師匠と弟子と
「師匠、本日のトレーニングメニュー終わりました。」
「おし、じゃあダウンやってあがり。俺はそこで下腹の脂肪を燃やしてる奴の面倒看てるから何かあったら言え。」
春の日差しも強くなってきた頃。その場で氣の解放を行いながらアイソメトリックを行っている相川に走り込みから戻って来たクロエが声をかけると相川は氣を戻して返事をしてくれた。どうやら相川の機嫌が今日は良いようでクロエも少し嬉しい気分になった。
「2分経過。後30秒。」
目の前で白い歯を喰いしばっている少女、美幸を見ながらクロエはこの場でストレッチなどを行って体のクールダウンを図る。3日は瑠璃が遊神流の合宿でこの場に来れないので相川の家は平和そのものだ。
「これ終わったら骨盤ダンスでくびれな。……それで、クロエは俺のことをそんなに見てどうした?」
「あ……その。そういえばアヤメちゃんは……?」
「あれ? 何か別世界に妻子を残してきたらしい権正先生の所に置いて来た。何とか寮に捻じ込んでみたいところだがさてどうだろうな……」
何気に衝撃発言を聞いた気がするクロエだが、本来相川に訊こうと思っていたことが気になり過ぎてあまり思考をそちらに向けることが出来ない。訊けば不快に思われるかもしれないし、もしかしたら不安になる答えしか得られないかもしれない。しかし、それでも相川に訊かなければならないことがクロエにはあった。
美幸の腹筋トレーニングが終わりしばしの休憩を言い渡している相川にクロエは息を一つ吸ってから覚悟を決め、相川に尋ねる。
「師匠は……師匠は別の世界の人なんですよね……あ、その、人ではないとかは今回置いておきます。そうなんですよね……?」
「ん~まぁそうだねぇ……」
少々、奥歯に物が挟まったような言い方をされたがそれは今回突っ込んでいると話が進まなさそうだと判断した相川はクロエの言葉に肯定の意を示して美幸に休憩終わりを告げ、しばしどころか少しじゃないですかと抗議を受けながらクロエの続く言葉を待った。
「それで、この世界から出ていくのが、目標ということを小さい頃に聞いていたのですが……」
「ん~出て行くのが目標と言うより出て行くのは大前提と言うべきかなぁ……」
「そっ、その理由なんですが、復讐なんですよね……?」
「ん~言葉が悪いね。お礼参りと言い換えておこうか。」
どちらにせよ、意味は大して変わらない。そしてクロエも復讐は何も生まないなどと綺麗ごとを宣ためにこんなことを尋ねたわけではないのでここでようやく本題に斬り込んだ。
「その後は……どうされるおつもりですか……?」
「その後って、お礼参り済ませた後か?」
「はい。」
クロエが以前、相川がこの世界から出て行くことを目標としていると知った時にはそれ自体がクロエにとってショックであまり別のことを考えられない状態に陥っていたこと。また、そんなメンタルの極限状況におかれた彼女に来たいなら付いて来る? と軽いノリで言われた安堵からそれ以上のことを尋ね忘れていた。
それをこの世界の外の話が最近また盛り上がっている中で相川に尋ねてみようとクロエは思ったのだ。そんなクロエに相川は簡単に答える。
「そいつを創ったやつをぶっ殺しに行くかなぁ……」
「……え、その……」
「星神って奴。連戦になるだろうから準備が大量に必要なんだよねぇ……何百年かかることやら……」
溜息交じりに美幸のトレーニング量を増やす相川。クロエは相川が冗談、もしくは14歳という思春期特有の妄言を喋っているのか一瞬だけ考えたが、相川の氣を読める限り読んだところによるとそんな意思は全く見当たらなかった。それならばとクロエは質問を変える。
「で、では、仮にそれが終わったら今度はどうなされるおつもりなんですか……?」
「ん~……多分、その上の神に殺されるだろうなぁ……」
「……そういう不安を煽るのはいいので。」
「いやいや。流石の化物でも神々相手じゃ分が悪いし、返り討ちにしていく内にいつか殺される。生きてる間は戦いの準備で負けたら終わり。そんな化生を歩むんだろうなぁって感じ。」
そんなことを聞かされて納得いくわけがない。ダウンをしていたクロエは相川の目の前に立ってしっかりと目を合わせて告げた。
「師匠、でしたら復讐を延期しましょう。師匠をこの世界に飛ばした相手は師匠のことが嫌いだと聞いています。」
「……まぁ、三千世界の大体の生命体が俺のこと嫌いだろうけど……あ、後あいつは俺のことが嫌いどころじゃなくて憎悪していて見敵必殺くらいだぞ。」
「……憶測で物事を語らないでください。師匠は別に嫌われてなどいないです。」
クロエは相川の発言に何とも言えない感情を抱きながら否定し、持論を展開する。
「直接的な復讐では一瞬で終わります。師匠が幸せに暮らすことこそが本当の復讐になるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?」
「……俺の幸せな生活、ねぇ……大前提としてムカつく奴を殺したいんだけど。そうなると最初にやることはこんな世界なんぞに飛ばしやがったあの腐れを殺すことが幸福な日常に繋がると思う。」
この世界に飛ばしてくれたこと自体はクロエたちにとってプラスの出来事で、相川はそう思っていないことがしこりになるが、クロエは直接的に自分の感情を吐露することはなかった。彼女は真っ向勝負ではライバルである瑠璃に勝てる見込みがないと考えており、相川がアクションを起こすように画策するのが勝利への道に繋がっていると思っているからだ。
それはさておき、クロエは相川に復讐は否定しないが、安全な生活を送って欲しいことを遠回しに伝えた。しかし、遠回しに言っても相川は察すだけで実行する気はない。それどころかトレーニング中の美幸に近付いて動作指導を行い始めた。
「……自分のことが大切じゃないんでしょうか……? もっと、ご自愛してほしいのですが……」
「こう言ったら何だが、俺のことは俺が一番知っているし、この世界で俺が俺のことを一番大事にしている。君らに何か言われる筋合いはないよ。」
嘘吐き。クロエは相川が美幸の方を見ている間に静かに睨んだ。その少し後に息を吐いて気分を落ち着かせると相川のことをもう一度、今度は感情をなるべく込めずに見る。
(嘘をついてる訳じゃない、みたいなんですよね……それが腹立たしいですよ……)
誰のことも信用していないと言外に告げている相川にもう人生の半分以上を共に生活しているのだからいい加減に信じて欲しい、もっと自分のことを見て欲しいと仄暗く冷たい炎を心中で燃やすクロエ。その思いを決して表面に出すことはせずに彼女は相川にとって都合のいい女を演じ続ける。
「……ダウン終わりました。休憩の準備をして来ます。」
「お疲れ。」
相川が今見ている美幸のことも少し見て彼女への八つ当たり気味に鋭い眼光をぶつけて彼女のことを観察する。
(この程度なら、愛情もその他全て勝ってるはず……)
相川の特訓の所為でモデルの中でもトップクラスと言っていいほどの美人になった美幸相手にもそう思えるくらいクロエは自分に自信を持っていた。しかし、相川の周辺には単純な魅力で最強の瑠璃。財力、仕事のパートナーとしてクロエを上回る真愛。処理能力で彼女を上回る犬養などがいる。
そんな中でクロエは相川にとっていい性格であることで周囲と勝負することを決めており、それを演じるために今日もまた必要以上のアプローチをせずに過ごしていくのだった。