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夜にきらめく

 午前六時。

 毎朝こんな時間に高校にいるなんて、私はどうかしてる。

 でも、どうしても来ずにはいられなかった。

 私は廊下に座っていた。教室と教室の間の壁にもたれかかって、一心不乱に絵を描いていた。

 廊下の窓から見える光景を描くためじゃなく、この場所まで響いてくる”音”を絵にのせるために。

「どうして、大宮なの……信じらんない」

 私を突き動かしているのは、ピアノの音色だ。

 それも、この学校で一番の問題児が弾くピアノ。本人のイメージとはかけ離れた、切なく甘く、優しい音。

 止めたいと思うのに、私は毎朝ここに来て、絵を描いている。もう一週間も、だ。

 でも、仕方がないのだ。

 

 だって出会ってしまったのだから――あの”音”と。






 私がその”音”と出会ったのは、偶然だった。

 部活に入っていない私は、朝早く学校に来ることも、夜遅くに学校に来ることも、まず無いといっていい。しかしある時、友達と夜桜を見に行った時、無性にそれを描きたいと思った。

 それもなぜか、学校の夜桜がいいと思ってしまったのだ。


 私が部活に入っていないのは、絵に費やす時間をできるだけ長くしたいから。できるだけ多くの美しい風景と向き合っていたいからだ。そして絵に対する衝動は、私は抑えることができない性質だった。


 その日、私は学校にできるだけ長く残り、完全下校時間間際でトイレにこもった。扉は閉めず、一番奥のトイレでじっとしていると、見回りの先生は誰もいないと思ってくれたようだった。

 私は廊下の窓を開け、そっと校舎の外に降り立った。窓を閉めると、上靴は鞄に入れ、持っていた外靴を履く。そしてあらかじめ決めていた場所まで歩いて行った。

 そこは、防犯のためか一日中灯りが点いている場所だった。

 外灯の小さな光だが、その傍にある桜の木の枝がしだれかかっており、少し不気味な美しさを放っている。時折吹いた風が、桜をゆっくりとまき散らしてゆく。

 私はスケッチブックを取り出すと、目の前の光景を紙に移し始めた。携帯電話のライトだけで書くのはおぼつかなかったが、少し線がゆがんでいてもいいと思った。

 もっと他に、美しい景色はあるだろうが、今私が描きたいものは、これなのだ。

 私がそうやって集中し始めたときだった。


 誰もいないはずの校舎から、何か音が聞こえてきた。

 音――ピアノの音色だった。

 かすかに聞こえてくるその音色に、私はとにかく驚いた。教師も含めて誰も校舎内にはいないと思っていたからだ。

 私はしばし悩んだ後、好奇心に負けて、自分が開けた窓に戻った。

 そして窓を開けた。


「これ……」


 窓を開けた瞬間に、音が良く通るようになった。私が抜け出した窓のある位置の、ちょうど真上に音楽室がある。すぐ近くに階段があるせいで、音楽室の扉が開け放されていると、下の階まで音がよく響く。


 心地よい、音色だった。

 しかしどこか切なくて、胸が締め付けられそうだった。

 掻き立てられる。何をかは分からない。でも、何かを掻き立てられる。私の心を乱す音色。美しく澄んでいて、でも丁寧。

 耳は肥えているはずなのに、それでも心を揺さぶられてしまうのだ。


 私は危険を承知で、校舎内に再び侵入した。

 どうかしている。見つかったらどれだけ怒られるだろう。


 でも、聴きたい……もっとそばで。

 でも、知りたい……いったい誰が。

 

 私はゆっくりと階段を昇って行った。もし弾いているのが先生だったら、そんな想像もしたけれど、私は違うと思った。あの音楽の先生は、ピアノに愛がない。大学でも声楽を専門にしていたのだろうと私は読んでいる。

 だからこの”音”の正体が、あの先生であるはずがない。そうであったら、私はこんなに心揺さぶられないだろう。 

 近づけば近づくほど、私は泣きたくなった。

 この音は、どうしてこんなに泣いているのだろう。切ない、痛い。でも、それが美しく、儚く、なぜか柔らかい空気をまとっている。

 とうとう音楽室の近くまでやってくると、教室の扉が少し開いているのが分かった。教室の電気は消えたままだ。真っ暗闇の中、月明りだけを頼りに弾いているというのだろうか。

 私はそっと教室を覗き込んだ。ピアノは開いているドアとは対角線上にあるから、こっそりと奏者を確かめることができると踏んだのだ。

 演奏者は、どうやら携帯の電気を頼りにピアノを弾いているらしい。しかし明るさを極限まで絞っているので、顔は分からない。


 そこでふと、教室の出入り口に鞄が転がっていることに気がついた。

 演奏はまだ止んでいない。滑らかなピアノ音が場を満たす。

 私はそっとその鞄を確かめることにした。それを手繰り寄せようとして、鞄からはみ出している筆箱にストラップが付いているのを見つけた。ストラップは小さいけれど、それに見覚えがあった。


 毛糸のキノコ。


「大宮……(ゆう)


 そんな古臭いストラップを付けているのが、クラス一番の地味男ならば気にならなかったかもしれない。しかし()は違う。

 クラスで一番の問題児(・・・)だから、印象に残っていた。中学時代にしょっちゅう問題を起こしていたと噂の彼。そんな男が、県内トップのこの学校にいるのだから、当然話題になった。何せ入学式に茶髪で登校するような男はこいつぐらいしかいなかったのだ。

 そんな男が、なぜかおばあちゃんの手作りみたいなストラップを筆箱に着けているから、当然、みんな気になった。しかし誰一人として、そのストラップについて触れれたことはない。というより、皆が恐れて話しかけられないようなのだ。この学校の子は真面目に生きてきた子が多く、問題児とはおおよそつるんだことのない人間が多い。

 だから彼とまともに会話をするのは、同じクラスかつ彼の幼馴染の敦賀(つるが)朝陽(あさひ)ぐらいなものだ。


 私は混乱しながら、静かにピアノの音色に耳を傾けていた。

 大宮優のイメージとはかけ離れた、丁寧な、優しいピアノの音を。


 しばらくの間それに聞き入っていた私は、ピアノの音色が途切れたことで我に返った。

 大宮優に絡まれたら、自分の身が危ない。それ以前に、そもそも夜の校舎に自分がいることを知られるわけにはいかない。

 私はさっと立ち上がると、階段を駆け下りた。そして窓から校舎の外に出る。鞄をつかんで、家まで一直線に走って帰った。



 そして次の日、私は再びあの”音”に出会う。

 

 夜桜を描きそこねた私は、日の出直後の桜を描こうと思い、学校に行ったのだ。午前六時の学校は、しんとしていた。涼やかで静謐な空気に包まれた学校は、なんだかいつもより美しく思えた。

 下駄箱に自分の靴を放り込むと、持っていた上履きを取り出して履く。

 教室の鍵は開いていないから、廊下から見る景色でもデッサンしようと思った時だった。


 ぽーん……と、一音が耳に届いた。


 静かな水面に石を投じたかのように、その音は学校の空気を揺るがした。単発の音が数回聞こえた後、それは連なりをもってメロディへと変わっていく。

 それは昨日、私が心を奪われた”音”だった。


 私は静かに音楽室の近くまで歩いていき、ちょっとだけ教室の扉を開けた。そして、そっとピアノの演奏者を見る。

 朝の今ならば、分かる。

 あんなに明るい茶色の髪の男は、この学校で一人しかいない。それに、その顔も、どこから見ても大宮優だ。

 学年一の、問題児。

 同じクラスの、問題児。

 


 その事実が揺るぎようのないものになった時、私はその場で座り込んだ。

 廊下の窓からのぞく桜が美しい。


 決めた。描こう。







 こうして、私は毎朝、この場所にいる。

 音楽室の近くの廊下。壁に背をつけ、廊下の反対側の窓からのぞく景色を描いている。この優しい音色を、載せて。


 これは、私のひそかな朝の戯れ。

 ピアノを弾く大宮にさえ、秘密の。


 こうして、高校二年生の春は幕を開ける。

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