ちょっとした混乱
最初に異変に気付いたのは銀行の窓口員である女性だった。年齢を感じさせないような美貌を持ちつつも才能も兼ね備えている彼女はそろそろ来るだろう、彼女がこの世界で最も嫌う最上級の顧客との対話を前に嫌々準備を進めている間にそれに気付いた。
「……あの子どもの借金がない……?」
おかしい、そんなはずはない。血の気が引く思いがした。彼女はこの銀行で窓口員をする日は限られているが、彼女の嫌う最高のお客に関する情報については特に機密事項扱いされており誰も手を出さない、いや出せないはずだ。
「うそ、うそ……」
何度見てもそこにあるはずだった金銭消費貸借契約証書がない。しかし、いつまでもそうしている暇はない。彼女以外にこの書類に触れることが出来る裁量を持っている頭取の下へ向かった。
「渋井さん。少々お時間よろしいでしょうか?」
「おっ、谷田部さんじゃないですか。出向お疲れ様です。どうなされました?」
彼女は今あったことを目の下に年中消えない隈を持つ上司に告げる。するとあっさり取り立てたという返事が返ってきた。
「完済まで時間がかかり過ぎてましたからねぇ……あれはもう顧客じゃないでしょ。まぁちょっと強気に出てやればすぐに返しましたよ。谷田部さん。確かにお客を大切に扱うのも大事ですが現場ではね、こういう判断も時には大事なんですよ?」
「なんてことを……」
谷田部は生まれて初めて目の前が真っ暗になるという体験をした。すぐにその場を持して彼女の直属の上司に連絡を取った。
『どうした谷田部。珍しいな。だが、少々待ってくれないか? 今』
「代表、緊急事態です。相川への出資を渋井支店長が回収していました。」
相手の言葉を遮っての谷田部の言葉に電話先の相手はしばし絶句し、何かを叩きつける音がした。
『そうか、それで……! 何をやってるんだあの禿デブは! 俺の首を飛ばす気か!』
「伺った様子では相当な対応をしていると思われます。」
『だろうな……今、ラウルブルクから連絡があって解放後のパートナーをウチではなく桐壷グループに変更したいという一次報告が入ったところだった……!』
何とか感情を押し殺して冷静になろうとしている電話先の上司に谷田部は八つ当たりを受けながらそれを受け切って通話を終了する。それが終わった時には彼女は年相応の年齢を重ねたように生気を失っていた。
その報告から丸1日が経過したクロエとパーティ会場でクロエを勧誘した男の執務室で。クロエが相川の下に居た時と異なりスーツ姿で男の側に控えていると外から荒々しい足音が聞こえてくる。
即座に警戒するクロエに何か察したらしい男が気障ったらしい笑みを浮かべながら心配してくれて嬉しいなどと言いつつ口説き文句を発しているとその足音は室内に飛び込んできた。
「清次ぅっ! 貴様ぁっ!」
「……父さん? そんなに怒ってどうしたので……?」
「歯を食いしばれ!」
いきなりの暴力沙汰にクロエはどういうことか驚きつつそれを防いで男の父親を羽交い絞めにする。クロエを勧誘した男、清次はいきなりのことに呆然としながらも彼の父親に手荒なことは出来ないとクロエを制し、すぐに対応できる位置に待機させた。解放された男の父親はそんなやり取りを見ながらクロエのことを親の仇のように睨みつけて清次に尋ねる。
「その女が相川から奪った女か。こんな、こんな奴の為に……!」
「……あの、どうなされたんですか?」
清次は彼の父親がこれほど感情をむき出しにして怒る姿を見たことがなかった。あまりの形相に恐る恐る尋ねると彼は大きく息をついて無理矢理感情を抑えて事実を述べ……ようとして機密事項の為それを押し留める。
「俺はな、世界で一番嫌いな奴がいる。」
「はぁ……」
唐突に始まった台詞に清次は何とも言えない返事を返すだけだ。そんな様子を見て更に苛立ちながらも彼は続けた。
「それが、そこにいる小娘の元雇い主、相川だ。小さい頃はまだ嫌いでもなかったがここ最近は無性に嫌いになって……いや、それはいい。重要なのは世界で最も嫌いな奴に俺は融資をしたまま、奴の手助けをしていたということだ。清次、お前は知ってるだろ?」
「あの500万ですか……?」
少し前に彼の知り合いである渋井に頼んで圧力をかけた金額だ。1月も経っていない程度のことであれば忘れることはない。その様子が更に彼の父親を怒らせたようだ。
「そうだ。俺が殺したいほど憎い相手なのを我慢して笑顔で対話し、恩を売っていた相手からお前は勝手にその恩を回収し、挙句の果てには塩まで撒いた……! その意味、お前にわかるか……?」
よく分からないが怒っているのだから謝っておく清次。それが更に父親の怒りを買うが怒気を発する前に一本の電話がかかって来てそれは中断される。
怒気を押し殺し、流石に上機嫌とはいかないまでもそれなりの機嫌で対応し始める父親を前に清次はどういうことか考え、後ろで混乱しているクロエの方を見る。しかしそれも目の前の父親の様子がおかしいことで視線は移動した。
「はい……いえ、お任せします……」
口調は弱々しいものになりながらも清次を睨む視線には力が入り、血走った眼で睨みつける父親に清次はどうしたのだろうかと狼狽する。
「いえ、今回の件は不幸な事故でして……既に当人に処分は下しています。火種となりました愚息にも処罰は下しますので何卒思い留まっていただければ……」
そんな対応をしている父親の隣で彼の秘書の電話が鳴り、彼女に父親の怨嗟の視線が向かう。しかし、職務であるため秘書はそれに出てそして目を見開き、文字で彼女の主に話を伝える。
桐壷グループ 新型EV 実用価格 大規模開発 既に構想あり 充電・漏電の問題クリア プレスリリース間近
「かっ……い、いえ。少々問題がありまして……あぁお気遣いは要りません。出来ればこちらから足を運びますので会談の場を……いえいえ。忙しいというわけではありませんからぁっ?」
続けられた文言に父親の声は思わず裏返った。それを気に相手方は本当に問題がありそうですのでこの話はここまでとして通話を終了してしまう。秘書の通話を取って代わるも彼女が得た以上の情報は得られずに通話は終了することになり、彼は思わず怒声を上げた。
「あの糞ガキがぁっ! これまで目をかけてやったというのに! ここで裏切りおるか! ここまで裏切りやがるか!」
「と、父さん……?」
「元はと言えば貴様の所為で……! えぇい、今は貴様を怒鳴りつける暇もない! そこの小娘!」
怒声を上げる男だが一つ息をついて感情を吐き出し、硬質な声音を何とか形成してこの状況に追いついていないクロエに目を向ける。
「いや、失礼……クロエさんと言いましたね? 少し話がある。ついて来なさい。」
「父さ……」
「清次、お前には追って沙汰を下す。部屋を用意するからしばらくは俺に顔を見せるな。いいな?」
反論を許さない断言に清次は何も言えずに黙り込み、クロエはそんな彼のことを見つつも言われた通りに彼の父親と一緒に別室に行くのだった。