A3 精霊観察記録2
リリアは子犬の精霊を抱いたまま自室を出た。さくらはリリアの中だ。ティナの部屋へと向かうために、階段へと向かう。
階段を下りようとしたところで、王子とクリスが上ってきた。少しだけ驚きつつも、道を空けるために数歩下がる。王子とクリスは階段を上りきったところでリリアに挨拶をするためか口を開き、そしてリリアが抱いているものを見て絶句した。
だが瞬時に再起動、二人は視線を交わし、クリスがすぐにその場を離れる。誰も見ていないかの確認と、誰か来ないかの監視だろう。視線を交わすだけで瞬時に動けるのだから、この二人もずいぶんと打ち解けたものだと思う。
――それにしても、急にどうしたのかしら。
――うん。間違いなくその子だね。
――は? ああ……。精霊のこと?
――うん。
王子の顔を見ると、王子は神妙な面持ちでリリアが抱いているものを見つめていた。リリアに見られていることに気が付き、王子が慌てて咳払いをする。今更ではあるのだが。
「リリアーヌ。それは、なんだ? 人形か?」
王子の問いに、違いますと首を振る。同時に子犬の精霊も首を振った。王子が大きく目を見開き、視線を彷徨わせる。言うべきか、言わざるべきか、迷うかのように。内心でいらいらとしつつも辛抱強く王子の言葉を待っていると、やがてようやく口を開いた。
「リリアーヌ。ペットの持ち込みはさすがに認められない。その、悪いが……」
「精霊ですが」
「アルディス家の屋敷の方に……。は?」
王子が面白いぐらいに目を見開いた。背後を盗み見てみれば、聞こえていたのだろうクリスも完全に固まっていた。気持ちは分かる。だがすぐに王子は気を取り直すと、リリアが抱いている子犬の精霊をまじまじと見つめた。
「本当に、精霊なのか? ずいぶんとはっきり見えるようだが……」
「精霊ですよ。さくらも認めていますから」
――つまり精霊を人形扱い、もしくはペット扱いしたってことだね!
なるほどとさくらの言葉をそのまま王子に伝えると、見る間に顔を青ざめさせた。すぐに頭を下げようとした王子を、リリアが止める。怪訝そうに眉をひそめる王子に、リリアは苦笑しつつも言った。
「精霊と分からない方が良いですから。殿下が分からなかったのなら、大丈夫でしょう」
「そう、なのか……? だが……。申し訳ありません」
最後の謝罪は精霊に向けたものだ。子犬の精霊は可愛らしく首を傾げ、尻尾を振った。気にするな、とでも言いたげな態度で、王子の頬が緩んでいた。
「しかし、どうして見えるのだ? 私は精霊を見ることができなかったはずだが……」
王子に問われ、リリアは言葉に詰まった。答えていいものか分からない。
――さくら。
――一応、内緒で。王子には私が秘密だって言ってたって伝えて。
リリアは内心で頷くと、王子へと視線を戻した。
「申し訳ありません。さくらから教わったもので、秘密にしてほしいそうです」
「そ、そうか……。それは仕方がないな」
あからさまに残念そうに呟き、肩を落とす。何か目的でもあったのだろうか。王子はすぐに気を取り直すと、改めてリリアへと言った。
「リリアーヌ。精霊の方には隠れておいてもらった方がいいだろう。何も知らなければ人形、もしくは動物に見える。どちらにしても、好ましくはない」
「そうですね。畏まりました。では……」
「あ、いやまて! もう少しだけ、待ってほしい!」
リリアが精霊に姿を隠すように言おうとしたところ、王子が慌てたように止めてきた。訝しげな視線を王子へと投げると、王子は少し気まずそうにしながらも、小さく喉を鳴らして言う。
「その、私も触っても、いいものだろうか?」
「大丈夫だとは思いますが……」
「私も触ってもよろしいでしょうか」
いつの間にいたのか、リリアのすぐ後ろにクリスが立っていた。クリスの視線は子犬の精霊に釘付けになっている。リリアは苦笑すると、側のテーブルに子犬の精霊を放してやる。子犬の精霊は伸びをすると、リリアへと向き直り首を傾げた。
「少しだけそのままでいなさい」
リリアがそう言うと、精霊が尻尾を振った。
「ではどうぞ」
王子とクリスへと言うと、二人は早速とばかりに手を伸ばす。おっかなびっくり、といった様子で、そんな二人を見るのは初めてなので少し新鮮だ。
――ふふふ。さすが私の子犬精霊。みんながめろめろだね。
――かわいいことは認めてあげるけど、そろそろ名前をどうにかしなさい。呼びづらいのよ。
――ああ、そうだね。どうしようかな……。
王子とクリスが子犬の精霊に触れ、感嘆の吐息を漏らす。今まで触ったことのないふわふわの毛並みだ。二人の反応も分かるというものだ。だが端から見ると自分もこうなっているのか、と思ってしまい、リリアは少しだけ反省した。
――よし、決めた!
さくらの声。どうやら名前を決めたらしい。そのまま黙って待っていると、
――クラウソラス!
――却下。
――む! じゃあ、ニーズヘッグ!
――どこからそんな厳つい名前が出てくるのよ。もっとかわいいものをつけてあげなさい。
――じゃあ……。ハデス?
――人の話を聞いていたのかしら?
リリアが呆れたようにため息をつくと、さくらは慌てたように待って待って、と叫び、また唸り始める。そして、
――スピル。
――まあ……。妥協点かしらね。由来は?
――すぴすぴ寝るから。
――聞かなかったことにしておきましょう。
どうやらさくらは名付けが苦手らしい。小さくため息をつきながら、そろそろ行こうかと子犬の精霊改めスピルの元へと向かう。スピルはすぐにそれを察して、リリアへと顔を向けてきた。
「殿下。そろそろよろしいでしょうか?」
「ん? ああ、そうだな。すまない」
王子がスピルを抱き上げ、リリアへと差し出してくる。リリアはそれを受け取ると、頭を一撫でしてから言った。
「それじゃあ、少し姿を隠していなさい」
スピルがすぐに頷き、そのまますぐにリリアの目をじっと見つめてくる。どうしたのかと首を傾げていると、
――リリア。もう消えてるから。目の前の二人には見えてないから。
さくらに言われて王子とクリスを見ると、確かに二人そろって目を丸くしていた。本当に見えていないようだが、リリアからは分からないので少し不便に思えてしまう。
「殿下。見えていませんか?」
「ああ……。大丈夫だ。見えていない」
小さく安堵の吐息を漏らし、では、と二人に頭を下げてリリアは階段を下りていく。
――今から君の名前はスピルだよ。
ふとリリアの頭の中で声が聞こえる。そしてすぐに、
――はい、ありがとうございます、さくらさま。
幼い男の子のような声。リリアは目を剥き、立ち止まった。幸い誰も見ていないのでそんなリリアを不審に思う者はいないが、リリアは突然聞こえた声に心の底から驚いていた。自分が抱くスピルを見る。間違いなくスピルの声なのだろうが、確証が持てない。
「スピル?」
呼んでみると、尻尾を振って振り返った。
「貴方、喋れるの?」
「はい。すこしだけですが、はなせます」
「へえ……」
「でも、にがてです」
「そうみたいね。今まで通りでいいわ」
そう言いながらスピルを撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。満足そうにリリアも頷き、下り始めた。
来週でラストです。来週こそティナに会います。




