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あの日を思い起こさせる

「あの大宮くんがピアノ!?」

 さやかが珍しく大声を出したせいで、周りに座っていた客が驚いたようにこちらを向いた。

 学校から少し離れたマックだが、知り合いがいないとは限らない。

「ちょっと、声が大きい……!」

 私が慌ててそういうと、さやかははっと我に返って周りを見回した。

「ごめん。でも、まさかあの人がピアノだなんて」

 さやかはコーラを口に含むと、それをゆっくり飲み込んで、息を吐いた。

「私も驚いた」

「上手なんだよね? だって詩音が聴きたい、って思うなんて」

「まあ……そうね。奏楽(そら)にいよりは、下手だけど」

「あたりまえでしょう? プロのピアニストと比べてどうするの」

 私の兄、松蔭奏楽(まつかげそら)は、ピアニストだ。ちなみに母もまたピアニストである。父は楽器メーカーに努めている技術者で、ピアノの調律もできる。つまり私の家は見事な音楽一家なのだ。

 そういう関係で、私も一応ピアノは弾ける。幼い頃から、一日何時間もピアノと向き合っていたのだから。しかし、ピアニストとして生きていくには、物足りない。自分の音に耐えられない。中学校の時にそれを悟った私は、それ以来、本気でピアノと向き合うのは止めた。

 そうすると暇になった。一日何時間も弾いていたのに、三十分程度で止めるようになったのだから。

 そうして何時間もピアノに割いていた時間を持て余した私が、次に手を出したのが絵だったのだ。

「それもそうね。……はあ。なんであんなに、聴かせる音を出せるんだか……」

 私に足りなかったのは技術ではない。技術だけは、むしろあったといっていい。手先は器用だったので、譜面通りに弾けない曲はそうそうなかった。幼いころは天才ピアニストと呼ばれたものだ。ただ、同い年の子より難しい曲が弾けるというだけで。

 しかし年を重ねるにつれて、私は大きな壁にぶち当たる。

 人の心をつかむような、光る”何か”が、私には無い。他人に技術を褒められても、私は私のピアノを愛せなくなっていた。

 しかし、その人心をつかむ”何か”があの大宮優のピアノにはある。

 

「私……詩音のピアノ好きだったよ。ちゃんと、届いてた」


 頭の中で大宮のピアノの音を追っていると、突然さやかが真剣な顔をしてそんなことを言った。彼女はすべてを知っている。私がピアノに全てを懸けていた時期も、それを放棄した理由も、それでも、完全には手放せずに、毎日ピアノに触れていることも。

「ありがと。私も好きだよ。さやかのトランペット。上手くなっててびっくりした」

 さやかは中学の時からトランペットを吹いている。中学一年生の時は、レギュラーを取りたいから、演奏を見てほしいと頼まれて、私の家で練習したことも少なくない。それからはあまり彼女の演奏を聞いたことがなかったのだが、去年の文化祭でさやかがとても上手になっていて驚いた。

「詩音にそういわれると、自信つく」

「全国大会出場したら、また聴きに行くわ」

「全国大会に出場したら、ってところがさすが詩音って感じだね」

「そりゃ、せっかく一日費やすなら上手い演奏を聴きたいし」

 私はそう言ってポテトを何本か口に放り込むと、手についた塩をなめた。そして紙ナプキンで手をふく。

「それで……何の話だっけ? あ、そうそう。舞ちゃんに聞いたのは、大宮が中学の時どんな奴だったのかって話。問題児だ、不良だ、ってさんざん言われているけど、高校では特に何もしてないじゃない」

 話しかけにくい見た目だし、まともに話そうともしないが、同じクラスになってからあの男が学校を休んだのをまだ見たことがなかった。

「そういわれると……そうだね。それで、舞ちゃんはなんて?」

「そもそもあんな評判になったのは、警察沙汰になったことが原因らしいんだけど、同級生を助けるための喧嘩だったらしい」

 喧嘩して警察沙汰になったことには変わりはない。しかし、むやみやたらに人に手を挙げる暴力男のようにも見えなかった。この学校では大きな問題は起こしていないし、何より彼の音は美しい。

「あー私も聞いてみたいな。詩音がそんなに気にいるなんて」

「朝早く学校に来ればいいじゃない」

「何時?」

「六時」

「えー! 無理無理!」

 さやかは大仰に驚いて、首をぶんぶんと横に振った。

 これが普通の反応だろう。上手いとはいえ、素人の演奏のために朝六時に学校に到着するのは正気の沙汰ではない。

「でも……やっぱり詩音は音楽から逃れられないんだね。どれだけ絵に力を入れたとしても」

 私は美しいものを愛している。それが音であれ、景色であれ。

 そのためには早起きも、あるいは夜に出歩くことも厭わない。前は全て音楽に費やしていた。だからこそそれを埋める代替品が必要だった。

「音楽はもう体の一部だから。無理に引き剥がそうとしても、痛いだけみたい」

 一時期、完全に音楽を絶とうとした時期がある。しかしそれは全くうまくいかなかった。完全に切り離そうとするには、私は音楽に近すぎた。完全防音とはいえ、隣の部屋は兄が、向かいの部屋は母がピアノを弾いている。音が聞こえずとも部屋の中は音楽の気配で満ちあふれている。

 そしてなにより、私自身の部屋にもピアノがあるのだ。

 ピアノを視界に入れているのに、それを弾かないというのは、ピアノに対する冒涜のようにすら思えたのだった。とはいえ、しばらくの間は本当に触れることすらしなかった。しかし、そうすることで、絶ったはずの音楽が、より切実に迫ってきてしまって、弾きたい衝動が抑えきれなくなったのだ。

 だから、方向転換した。

 一日三十分だけ、気まぐれに弾く。練習ではない。弾きたいものを、さらさらと、適当に。そうすると、前よりは激しい衝動に駆られずにすんだし、絵というほかの趣味に没頭することもできたのだ。

「引き剥がせないのに、また真剣にはやろうとは思わないの?」

「思わない。私は、自分の音を愛せないから」

 私がそうすっぱりと言うと、さやかは一度うなずいて、コーラを静かに飲んだ。彼女は私が弾けなくなった時期を知っている。そして、私の友達で唯一、私がピアノをやめることを”もったいない”と言わなかった人物だ。

「ねえ、絵は好きなの? 詩音自身の絵」

「……考えたこともなかったな。そうだね……好きだと思う。絵を描くのは好きだし、もっと上手くなりたいとも思うから」

 おそらく、絵とピアノを比べたら、ピアノの方が才能はある。私自身が私の音楽を許しさえすれば、ピアニストになれただろう。絵では食べてはいけないと確信している。人よりは上手いと思うけれど。

 しかし、ピアニストになるつもりで才能があるなしを判断するのと、絵は趣味だと割り切って才能を判断するのでは、心持ちが百八十度違う。うっかりイラストレーターなり画家なりを目指したとたん、私は絵が嫌いになるに違いなかった。

「あのさ」

 ぼんやりと考え事をしていると、いつのまにかさやかが真剣な表情でこちらを見つめていた。彼女のまとう空気が張り詰めている。まるで誰かに告白するみたいだ。

「どうしたの? 改まって」


「今度、ピアノ弾いてくれない? 詩音のピアノ、聴きたくなっちゃった」


 うん、いいよ。

 そう答えるつもりだった。


 でも、口を開いても、声はでなかった。代わりに発せられたのは、全く別のもの。

「ごめん。まだ、無理」

 自分で言っていて、びっくりした。さやかはかすかに目を見開いて、そしてふるふると首を振った。

「ううん。いいの。ありがとう。ごめんね」

「謝らないで。私が……まだダメなだけ」

 ピアニストになることをあきらめた私は、人前で演奏することもやめた。完全防音のあの部屋の中で、自分のためだけに弾いている。

 それでも、今なら弾けると思った。さやかのためならば。

 しかし表層心理でそう思っても、深層心理に拒絶されればかなわない。


 そのあと私とさやかはたわいのない話で盛り上がった。ピアノの話なんて、まるでなかったかのように。

 





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