとんどの生徒が、大宮と担任を見比べてハラハラしているようだった。大宮が数学なんて解けるわけないと、教室の空気がそう言っていた。

 しかし私は、少し違う見方を持っていた。彼はおそらくあっさりと問題を解いて見せるはずだ。中学の時に素行不良だとレッテルを張られながら、それでもこの進学校に来れたのだ。頭が悪いはずがない。


「……はいはい」


 大宮はしぶしぶといった様子で立ち上がると、教科書を掴んだ。

「どこ?」

「P78の大問3」

 その答えを聞くと、大宮は後ろの黒板へと歩いた。そして、教科書の問題を見ながら、さらさらと答えを書いていく。初めて見る大宮の文字は、悔しいくらいに上手だった。手先が全般に器用なのだろう。

「松蔭、花柳も」

 そうやって担任に言われて、初めて私とさやかは自分たちも当たっていることを思い出した。二人で視線を交差させて、そして少しだけ笑った。

 私はさやかに小声で解き方を教えながら、自分の分を進めていく。私は部活に入っていないので、真面目に予習をしている。だから特に問題もなく解いていった。もちろんわからない問題もあるが、そこを当たったら、正直に言えばいい。分からなければ授業前に聞きに来いという教師もいるが、私たちの担任はそういう理不尽なタイプではない。

「三人とも優秀だな……ほとんど直すところはない……かな」

 そう言いながらも、担任は私たち三人の回答に赤いチョークで直しを入れていく。私もさやかも大宮も平等に。そして別解についても触れながら解説を進めていく。

 私は席に戻ると、大宮の解答を眺めた。

 おそらく彼は初見であれを書いたのだろう。それにしてはよくできた解答だった。時間をかけた私よりも、ずっといい解答だ。

 ふと気が付くと、教室にいる全員が、大宮の解答を凝視していることに気が付いた。私とさやかの解答なんて存在しないみたいだ。みんな彼があっさりと数学の問題を解いてしまったことに驚いているようだ。

 ほかの教師はまだ、誰も大宮を当てていないから、彼の優秀さが発揮されたことがなかったのだろう。この学校の教師の多くは、大宮を煙たがっている。あまりこういう生徒を相手にしないから、扱いづらいのだ。

 そういう意味では、私たちの担任は非常にフラットな人間だった。彼は誰のことも特別扱いしない。まだ授業で当たっていない生徒もいるのに、大宮を当てたのは、おそらく彼が本当に大宮のことを他の生徒と同じように扱っているからなのだろう。

「……悪くない」

「何が?」

 ぼそりと呟いた担任への賛辞は、耳聡く隣の席の敦賀に聞かれたようだった。

「担任」

「ああ」

 短く答えると、それだけで敦賀は察したようだ。彼もきっと同じ感想を抱いているのだろう。

「松蔭はやっぱり優が気になるんだね」

 敦賀の声が低く響いてくる。視線が突き刺さる。大宮優を傷つけるのは許さないとばかりの、鋭い視線。

「……気になるね。なんで敦賀がそんなに大宮にべったりなのかとか」

 私はあえてそう言って、じっと敦賀を見つめてみた。上手くいけば、彼は勘違いしてくれるだろう。私が本当に興味を持っているのは敦賀なのだと。

 私は大宮のピアノについては敦賀に話すつもりはない。彼のピアノを聴けなくなるのは惜しい。

 しかし逆に言えば、あの朝の時間が守られるなら、敦賀にあらぬ誤解をさせてもいいと思った。

「……俺に興味があるの?」

 敦賀はそんなわけないだろう、という声を出した。それがあまりに本心から出た疑問のようだったので、私は逆に驚いた。

 自分を好きになって当然だと思うような自惚れやではなかったようだ。

「さあ?」

 私はそれを否定も肯定もしなかった。敦賀のように察しのいい男には、嘘をつかない方がいい。上手く誘導して煙に巻いた方が、混乱してくれるのだ。

 思った通り、敦賀はそれ以上追及してこなかった。彼なりに考える時間が欲しかったのだろう。私の真の目的は何かということについて。


 教えてやらない。


 私はそんな風に思って、授業に意識を戻した。






 放課後、私はさやかにバイバイを言ってから、お気に入りの場所に行くことにした。

 それはこの街で一番大きな川の土手だ。階段の上から数番目の位置に座り、川を見下ろすのが好きだった。知り合いに会いたくないので、わざわざ学校とは反対側の土手に私はいる。


 今度の絵の題材にしたいと思い、今日はビデオを持ってきていた。ビデオを回して川の様子を取る。そしてビデオをあげ、川と土手の両方を撮っていると、階段を降り切ったところに、見覚えのある顔が現れた。


 大宮優だ。


 彼はおもむろに川岸の小石を取ると、それを放り投げて水切りを始めた。案外うまいようで、石は数回跳ねて水面を滑って行く。

 私は意識的に大宮を画面から外した。このビデオカメラは学校にも持っていくから、彼が画面に長々と映るのは危険だと思ったからだ。

 あまりズームしていないので、知っていれば分かるくらいの映り方だが、リスクを負ってまで大宮の姿を撮る意味はない。

 私はビデオカメラを、大宮のいる位置よりもっと川上の方に向けた。

 すると、なんだか明らかにガラの悪そうな高校生三人が、画面に映り込んだ。


 綺麗じゃない。


 私は舌打ちをして思わず大宮の方にカメラを背けた。しかしそのガラの悪そうな三人は、カメラに映りたいのかと思うほどぴったりと画面の中に入り込んできた。

 厳密には、彼らのお目当ては大宮優だったようだ。

 私はその不穏な空気に、思わずカメラをズームして、四人をぴったりと画面に収める。すると一言二言、その三人と大宮が言葉を交わした後、三人のうち一人が大宮の顔を思い切り殴った。

 横っ面を張られた大宮は、その衝撃でよろめく。

 今度はズームアウトで、四人全員がぎりぎり画面に収まった。大宮は、よろめいたものの、殴り返す様子はない。それどころか、小さく肩をすくめると、そのまま川下のほうへと歩いていく。

 残された三人は、一度追いかけようとして、なぜか立ち止まった。そして何を思ったのか、三人のうち一人が、残りの二人を思い切り殴った。殴られた二人はというと、なぜかへらへらと笑っている。そして、先ほどは殴る側だった人が、今度は殴られている。

 私はなんだか嫌な予感がして、ビデオカメラを停止し、カバンに収めた。そしてできるだけ自然に立ち上がると、ゆっくりと階段を登り、川から離れる。

 川向こうとは距離があるので大丈夫だとは思うが、ビデオで撮影していたのがバレたら面倒なことになっただろう。

 私は振り返らなかった。ただひたすらに歩いた。

 川からだいぶ離れて大通りに出ると、ようやく自分が緊張していたことに気がついた。

 呼吸が乱れているし、手が微かに震えている。

 早く帰らなければ。

 そう思って歩いていると、先ほどの三人が来ていた制服と同じ制服を着た坊主頭の男の子とすれ違った。

 おもわず彼の持っていたエナメルバッグを確認すると、高校名が書いてあった。スポーツには強いが、偏差値はさして高くない公立校だ。

 私はその名前をスマホのメモに書いておいた。

 そして家に着き、カバンをベッドに放り出すと、ピアノの前に座る。

 夢中で何曲か弾き、ここでようやく、私は大宮の行動について考えることができた。

 彼は殴り返さなかった。ただ、一方的に殴られただけだった。


『警察沙汰になったのは、同級生を助けたからなの』


 舞ちゃんの声がふと蘇る。

 やはり大宮は思っていたよりは随分とまともで、思っていたより我慢強そうだ。

 結局その後も、ピアノを奏でながら、先ほどの出来事についてばかり考えていたのだった。

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