手がかりの欠片
(……? こんな時間にどこに行くつもり?)
瑠璃を魔の手から守るために相川の会社から派遣された女性は夜中になって瑠璃がこっそり裏口から出かけようとしているのを目の当たりにしてすぐさま追いかける。
(……これは査定に入れてもらわないと。さっきの闇討ちで今日の業務は終了って決めてたのに……)
何となくそんな気分で隠密をしていた彼女は相川に連絡を一応入れておく。この時間は相川が応答してくれることはないが、責任を押し付けるためには報告をしたという事実が必要なのだ。
(って、なんでこの子ここに……!)
そんなだらけていた雰囲気も瑠璃の移動場所が変わるにつれて真剣さを帯びてくるようになる。彼女が今いる場所はこの辺りの地域で最も治安の悪い区間。過去、それを克服したがその地域を支えていた会社が傾くと同時に繁栄に終わりが来た地だった。
「……トイレットペーパーに乗せてあった紙の場所だとこの辺のはずなんだけど……」
(馬鹿! 何でそんな怪しいのに従ってるのよ!)
風に乗って流れてきた瑠璃の言葉に女性は驚いて増援を求める。彼女の前の護衛も彼女が引き継いで警護していた時でも彼女に接触した人物はいなかったはずだ。しかし、その網を掻い潜ったということは相手が相当な手練れであることを示している。とりあえずは彼女のボーナスは周囲との折半となりそうだ。
しかし、先行する瑠璃の速度が落ち着くにつれて尾行していた彼女はそんなことを考える余裕がなくなる。到着した場所は窓が割られ、外壁にはあらゆる罵詈雑言がスプレーで書き込まれた廃墟。
相川の前の家の周辺だったのだ。
(この家を知ってるってことは社長絡み!)
地域が没落すること、更に相川が世界から嫌われたことで憎しみを他所よりも膨大に募らせながらも相川の恐ろしさを知っている住民たちによって八つ当たりを一手に引き受けたその家を前にして瑠璃は立ち止まってそれを眺め、入るかどうか悩み始めた。
(……このお家、危ないところだよね……でも、虎穴に入らずんば虎子を得ずっても言うし……脱出経路くらいは知っておかないとだめかな……)
恐怖以外にも様々な感情が生まれるその場所に瑠璃は入るかどうか悩みながら近づく。瑠璃が感知した結果では中には誰もいないが、メッセージだけが残されている可能性も高い。
そんな葛藤をしている瑠璃に対してそれを感知されない範囲で見守っていた尾行者は増援が来たことに安堵しつつも現状が決して楽観視できるものではないことを知る。
「……桐壺グループが動いてるの……そう。」
「あぁ、そして確実にあの家の中には桐壺の使者がいるはずだ。私たちでは感知できないこと、更にサーモグラフィにも映らないこと、赤外線カメラにも映らないことを踏まえて相当な腕と見ていいだろう。」
「……以前と違って、対象を保護するレベルは低下してるから最悪は見捨てて……」
集まった要人担当グループ内の男女8人のメンバーで意見を共有しながら瑠璃を監視する。因みに今回は対象が女性と言うことで女性5人、男性3人という構成だ。そんな8人のことに気付かないまま瑠璃はその部屋の中に入っていった。
「……うわ……」
中は荒れていた。しかも経年劣化による荒れ方ではなく、人為的なものであり壁に波打つ血のアートや空中には血で色づいたワイヤーブレードなどが張られている。それはさながら出来の悪いお化け屋敷のようだった。
(……なんだかよくわかんないけど、私こういう雰囲気苦手みたい……)
ところどころ抜けている床や血溜まりなどを避けつつ瑠璃は違和感に気付いた。
(あれ……? 何となく、ここが危ないってことがわかる……?)
そうなのだ。血などで気味が悪いと避けながら歩いていて気付いたが、そこまで気を付けなくとも何となくで進んでいけるという事実に気付きその罠の密度からそれが偶然ではないことに気付いた。
「うふふ……気付いたようですねぇ……」
「! 誰⁉」
そう、気付いた瞬間だった。不意に聞こえてきたのは甘い声。瑠璃は素早くその場で警戒して構えるが声の主は戦闘の意思はないと言わんばかりの格好で月明りを背景にしつつ瑠璃の前に現れた。
「……! あなたは!」
そしてその顔に瑠璃は覚えがあった。それは失くしてしまった過去ではなく、現在の瑠璃が目を覚ましてからの記憶。彼女が退屈交じりに病院のテレビで見ていた顔だ。
「すうぃーとでびるの、ノアちゃん⁉」
「うふふ……そうですよぉ……?」
テレビで行うような自己紹介ではなく、またテレビで見せられるような華やかではない昏い笑みを浮かべながら陶然とするような声で笑う彼女。そんな彼女を前に瑠璃は混乱していた。
(なんで、ここにテレビで見るスーパーアイドルが……?)
ここにいたのが武人ならわかる。百歩譲って変質者も考えられるだろう。しかし、こんな廃墟に大人気アイドルが笑いながら気配を消して佇んでいるという状態は明らかに異常だった。
(いや、気配を消して……!)
瑠璃はその事実に思い当って即座に身構えた。それをノアは不思議そうな目で見る。
「あら、どうかしたのかしら……?」
「とぼけないで! 私に気取られない程の気配を立つ達人なら警戒されて当然だよ!」
「うふふ……そんなに怒らないでほしいわね……私はただこれをあなたに渡しに来ただけよ……?」
そう言って彼女が出したのは少しだけ汚れている無地の白い枕だった。瑠璃はそれを爆弾か何かではないかと疑いながらノアにその疑いを晴らすための行動をとらせる。
そのやり取りを見ていた外部の人間は驚きのあまりに声を漏らしていた。
「あれは……社長の仮眠用の枕! 今日の作業の休憩中にクッション代わりにしていたらついてしまったみたらし団子のタレの位置からして間違いない……! 何故ここに……!」
何故わかる。監視グループの女性社員の6割が引いた。それはともかくとして仕事に戻って中で匂いを嗅いでいるノアに視線を戻す。
「……これで、疑いは晴れましたかぁ?」
「疑いは晴れたけど……この枕が何?」
「匂いを嗅いでください。」
「……何で?」
枕を引き取った瑠璃は突然の申し出に意味が分からないと首を傾げる。別に持っているだけでは危険な香りがするというわけでもないが、一体どういうことだろうか。
「嗅げば、分かります。」
「……私、犬じゃないんだけど……」
恐る恐る匂いを嗅いでみる瑠璃。今ある記憶と何かが合致し、今度は言われなくても自発的に匂いを嗅ぎ始めた。それを見てノアは笑う。
「うふふ……いいですねぇ、あなたは……」
「……私の部屋からした私のお家にない匂いだった……ねぇ! これは何なの⁉」
瑠璃のまっすぐな問いにノアは割れた窓の向こう側、監視役のメンバーがいる方向を見て笑い、瑠璃の方に目を戻す。
「それを教えると、怖い人たちが来るの。だからごめんなさいね?」
「どうして……」
途方に暮れたように俯く瑠璃にノアは冷たい目を向けて呟く。
「……あなたはいいですよねぇ……」
「何が……?」
瑠璃がノアの言葉に反応して顔を上げると奇妙な感覚に襲われた。ノアがいることは視認しているのにもかかわらず、そこに気配が殆どないのだ。瑠璃はいなくなってしまうと予見してノアに尋ねる。
「ねぇ! ノアちゃんはどうして私のところに、ううん。ノアちゃんは何なの⁉」
「……私は、あなたとは違う負け犬ですよぉ……それでは……」
先ほどまでそこにいたのにもかかわらずもはや影も見当たらないノア。瑠璃は色々と考えたいことや言いたいことがあったが、もうこの場にいてもノアの言う怖い人が来る以外には何も起きないだろうと判断してその場から速やかに立ち去った。