風に揺れる桜は
「相変わらず早いね詩音。もう一週間も」
「さやかも十分早いけどね」
七時前、私の親友のさやかが登校してきた。彼女は私が絵を描くことを知っている唯一の友達だ。
私は大宮のことは伏せて、ただ絵を描くために来ているとだけ彼女に伝えている。さやかは私の絵に対する執念を知っているので、特に驚かないらしい。
「吹奏楽部の朝練だから、しょうがない」
彼女は吹奏楽部でトランペット奏者だ。
「そっか。頑張れ」
「うん、行ってくる」
毎朝この時間にきて、教室に鞄だけ置いておくらしい。私も朝早く来るようになってから知った。
学校の時間というのは、思ったよりも早くから動いているらしい。
大宮がピアノを弾くのは六時半まで。でも、なぜか彼は弾き終わったあとすぐには教室に来ない。もちろん、彼がすぐ戻ってくるようでは、私は教室にはいられないが。
さやかのいなくなった教室は、再び静けさを取り戻していた。
私は誰も来ないことを確認して、そっとスケッチブックを開いた。
絵はすでに色鉛筆で色を塗っている段階だ。窓の外の桜を描いたのだが、我ながらよくかけていると思う。ただ、この絵の中にあの”音”があるかと言われれば、それには首をかしげざるを得ない。
目に見えないものを可視化するというのは、想像以上に難しい作業だ。まさか音符を描くわけにもいかないし、どうしたらよいのか、扱いに困る。
私はスケッチブックを閉じて、鞄の中に放り込んだ。
本音を言えば、着色は透明水彩を使いたかった。ただし、絵具で着色となると、音楽室前の廊下では描けない。
実を言えば今いるこの教室でも音色は聞こえてくる。だから最初はここで着色しようと思った。
しかし、流れてくる音に耳を澄ましていると、どうしても近づきたい衝動を抑えきれなかった。その結果、透明水彩を諦め、色鉛筆で着色しているのだ。
「そういや……なんであいつ、音楽室に入れるんだろう」
大宮優に関しては、いくつか疑問がある。
どうしてあんなに遅い時間や早い時間に音楽室に入れるのか。
どうしてあんなに皆から遠巻きにされているのか。
それなのに、どうしてあんなに心揺さぶる演奏ができるのか。
考えても仕方のない疑問があふれ出してくる。
一と三の疑問はどうしようもないが、二の疑問は解決できる。
彼が一体何をして、あんな風に言われているのか。それは誰かに聞けば解決できるだろう。
彼と同じ中学だった子にさりげなく聞けばいい。その代わり、間違っても私が大宮に興味があると思われてはならない。聞き込みには細心の注意を払う必要があるだろう。
私がスケッチブックを閉じて鞄にしまい、しばらくぼんやりとしていると、生徒が少しずつ教室に入ってくる。おはようとそれぞれに挨拶をしながら、英語の予習に手を付けた。進学校のため、授業スピードはかなり速い。こうやって予習をしていれば、少しくらい早く学校に来ても、周りの子に不審がられることはない。
「おはよう。最近早いね」
「おはよう。ちょっと早起きする気分なの」
私に話しかけてきたのは、前の席の舞ちゃん。おっとりしていて可愛らしい女の子だ。私は笑顔で彼女の挨拶に応えた後、あることに気が付いた。
「舞ちゃんって……北第一だっけ?」
「うん。なんで?」
北第一中学校とは、大宮優が通っていた中学校の名前である。
「いや……そういえば大宮と同じなんだなって思って」
「そうそう。詩音ちゃんは……大宮君のこと、どう思ってるの?」
舞ちゃんはおっとりとした口調で、しかし、真面目な表情で尋ねてきた。私は少しだけ答えに悩んだ後、正直に答えることにした。
「掴みどころがない奴」
すると、舞ちゃんは目をかすかに見開いた後、ふっと笑顔になって言った。
「そっか。大宮君は……みんながいうほど酷い人じゃないよ。ただ……確かに喧嘩はよくしていて、痣だらけになってはいたけど」
「痣だらけ……授業は出てたの?」
「よく遅刻してたけど、休むことはあんまりなかったよ」
私はこの後なんと質問すべきか悩んだ。どうやら舞ちゃんは、大宮に対して他の人が持つほど悪いイメージを持っていないらしい。それなら、彼女の考えに共感しておいたほうが、彼女もしゃべりやすいだろう。
「そっか。なんか、見た目よりまともそうだから、なんであんなに問題児って騒がれるのかなって思って」
私がそういうと、舞ちゃんは明らかにほっとしたような表情になった。そしてそっと私のほうに顔をよせ、小さな声で言った。
「たぶん、一度、喧嘩で警察沙汰になったからだと思う。でも……それ、大宮君のせいじゃ――」
「――おはよ。優がどうかした?」
舞ちゃんが話している途中で、敦賀朝陽が話に割り込んできた。敦賀は笑顔だったが、視線はひどく冷たかった。親友の悪口は許さないとばかりに私たちを見つめている。舞ちゃんはびくりと肩を揺らした後、ふるふると首を横に振る。
敦賀は、それならいいけど、と言って私の右隣の席に座った。
「また話を聞かせて」
私は開いていたノートに書くと、トントンとそれをたたいた。舞ちゃんはそれを見ると、一度うなずいて、そして前を向いた。
敦賀は短いこざっぱりとした黒髪に、切れ長の目が特徴的な男だ。世の女子はこれをイケメンと呼ぶ。敦賀はかなりクールな男だが、大宮ほど見た目が怖くないので、女子にもてる。今の今まで誰の誘いも受けていないようだが、話しかけられれば返すぐらいの愛想はある。男子ともそれなりに仲良くやっていて、要領のよい印象だ。
大宮は派手な男という印象を取り払えば、かなり美形だ。しかしやはり怖い奴という印象が強すぎて、あの男に話しかける女子はいない。女子はおろか、男子でさえも遠巻きにしていて、まともに話しているのは敦賀くらいなものだ。
「松蔭」
ぼんやりとしていたら、右隣の敦賀に話しかけられた。
「何?」
「優のこと、気になる? それなら、俺が話そうか?」
大宮も謎だらけだが、敦賀もまた、読めない男である。それにこの男は非常に察しがよさそうだ。下手をすると私がピアノの熱狂的なファンであることもバレてしまうかもしれない。
「北第一中学校の話になったから、その流れで大宮……君の話が出ただけ。わざわざ敦賀……君に聞くほど興味ない」
普段心の中で呼び捨ててしまっているせいで、君付けするのにもたついてしまった。するとすかさず敦賀が、読めない笑みを浮かべて言った。
「無理して君付けしなくていいよ」
「……そう。じゃあ敦賀って呼ばせてもらう」
断ろうか悩んだが、断ったところでこのぎこちなさはとれないだろう。それならば本人に許可を取ってしまったほうが後々楽だ。
「優の話はいいの?」
「興味ないって言ってるでしょ」
そっけなくそういうと、自分の手元のノートに視線を落とした。これ以上話していると、ぼろが出てしまいそうだった。右隣から視線は感じていたが、私が顔を上げないでいると、彼もまたあきらめたようだった。
昼休みを告げるチャイムが鳴ると、教室は一気に騒がしくなる。
敦賀は立ち上がると、大宮と二人で教室の外に出て行った。おそらく購買に昼ご飯を買いに行ったのだろう。
二人が教室に出たのを見届けると、私は前の席の舞ちゃんに声をかけた。彼女はお弁当をちょうど机の上に出したところだ。
「ねえ、あいつのせいじゃないって、どういうこと?」
小さな声でさっと尋ねると、舞ちゃんはちらりと廊下に視線をやった後、口を開いた。
「警察沙汰になったのは、不良に絡まれていた同級生を助けたからなの。相手が悪くって、大宮君が悪い、ってことになっちゃったけど……」
「ああ……なるほど。……ありがと」
私がお礼を言うと、舞ちゃんはまだ何か言いたげにこちらを見つめていた。
「詩音。ごはん食べよ」
しかし、さやかの明るい声が聞こえると、舞ちゃんはびくりと肩を震わせて、そして立ち上がった。
「ここ使って」
「いつもありがと。私の席も使って」
「うん」
さやかの隣の席は、舞ちゃんの親友の里香ちゃんがいる。そのため、さやかと舞ちゃんはいつも互いの席を使ってお昼を食べるのだ。
「ねえ、何を話してたの?」
さやかが舞ちゃんの後姿を見送りながら訪ねてきた。彼女は舞ちゃんの椅子に座ると、私の机にお弁当を置き、包みを開く。
「ん……ちょっと後で」
自分の弁当の包みを開きながら、廊下にちらりと視線をやった。まだ帰ってきていないようだが、いつ帰ってくるかわからない。大宮と敦賀は、敦賀の席で昼食をとることが多いので、会話が筒抜けになる恐れがある。
「今日は暇? 部活オフだから久しぶりにマックでのんびりしない?」
すると、さやかは空気を読んでそんな提案をしてきた。
「いいね。じゃあ放課後に」
私がそう言い切ったところで、大宮と敦賀が教室に入ってきた。私は視界の端に二人を捉えながらも、さやかと話を続ける。
「絵の進みはどう?」
「いい感じ。透明水彩ならもっと良かったのに、とは思うけど」
「透明水彩? 普通の絵の具とは違うの?」
彼女の言う普通の絵の具とは、学校で一般的に買わされる絵の具のことだろう。
「学校で使ってたのは不透明水彩。不透明水彩は明度を絵の具で調節するけど、透明水彩は水量で調節するの。それに透明水彩は透けるから、二つの色を重ねることができる」
「んーよくわかんないけど、透明っぽいのが透明水彩ってこと?」
「そう」
絵を描かない人に絵の具の細かな違いを説明しても仕方がない。それにさやかの言っていることは、的を射ているから尚更だ。
話し終えたので、ぱっと目に止まったお弁当の卵焼きを口に運んだ。すると、敦賀の前の席、つまり、私の斜め前の席に座っていた大宮も、買ってきたお弁当の卵焼きを食べているのが視界に入った。
「ごほっ」
「大丈夫?」
それに気がついた私は、卵焼きが変なところに入ってむせてしまった。決して隣は視界に入れないように気をつけながら、心配そうに覗き込むさやかに、頷いてみせた。
「うん、ちょっとむせた」
大宮が私を見ることはない。今までも、これからも。私はそんなドジをしないはずだ。
しかし敦賀には気をつけなければ。
さやかだけを見ていても、どことなく感じる視線。これは敦賀朝陽のものだ。恋情なんかとんでもない。その視線の理由はただ一つ。
警戒心だ。
親友を害するかもしれない女の。
どうやら私は、思ったよりも面倒な状況にあるようだ。
しかしそれでも、私はまた早朝に学校に来る。大宮が弾き続ける限り。私が描き続ける限り、ずっと。