足りない記憶
退院する日が来た。迎えに来たのは毎日お見舞いに来てくれたお父さんと翔。大勢の病院のスタッフの皆さんに見送られながら病院を後にする私だが、ふと誰かを探している自分に気付いた。
(……そういえば、あの看護師さんいないな……)
私が目を覚まして最初に話した男の人。混乱していた時には気付かなかった看護師さんと言うには少し若すぎるあの人のことを私は気付けば思い出して探していた。
病院の人に訊いても誰も彼のことについては知らない、わからないとしか答えてくれなかったので心配をかけないように私は気にしないフリをしているが、どうにも引っかかる気分なのだ。
そんなことを考えている間に安心院院長から今後の留意点が告げられる。
「それじゃ帰ってからは好きな物でも食べてゆっくり休むといい。後、ちゃんと通院はするんだよ? 自分では何ともないと思っていても頭の怪我は怖いからね。経過観察がこれからの……」
「はい……」
正直、あまり長い話を聞く気にもならない。要するに指定された日に病院に行けばいいのだろうと思いながら瑠璃は家に帰らせようと待ち構えている遊神と翔の方をちらりと見た。
(……本当に、この人たちは私の知り合いなのかな……? 入院中の話じゃ私の好きな食べ物すら思い出すのに時間がかかってたし、目も合わせてくれないけど……)
記憶のない瑠璃の胸中は不安でいっぱいだった。話を聞く限りでは男所帯の家のようで、記憶のない瑠璃にとっては知らない男に囲まれている状態と言うことだ。
(私の話をあんまりしないのは気遣いという意味じゃなくて本当は知らないから言えないだけなんじゃ……でも、そんなことばっかり考えてても進めないよね……)
病院のスタッフの話も聞き終えたところで遊神一門は自宅へと戻る。遊神はありえない軌道で、瑠璃が軽やかに舞う鳥のように、翔が地面をひたすら走って自宅につくと三人は揃って門の前に立った。
(……何とも思わない……)
しかし、瑠璃の脳裏には何も思い浮かばない。自宅を見れば何かが変わるかもしれないと思っていた瑠璃は肩透かしを食らったような気分になる。そんな瑠璃に対して両脇の二人は「ただいま」と言いながら家に入り、瑠璃にも同じことを言うように望んでいる。
「た、ただいま戻りました……」
空気を読んで瑠璃もそう言って家の中に入る。広い家の中を進むと遊神から瑠璃の部屋に案内された。そこで瑠璃は違和感を覚える。
(……部屋からする匂いと家具の匂いが違う……家具は私の匂いが強いし、なんだか他にもいい匂いがするのに部屋からは木の匂いが強い……まるで空き部屋に急ごしらえで私の持っていた家具を揃えたみたいな……)
瑠璃の直感は正しい。相川が瑠璃に買った家具がそのままこの部屋に持ってこられたのだ。しかし、この家に使われている木材の匂いが強いだけかもしれないと無理矢理浮かんできた疑念を決して瑠璃は今度は充電中の携帯を見た。
(入院中は他の患者さんの迷惑になるのと、どうせ知り合いの記憶もないから必要ない、持って来ないでいいって言ったけど、本当は私の記憶が本当になくなってしまったって改めて確認して周りの人に気を使わせるのが怖かっただけ……でも、いつまでも先延ばしにはしてられない……!)
瑠璃はそう思って早速携帯電話を手に取る。最初に目に入ったのはケースにあるプリクラだ。自分と見たことのない美男子が並んでいる。その時点で何故か違和感を覚えた。
「……コラージュ?」
写真自体は全く違和感のない仕上がりだが、瑠璃には何故か直感的にそう感じられた。気持ち悪さを覚えつつも瑠璃が携帯を開くと思わず拍子抜けした。
「データ、少ない……私友達いなかったんだね……なら記憶なくても大丈夫って……あはは。」
思わず乾いた笑いを浮かべながら写真などのデータを見ていく瑠璃。そこでふと思った。
(プリクラ撮ったのにそのデータはこっちにないの? 内容はともかく、カバーに貼るくらい写真自体は結構大事にしてるみたいだから、私ならこっちにも保存してるはず……)
違和感の正体を確かめようと漁ったのだが、データが見当たらない。なぜここにそれほどまでに固執するのか自分でもよくわからなかったが瑠璃はプリクラの大本のデータを漁り、そして息を吞んだ。
「……看護師さんだ……やっぱり、この人が何かの鍵……!」
根拠のない妄念が形を成したことに瑠璃は頷き、はっとしたかのように周囲を見渡して隠しカメラや隠れている人を確認した。
(……私には何か秘密があるみたい。無理して思い出させないようにするのは実は私のためじゃなくて余計なことを思い出させないため? ……ちょっと論理の飛躍が過ぎるかもしれない。でも、怪しいことが多すぎる今の時点では消せないよね……)
そうこうしている内に結構な時間がたったようで瑠璃に食事の呼び声がかかる。今日は退院してすぐということ、また記憶の刺激になるということで好物を並べるということだったが瑠璃はそれにも多少の警戒を抱きながら食卓へと向かった。
(……ご飯とエノキと玉ねぎ、わかめ入り味噌汁。それから唐揚げに付け合わせのサラダとがめ煮……)
好物と言う割には無難なラインナップだった。それでも作ってもらったことには感謝して食事を開始する。会話は瑠璃を無暗に傷つけないために言葉を選んで行われている。このラインナップでは唐揚げが好きだったという遊神からの言葉があるが、瑠璃はそれを冷めた目でしか見ることができない。
(……衣が付き過ぎてて脂っぽい……後しょっぱい……)
勿論、内心などおくびにも出さない。美味しいと言いながら瑠璃は油を流すために味噌汁に手を付けてそこで更に手が止まる。
(しょっぱい! なんなの……? ワカメに塩付けたまま作ったりでもしちゃったの? しかも出汁の味がほとんどしない……これ、本当に私が食べてたの? それともとことんズラすことで違和感を生じさせて脳を刺激し、記憶を取り戻させようとでも……?)
失礼なことを言わないように瑠璃は注意深く目の前の二人を見る。しかし、二人とも平然としたまま食事をとっていた。注ぐのは瑠璃が自らやったので味は変わらないだろう。
(……感覚的にこれくらいは食べるだろうと思って注いだけど、間違いだった……退院間もなくでお腹空いてるんだろうとか言ってたけど、いつも我慢して食べてたんじゃ……)
一先ず、味のついていないご飯をたくさん食べることで塩気を中和しながら瑠璃は食事を終える。その間にもここで我慢していた分や感覚的に食べる量を決めたがその基準はどこで決まったのだろうかなど考えることがたくさんあった。
そしてその日の夜。久し振りの稽古などを行い、汗を流した瑠璃は風呂から上がって髪を乾かし、部屋に戻って呟いた。
「……何なの?」
発言の原因は周囲の騒音だ。何やらずっと騒がしく、遊神の声に交じって知らない男の獣のような声が多数響いている。
「怖い……私は一体、何なの……?」
「ひゃはっ!」
不意に自室から知らない人間の声が聞こえてきて瑠璃は勢いよくそちらを振り向く。そこには目をぎらつかせている男の姿があった。
「やっぱり遊神は終わりだな。俺みたいなのに出し抜かれるなんざ昔ならあり得なかった。」
「だ、誰なの?」
この家には瑠璃以外にも住人がいるということは聞いていたが、今は誰かの救出のためにいなくなっていると聞いていた。しかし、帰って来たのだろうかと思いつつ男に尋ねると男は嗤った。
「知らなくていいんだよ馬鹿娘!」
「【遊神流・片猿臂打ち】!」
なんだかよくわからなかったが、友好的な相手ではないと判断した瑠璃は相手を一先ず打倒した。その後は部屋にまで侵入してくる者はいなかったが、瑠璃は眠れぬ夜を過ごす羽目になる。