我が父、斉藤義龍
今回は、斉藤義龍さんのお話です。
彼も苦労人なんです。
今回は俺の父親、『斉藤義龍』の話をしよう。
『長良川の戦い』にて、父親の斎藤道三を殺したため、悪役だ。
あの信長が、ちゃっかり『美濃の支配権を譲られた』などとほざいた宣伝工作が史実として、まかり通るくらいに……。
信長の父親、信秀の時代からあいつらは美濃を狙っていたのだ、信長が気のイイ奴なはずがないではないか。
『長良川の戦い』は、年を取ってまともな判断が出来なくなってきたボケ老人、斎藤道三の大チョンボの結果なのである。
まあ良くある、『お家騒動』だな。
(俺があと10年早く生まれていれば……結果をもっと良い方に変えられたのに。)
長男という者は、家を継ぎ守るために厳しく育てられる。
それなりに優秀な父でも、斎藤道三とか長井道利とか、竹中重元に比べれば若い分その評価が厳しい。
逆にそれ以外の子供は、重い責任がない分、可愛さだけが先に立つ。
道三に可愛がられているのを良いことに、当主である兄をないがしろにする弟達、まあ小物である。
(家臣の日根野弘就に殺されても文句は言えまい。)
当時、すでに父は家督を譲り受けているのだ、増長する馬鹿な弟を誅殺して当然である。
家督争いは、何よりも避ける(馬鹿を討つ)のがベストである。
まあ、父親(道三)を討ったのは痛恨のミスであろう。
(追い出すのはマズイから、閉じ込めておくべきだった。)
そこら辺が手抜かりなのも、好意的に解釈をすれば予定外の出来事だったと解釈出来る。
美濃の国人衆が協力している点からも、道三の暴挙は目に余るものがあったのでは無いのか?
父.義龍が史実では、早くに亡くなったため、意外と支配者におもねる歴史家に事実を歪曲されていない。
なので、彼が国主として支持されていた事実が残っている。
義龍軍1万8千 対 道三軍2千500人 この数字が全てであろう。
その反面、正義の味方に敵対した俺は、まあ『風評被害』も甚だしいものだ。
あの竹中半兵衛にションベンをかけさせて喜んだ?
俺は小学生か?
まったく、歴史家の悪意しか感じられんわ!
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まあというわけで、本当はそこまで悪い人ではない父親は、いろいろ気に病むわけである。
弟が道三から貰った一色家の名前にこだわるぐらいに……。
父は、戦と謀略は大の得意なのだが、目標設定がなんとも微妙なひとだった。
俺に言わせれば、場当たり的に対応していた感が強い。
それではダメなのだ。
まあ確かに母方が一色氏であるらしいが、そこはそれ『あれ』を利用した方が良い。
俺はそう思っているし、相談した相手も同意してくれた。
つまり、『土岐』の名を継ぐのだ。
美濃の守護 『土岐氏』
これほど良い看板はない。
もはや、じっちゃんは死んでしまったし、親父は土岐頼芸のご落胤だという噂は、都合良く残っている。
どうせこれまでさんざん適当に姓を変えてきたんだ、この際もう土岐で良いじゃないか。
(西村→長井→斎藤→土岐! ほとんど出世魚みたいだな)
光秀や半兵衛に協力してもらい、長井利道にその旨伝えた。
幕府に近い伊勢氏とか相手の外交工作のついでに、六角家より頼芸を呼び戻そうと思う。
別に、事実かどうかなんてこの際関係がない。
頼芸を迎えるというポ-ズ自体が重要だ。
(上手くいけば、養子縁組という手もある。)
― ここをキチンとしておかないと、光秀謀反の可能性が残る。 ―
(俺は、それが一番コワイのだ。)
『義父の敵』を大義名分に信長が仕掛けてきている。
まあある意味、趣旨が一貫している。
今川相手では大けがをするから、気の良い斎藤家を狙っているのだ。
いや、バラバラな尾張を纏めるために、斎藤家を『 仮想敵国 』に仕立て上げているといってもいいか。
まあ、国を上手く纏められない三流の支配者がよく使う常套手段だ。
信長も、予定外に父親が早くなくなったし。
その後の味方、道三もいなくなった。
焦っているのであろう。
こっちでの道三はそこまで信長に傾倒しなかったが、それでも義父として敵対をしなかった。
信秀が早く死ぬことを知っていたら、婚姻同盟などしなかったであろう。
織田と浅井家に婚姻同盟をした、じっちゃん。
(浅井と婚姻の時点で、もはや天下取りは諦めたのだろうかな、それとも裏切る気満々だったのかなあ?)
いろいろ画策しながら時が過ぎる。
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父義龍は、幕府の力を利用して、南近江の六角義賢と同盟を結ぶ事に成功した。
六角家子息.義治と土岐(斎藤)家子女との婚姻同盟である。
(この時は浅井家が六角家に臣従している時期だったので、不義理ではない。 )
尾張の織田家との戦闘が続くなかでも、外交は大事なのである。
首尾良く土岐頼芸の身柄を確保し、正式に家督が父に譲られた。
京都の将軍家足利義輝より『土岐氏』を称することを許され改名した。
『土岐義龍』の誕生である。
父は、つらい過去との決別が出来たようで清々しい顔をしていた。
永禄元年(1558年)には、『治部大輔』に任官した。
永禄2年(1559年)には、足利幕府相伴衆に列せられ大名としての大義名分を得たのである。
こうして、俺がほとんど手を下すことなく、『土岐家』は着々と戦国大名としての道を歩み始めた。
いかがでしたか?
次回は、『自宅警備の心得』をお送りしたいと思っております。