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翌日。あの後、リリアは安堵したためか、いつの間にか意識を手放していた。起きて窓の外を見ると、朝日の光が差し込んでいた。まさか夢だったのか、とまた落ち込みそうになったところで、
――おはよう、リリア。
その声に、何気ない朝の挨拶に、リリアは心の底から安堵した。
「おはよう。そう言えば私、貴方の名前を聞いてないわ」
――え? ああ、名前か……。さくら、でいいよ。
「さくらね。分かったわ。それで、私はまずどうしたらいいの?」
――うん。廊下に出て、朝の挨拶! まずはメイドの皆さんにだね!
リリアは目を丸くして、そしてすぐに不愉快そうに眉をひそめた。なぜ自分があんな召使いどもに挨拶せねばならないのか、と。そう思っていることが分かっているのだろう、さくらはあからさまにため息をついた。
――リリア。貴方の失敗は、他の人を見下すその姿勢だよ。分かるでしょ?
「それは……そうかも、しれないけど……。でも何もメイドにまで媚びを売る必要はないでしょう!」
リリアほど激しくないにしても、多くの貴族が使用人をあごで扱う立場だ。この国の使用人にとって、働きやすい職場とは人間関係以上に主人の性格に左右されると言っていい。確かにリリアは厳しい方だという自覚もあるが、しかしこれに関しては直すつもりもなかった。
だがさくらは、あからさまにため息をついた。
――リリア。仲良くしている友達がメイドに対して辛く当たっていたらどう思う?
「使えないメイドを持って大変そう、かしら」
――君に聞いた私が馬鹿だったよ!
どう言えばいいんだ、とさくらが叫ぶ。リリアは怪訝そうにしながらも、扉の前で立ったままさくらの言葉を待っている。やがてさくらは、よし、と頷くように言って、
――説明は諦める! ねえ、リリア。私は貴方を助けたいの。
突然話が変わり、リリアは首を傾げた。
――私のことがまだ信じられない?
「信じられるかどうかで言えば、まだ微妙なところね。でも一先ず貴方に従うと決めているわ」
――じゃあ従って。
「む……」
なるほど、とリリアは内心で納得した。さくらの中では明確な理由があるようだが、それをうまく言葉にできないのだろう。ならばそれを無理に教えてくれと言っても仕方がない。リリアは、分かった、と小さく頷いた。
自室の扉を開ける。開けた瞬間、メイドの顔が目に入った。
「あ……」
自分と同い年ぐらいの少女だ。リリアは目を見開き、感情を押し殺した声で言う。
「人の部屋の前で、貴方は何をしているのかしら……?」
意識したわけではなかったが、とても低い声になってしまった。案の定、目の前のメイドがびくりと体を震わし、視線をあちこちへ彷徨わせながら口を何度も開閉させる。その態度に腹が立ち、リリアは再度口を開いた。
――わー! 待って待って! リリアストップ!
さくらが慌てて叫び、リリアの言葉は無音のため息となった。
――あのね、リリア。貴方はいつも、自分が呼んだ時に少しでも遅れたら、メイドさんを怒ってるでしょ? だからメイドさんたちは、ずっと貴方の部屋の前で待機してくれているんだよ。特に最近の貴方の様子がおかしかったら、みんな心配してくれていたんだよ?
まさか、とリリアは目を見開いた。自分の態度が間違っていたとは思っていないが、それでも決して好かれるような人間ではなかったはずだ。それなのに、心配されているとは思わなかった。
――もちろん全員じゃないけど。貴方に怒られるのが嫌で渋々ここに来ているって人もいるけど、中にはこの子みたいに本当に心配してくれている子もいるんだよ。そんな子は大事にしてあげないと。
だから、優しくしてあげて。
さくらの声は真剣そのものだった。リリアはその言葉をかみしめ、自分の中で整理する。もう一度しっかりメイドの顔を見ると、こちらを上目遣いに見つめていた。
「あの……。申し訳ありませんでした、お嬢様」
そう言って頭を下げるメイド。頭を下げたまま、動きを止める。自分の言葉を待っているのだろう。私が何も言っていないのに顔を上げるな、と怒ったことが確かにあったような気もする。癇癪同然の怒りだったが。
「気にしていないわ。少し気が立っていたの。ごめんね」
リリアがそう口にした瞬間、目の前のメイドが勢いよく顔を上げた。その目は大きく見開かれ、リリアを凝視してくる。そんな反応をされるとは思わずに、リリアは思わず一歩後じさっていた。
「お嬢様!」
「な、なに?」
「体調でも悪いのですか! 何か変な物でも食べたんですか! 待っていてください、すぐにお医者様を呼んできますから! だから今すぐに部屋に戻ってください!」
「ちょっと、どういう意味よ」
あまりの言い草にリリアが不機嫌そうに目を細めた。だが目の前のメイドは止まることなく、部屋に戻ってください、すぐにお医者様を、と何度も繰り返してくる。結局自分は正常だと認めてもらうのに、短くない時間を費やしてしまった。
その間、さくらが楽しそうに笑っていたことに、リリアは気づいていない。
部屋に戻れと言うメイドを何とか宥めた後、さくらの指示のもと、とりあえず庭に出ることにした。メイドと別れて歩き出したところで、メイドから待ってくださいと止められた。
「何?」
「お着替えはどうしますか?」
言われるまで、すっかり忘れていた。リリアの服装は、現在通っている学園の制服だ。その制服は、王子から婚約破棄を言い渡された日から着替えていない。そのことを思い出すと、途端に臭いような気がしてくる。
――事実臭いよ、リリア。
あっけらかんと言うさくらに、リリアは思わず叫んでいた。
「分かっているなら言いなさいよ!」
目の前のメイドがびくりと体を大きく震わせた。すぐに、申し訳ありませんと頭を下げてくる。リリアから見てもかわいそうなぐらいに小刻みに震えている。さすがに申し訳なく思い、リリアは少し慌てて言った。
「違うのよ。貴方に言ったわけじゃないの。だからそんなに怯えないで……」
――きっとその子、思ってるよ。私以外いないじゃないかって。
リリアの頬が引きつる。また怒鳴ってしまいそうになるが、自分の目の前にいるのはメイドただ一人だけであり、リリアが聞いている声の主の姿はない。またメイドを怯えさせてしまうだけだ。
普段ならメイドがどう思おうとリリアの知ったことではないが、ずっと自分を心配してくれていたと知るとどうにも無下にできなくなってしまう。そう思っている自分に、リリアですら内心で驚いている。
――ああ、ちなみに声に出さなくても、心の中で言えば私に聞こえるから。
――最初から言いなさいよ!
本当に信用していいのか分からなくなってしまうが、すでに信じてみようと決めたのだ。簡単に自分の言葉をひっくり返すのは自分の性に合わない。リリアは大きくため息をつくと、目の前のメイドに向き直った。
メイドは顔を真っ青にしながらも、こちらの様子を上目遣いに窺っていた。リリアは小さく吐息して、使い慣れていない顔の筋肉を動かして笑顔を作る。そのぎこちない笑顔にさらにメイドが怯えるが、リリアはそれには気づかない。当然ながらさくらは笑いを堪えるので忙しい。
「気分転換に少し庭に出るわ。ただ貴方の言う通り、ちょっと、その……。臭うでしょう?」
リリアの言葉に、メイドはおずおずといった様子で、遠慮がちに頷いた。
「申し訳ないけど、湯浴みの用意をしてもらえる?」
「え? あ、はい!」
メイドが驚いたように言葉を詰まらせたことにリリアは怪訝そうな表情をするが、とりあえずは気にしないことにした。メイドの反応が、普段は命令口調のリリアが今日はお願いという形を取ったことによる驚きだとさくらはやはり気づいている。だがそれを指摘するようなことはしない。なぜならいっそ爆笑したいほどの衝動を堪えるのに忙しいからだ。
「ああ、それと。貴方、名前は?」
リリアが聞いて、メイドはまた言葉を詰まらせながらも、答えてくれる。
「アリサ、です」
「アリサね。覚えたわ。年は?」
「今年で十五になります……」
「そう。なら私の一つ下ね」
リリアは満足そうに頷き、続ける。
「貴方を私の専属にしてあげる。いいわね?」
「え? あ、えっと……」
言われた意味が分からないのか、見て分かるほどにアリサは狼狽している。その理由にリリアはすぐに思い至った。
「ああ、そうね。まずはお父様に許可を取らないといけないわね。後で確認しておくわ」
「え、と……。はい。よろしくお願いします」
深々と頭を下げるアリサに、リリアは満足そうに微笑むときびすを返した。そのまま振り返ることなく、浴場に向かった。
――ところでさくら。うるさいわよ。
――だって……! く、ふふ、ひひふ……!
気持ちの悪い笑い声を必死に堪えようとしているさくらに苦言を呈しておいた。