思案の時
クロエ・アテル・ルウィンスは焦っていた。
(師匠がこの世界から出て行くという比喩を使うほど遠くに行くという期日までもう間もないというのにここで瑠璃に大きく引き離されてしまった……!)
謎の感情が芽生えた所為で彼女はこれまでにないほど大きなミスを犯してしまい、ライバルに追い抜かされるどころではない程の差をつけられてしまった。
最初に彼女が疑ったのはこの世界で唯一愛しの師匠のことを嫌いになることがなかった瑠璃のことだが仮に彼女のたくらみだというのなら相川が気付かない訳はない。そして次に思いつき、更に現在も最もそのようなことをした確率が高い相手はその当人である相川だと彼女は思わざるを得なかった。
(解毒薬も持っていたし、状況把握もすんなりしていた……やはり、これは何らかの試練だったのでは……そうなると私たちは不合格……)
そんなのは嫌だ。あの人の隣にはずっと自分が居たのだ。最近になってから自分より優れたサポート役のような人たちが現れたが、物心ついてからずっと一緒だったのは自分だ。自分の力の及ばないところで話を進めないで欲しい。
(何で私は高校に……! 成績が取れているからと言って無理に進級させる意味が分かりません……!)
クロエは玉のような歯を食いしばって怒りの形相を堪える。この時ばかりはこの国の制度が気に入らなかった。留年は学校的に受け入れたい物ではないと断られてしまったのだ。
そもそも、実力に応じたクラス分けであれば相川と同じクラスで情報収集もしやすかったに違いないのに現実はそれと異なる。
彼女は中学の頃と同じような特殊な高校のパーティ会場で一人これからの身の振り方について頭を悩ませるのだった。
「あー……腕が千切れそう……」
「じゃあもうやめよ!? ね!? 無茶だよそんなの!」
「そうか……?」
トレーニングを終えることにした相川とその隣で心配そうにおろおろしながら周囲を回っている瑠璃は春雨の降る中、自宅にいた。
「じゃあもう今日はいいわ。5tしか持ってないんだけど……」
「トラックじゃないんだからそんなのしないでいいの! 冷やすよ?」
自分の両親や家にいる達人のことは棚に上げて瑠璃は相川の手当てを始めようとする。しかし、相川はいつも通りの流れをするために筋断裂しそうな血塗れの手で瑠璃を退けた。
「いや、締め上げて膨れないようにして薬湯を飲んで強制回復する。冷やすのはその後。」
「それ本当に体に悪そうなんだけど……」
「氣血を通せば大丈夫。」
何も大丈夫ではないだろうと思ってしまう瑠璃だが、相川の方が生物の体について精通しているので自分の知識が足りていないのだろうと無理やり自分を納得させることにして通常では考えられないスピードで治って行く相川の体を黙って見つめる。
「……そう言えば、その重りってどうやって作ってるの?」
「素体の強度を高めるために結合を弄って密度を高めた物質たちを固めて作る。」
地中に突き刺さらないように安置台に置いてある器具を見ながら瑠璃はそれを持ち上げてみる。それは重くてとても相川の様に筋トレの為にと扱えるような物ではなかった。ただ、相川からすれば興味本位でナチュラルにそれを持ち上げた瑠璃の方がおかしいと思った。
「……重たいね。」
「重いじゃ済まないんだけど……まぁ瑠璃だし仕方ないか……」
どちらもお前が言うな状態だが、この場では誰も突っ込みが居なかったのでそのまま流された。しばらく瑠璃と談笑しながら相川が氣を大量消費して傷を癒していると相川の携帯電話が鳴った。
「はいもしもし?」
『真愛です。少々お出掛けにお付き合い願えませんこと?』
「あー……貧乏暇なしってことで忙しいんで……」
断りの文句を口にする相川。瑠璃からすれば相川は大金持ちなのだが、電話先の相手が真愛だということをその鋭敏な聴覚が聞きとっているので世界のレベルが違うのだろうと静かに相川の横顔を見つめておくことにした。それに対し、電話口ではしばしの間の後、真愛が相川に交渉を始めていた。
『報酬は弾みます。1日目で100万、2日目で200万、3日目で500万でどうですか?』
「……バラで?」
『お望みでしたら。』
「いつ?」
基本的にひきこもりに近い生活を送っているので別段日時に問題はないはずだが一応聞き出し、問題ないことを確認する相川。そのついでのスケジュールで修羅の国での戦いの日時も確認しておく。
「じゃあ行くけど……俺を連れていく理由は何?」
『……お兄様が最近、何かを隠されているようですのでそれの確認、といったところですかね……』
本音は違うところにあるが、まだ警戒されているのを肌で感じているので真愛は相川に遠回しに近づいてみる。相川は特に疑問を感じなかったようで普通に引き受け、通話は終了した。
「何だったの?」
「ちょいと調査依頼でお出掛けだな。」
「ボクは?」
「来れません。」
相川に言い切られて少々不満気になる瑠璃だが文句を言って困らせるようなことはしない。ただ、毎回長期の出張では何らかの問題が生じているので突き止めようかどうか考えるだけだ。
「何か考えてるみたいだが、今回は別に危ないことはしないぞ。」
「……今回は、なんだね……」
出来れば毎回危ないことはしないで欲しいのだが言っても聞いてくれないのは分かっている。勿論、聞いてくれないからと言って何もしない訳ではないが、今回は瑠璃がそこまで出張る必要もなさそうだ。
「……じゃあ仁が出て言ってる間ボクはどうしようか? お留守番がいいけどそろそろお父さん帰って来そうだよね……」
「そしたら帰れよ。元々そう言う話なんだから。」
「……いけず。」
少々むくれる瑠璃だが、周囲に対しての圧倒的優位からかまだゆとりが見られる。一先ずの所短期的な話が決まったので二人はそれに向けての準備をするのだった。
「……チッ。我は何故あのような者に期待を見出して此処まできたのやら……」
夕暮れに町が染まる頃、遊神から逃れるために自国に引いていたはずの外道魔王は列島の片田舎にある港街で忌々しげに書類にある相川のダミー写真を殴り破いていた。
「わざわざ危険を冒してまで来る必要はなかったわいのぉ……来てしまった物は仕方ないが……」
「師よ、この国でやることがないのであれば私にやりたいことが……」
外道魔王の側に控えていた男から声が掛けられる。外道魔王は気だるげにしていたが彼の言葉に反応を示し無言で続きを促す。
「何じゃ?」
「師に無駄なことをさせたその男、相川を殺す許可を頂きたい。」
しばし弟子と相川の彼我の実力差に思案する外道魔王だが、特段相川に興味を持てなかったのか考える時間はそこまで長くなく、軽く指令を下した。
「……ふむ、まぁ好きにするがいい。茜音はやりたいことはないのか?」
師の興味が自分に移ったことでそこに控えていた茜音は内心で笑みを浮かべながら無表情に告げた。
「私の姉、遊神 瑠璃を抹殺する許可を。」
「…………面倒事になりそうだわいのぉ……」
積極的な否定はされなかったことで茜音の顔に笑みが浮かぶ。遊神に目をつけられている現状で捕まることがないように会議を始める3人。町を染める斜陽の色は血の色のようになっていた。