無意識の記憶
(……結局、あんまり眠れなかったな……)
ノアとの密会があった夜の翌日、瑠璃はもらった枕を抱えながら微妙な顔をして起きた。今日は武術小学校と呼ばれる彼女が通った家に向かう予定だ。
「この枕、一体何なのかなぁ……いい匂いなのはわかるけど……」
すでに半分くらいは瑠璃のいい香りで匂いが侵食されているが、瑠璃はあまり気にせずにベッドの上にそれを置いて立ち上がる。今日は朝稽古を終えて朝食を取ったらすぐに移動の予定だ。
「はぁ、頑張らないとなぁ……」
誰も自分の過去を思い出せとは言わない。瑠璃にはそれが逆に周囲全てに対して疑心暗鬼をもたらす原因となっていた。
(私って何なんだろう……)
自身のルーツがない瑠璃は失った自分を求めて今日の活動もまた精力的に行うのだった。
瑠璃が朝稽古を終え、またもあまり口に合わない朝食を自称幼馴染である毛利、麻生田、谷和原に加えて翔と父親である遊神と摂っている頃、相川は目を覚まして昨晩の内に来ていたメールの確認を行っていた。
「……ん? 何だこの報告……」
「兄さまどうかしましたか?」
寧ろ何故お前が相川用の裏執務室の更に奥にあるに居住スペースにまでいるのかと問いたい気分になったが、慣れている相川はある程度は仕方ないと割り切って携帯をかざす。
「あぁ、報告ですか……朝食できてますので温かい内に食べてくださいね兄さま!」
「……わかった。」
相川はそう言ってキッチンに戻るアヤメのエプロン姿の時点で媚薬の香りがしないでもないことに気付いたがその言葉は飲み込んでおく。嫌なことだが毒や薬を盛られるのは相川にとっては日常茶飯事だ。
(自分で飲むのと他人が入れるのはまた別なんだよなぁ……まぁそれは置いといて、瑠璃が昨晩抜け出して桐壺グループ麾下のアイドル、ノアと接触…………何で枕? つーか、何でわざわざ厳重なうちの警備を冒して俺の仮眠用枕を……?)
機密文書でも盗んだか、それとも自分の暗殺計画でも企てようとしたのか、そういう話なら分かるが枕の匂いを嗅いで譲渡されたという話は相川にはよく意味が分からなかった。
(……まだ爆弾しかけて戻したとかならわかるが……みたらし団子のタレついたから丸洗いしようと出した枕を持って行って……)
そこで何で相川の枕だということに報告者がすぐに気付いたのか疑問に思ったがそこを追及しても無駄だと割り切ることにして流し、報告内容を読み終える。
(ん~……ちょっと瑠璃に過保護すぎるかなぁ……護衛1人ならまだしも8人はねぇ……)
友人に護衛をつける時点で結構過保護気味だが、瑠璃は1日7人の変態と遭遇することもあるほど変わっているので仕方ない。ただそれでも過保護かもしれないと相川は首を傾げながら洗面所へ向かう。
(後、何で桐壺が動いてるのか……しかも出てきたのはノア。隠密の申し子みたいな奴なんだよな。切り札とも言えるような存在を表に出してまで何を考えてるのやら……)
そろそろこの世界で行うことも大詰めにかかってきているこの段階で引っ搔き回されてはたまったものではないと思いながら身だしなみを整えた相川は食事が並べられているテーブルに向かう。
(媚薬は……こりゃたくさん盛り付けたな。スクランブルエッグとお茶、それから箸にも塗りたくられてるみたいだが……これを扱っていてアヤメは何ともないのだろうか。)
香りから判断した結果、相川には効かないものの相当強い薬だったので気化した分でアヤメがおかしくなっていないかと気になった相川は彼女のことを見る。案の定アヤメは上気しており、潤んだ瞳をして頬を赤く染めて相川のことを見ていた。
「兄さま、どうぞお召し上がりください……」
「いただきましょうかね。」
食べ物を粗末には出来ないと相川はアヤメが乱れた息を必死に抑えていることに気付かないふりをして食事に取り掛かった。
(さて、まぁ色々あるけどあいつらの「なりすまし計画」は上手く行ってるのかねぇ?)
尚、この日のデートはアヤメの体調不良により大幅に時間変更と短縮が行われることになる。
「いや、それにしても久し振りだな……よく来たな。」
武術小学校に着いた遊神一門は彼ら、彼女たちがこの学校で一番世話になった権正先生に連れられて施設内を散策していた。
「権正先生もお変わりなく……」
「先生、後で組手しようぜ!」
「今日は瑠璃の記憶のために来てるんだろうが……まったく。」
和やかに談笑するムードの中、瑠璃はどうしようもない違和感に襲われながらなんとか平静を保っているように見せていた。
(見覚えない……本当に私はここにいたの……? 私は誰なの……? 怖いよ……)
心中の恐怖に押し潰されそうになった瞬間、何かを呼んだ気がするがそれも一瞬のことで何の事だかわからない。その間にも説明は続く。
「ここがお前らの教室だ。今は授業中だから入れないが懐かしいだろ? 瑠璃は……」
「大丈夫です……」
気を遣わせていることがひしひしと伝わってくる。それが心苦しいがその様子を見せることが相手には失礼だろうと押し隠す瑠璃。そんな様子を見ていた翔は自分にはもう何もできることはないのかと自らの無力を嘆きつつ、出発時に遊神から伝えられていたことを権正にだけ聞こえるように耳打ちする。
「……これを。」
翔の耳打ちに権正は瑠璃の死角になるような場所を作って小さな地図を渡す。当然、瑠璃に不信感を抱かれるが翔はお手洗いに行くのをわざわざ言うのが恥ずかしく、隠しただけと言って曖昧な笑みを浮かべながらその場から離脱した。
(……着いていったら怪しまれる。ちょっとだけ時間を置くべきだね。)
何事もなかったかのように説明を続け、彼はこの学園にもいなかったから説明は飛ばしてもいいだろうと判断し、後で合流してもらうことにしたと言って進行を続ける権正を見て瑠璃はこれも敵だと判定を下す。それでも隠される可能性が高い今はある程度従順なふりをして隙を見ることにした。
「あの、私もお手洗いに行きます。」
「案内しよう。」
「……できれば控えてほしいんですが……あの、女の子ですし。」
「しかし、場所が分からないだろう?」と続けようとした権正に問答無用の魅了。瑠璃個人としては恥じらう姿で遠慮してもらうつもりだっただけだが、効果は絶大でしばし相手の動きを止めることに成功した。
(これで監視はつかない!)
瞬時に瑠璃は移動し、その途中で走り始めて翔の氣を追跡する。その途中で自分が奇妙なルートを取って跳ねていることに気付き、首を傾げる。
(何か、昨日の廃墟みたいに何かを避けるみたいな……)
ほぼ無意識に近い動作を行っているのだが、どう考えても普通に動くのには無用の動作だ。しかし、試しにその動作を無視して直線ルートで動こうとすると飛来物が襲ってきたりする。
(……無意識の防衛本能? それとも、私はここに……)
瑠璃が思考する間もなく、翔に追いついてしまう。そして瑠璃は問答無用で翔の手に持っている地図を奪い去るとその目的地に移動を開始した。
「瑠璃さん⁉」
「ごめんね!」
罠まみれのこの場を地図なしに動くこともできない翔はその場に取り残される。瑠璃が去ってしまった後、その場にようやく幼馴染たちに加えて権正がその場にやってきた。
「追うぞ!」
「はい。」
「まったく、世話を焼かせやがって……」
口々にそう言いながら罠のないルートを移動し始める一行。その中で翔は本当にこれが正しいことなのだろうかと思いながらも相川への嫌悪感を思い出して自らを奮い立たせ、瑠璃を追いかけるのだった。