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アルディスの屋敷の自分の部屋に、リリアはいた。試験の後の休暇の間、リリアはずっとこの部屋に閉じこもっている。
もっとも、それは今までのように無駄な時間を過ごしているわけではない。部屋の奥のテーブルで、ずっと書き物をしていた。テーブルの隅には書き終えた後の紙が大量に積まれている。今もリリアは、白紙だった紙へと一心不乱に文字を書き連ねていた。
学園で閉じこもっていた時に考えていたことの一つだ。リリアはさくらから多くのものを教わった。それを少しでも形にして残しておきたいと思ったのだ。さくらから与えられた知識を、かつて賢者たちが広め、そして失われた知識を、忘れる前にと書き留めていく。
一年間、暇さえあれば聞いていたさくらの知識だ。さすがに一朝一夕で終わるわけもなく、休暇をほぼ全て使い切ってしまった。残された休暇はあと二日。最終日に寮に戻ることを考えると、明日一日しかない。だが、一日あればティナと共に出かけることはできるだろう。
ティナは二日ほど前に王都に戻ってきており、アルディスの屋敷に滞在している。リリアと遊びに行こうと思っていたらしいが、リリアが書き留めている内容を知ると、邪魔をしないようにと部屋を訪れないでくれている。立ち去る時に、終わったら遊びに行こう、と言われてはいるが。
「…………。終わり」
リリアはペンを置くと、ゆっくりと息を吐き出した。最後の一枚を束の一番上に置き、満足げに頷いた。我ながらよく書いたものだと思う。むしろよく覚えていたものだ。さくらの教え方が上手かったということだろう。
あとはこれを分類ごとに分け、順番に並べ、本にするだけだ。本といっても糸で綴じるだけの簡単なものになるだろうが、それで十分だろう。必要なら誰かが書き写すはずだ。さすがに二回目を書こうとは思わない。二ヶ月近くもかかったのだから。
ティナを呼びに行こう、と席を立ったところで、勢いよく扉が開かれた。
「リリアーヌ! いるか!」
王子だった。リリアは呆れてため息をつき、王子に文句を言おうとして。
王子の、かつてないほどに焦りに満ちた表情を見て、止めた。
「いかがなさいましたか?」
リリアが聞くと、王子は口を何度か開き、しかしすぐに首を振った。
「説明は行きながらする! とにかく一緒に来てほしい!」
怪訝そうに眉をひそめながらも、リリアはすぐに頷いた。王子がこれほどまでに取り乱すのだから、よほどのことが起きているのだろう。もっとも、それほどのことなら、リリアでは何の力にもなれないと思うのだが。
部屋から出ると、アリサが慌てたようにこちらへと駆けてきた。
「リリア様! 一体どこへ……」
「ちょうどいいわ。一緒に来なさい」
「え? あ、はい!」
リリアが命じると、アリサはすぐに頷いた。どこへ行こうとしているかは、リリアにも分からない。だがアリサがいれば、リリアでは対応できないことでもアリサならできるかもしれない。王子も反対しなかったので連れて行っても問題はないようだ。
「殿下。ティナもここにいるのですが……」
「来る時に会った。必要なのはリリアだけだが、説明が面倒だ。ティナも連れて行く」
王子にしては珍しく、ティナに対してもどこか投げやりな対応だ。それだけ余裕がないということだろう。本当に、一体何があったのか。
庭に出ると、王家の馬車が止まっていた。ティナが落ち着かない様子でその側にいる。リリアに気が付くと、嬉しそうに破顔した。
「リリア! 良かった、どうしていいか分からなくて……」
「説明は後だ、話も後だ、とりあえず乗ってくれ」
王子に急かされ、リリアとアリサ、ティナが馬車に乗る。王子もすぐに乗り込み、馬車が走り始めた。
隅にグレンがいた。疲れ切った表情で、リリアの姿を見ると安堵のため息をついた。
馬車が勢いよく走っていく。まさに全力疾走だ。当然ながらかなり揺れる。アリサは平然とした表情だが、ティナは気持ち悪そうに顔を青ざめさせていた。リリアも少しだけ気分が悪くなってくる。
「殿下、申し訳ありませんが、速度を……」
王子が魔法陣の描かれた紙を差し出してきた。見覚えのある魔法陣だ。簡単な治癒の魔法陣で、ちょっとした体調不良などに用いられる。どうやら速度を緩めるつもりはないらしい。非難がましい視線を向けようとして、王子も同じ紙を持っているのを見て、やはり止めた。
ちなみにグレンの手には何もない。どうやら彼のものは用意していなかったらしい。この表情はそのためか、と納得した。
「殿下。説明をお願いします」
リリアが言うと、王子は頷いて口を開いた。
「先ほど、王城に大精霊が現れた」
「は? 何が?」
「大精霊だ」
意味が分からない。精霊ならまだ分かる。大精霊など、そうそう現れるはずがないだろう。唯一の例外が年始の行事のはずだ。アリサとティナも、絶句して唖然としていた。
「私が呼び出された理由は?」
「大精霊が呼んでいるのだ。リリアーヌ・アルディスを名指しでな」
何故、と思うが、分かるはずもない。リリアが唯一知っている大精霊は屋敷の地下で見たあの大精霊だけだ。あの大精霊だとすれば、さくらに関わることだろうか。推測にしかならないが。
やがて馬車は王城の前で止まった。王子がすぐに降りて、リリアたちも続く。さすがに城の中では走ることはせず、しかし早歩きで先を急ぐ。
「ちなみに、どちらの部屋に?」
「謁見の間だ。突如として現れたからな。もう大騒ぎだ。笑うしかない」
王子が乾いた笑みを漏らす。少しだけ、同情してしまう。
「アルディスの屋敷の地下で見た大精霊とは別の方だったが、若い女の姿だ。妙な挨拶をしながら現れたぞ。はろー……。だめだ、思い出せない。慌てすぎだな……」
王子が自嘲気味に笑うが、リリアはそれを聞いていなかった。リリアが知る者の中で、妙な挨拶をした者は一人しかいない。まさか、と思いながらも王子へと再び問いかける。
「名前、などは名乗っていませんでしたか?」
「ああ……。そう言えば、名乗っていた。初めて聞いた大精霊の名前だ。大騒ぎの原因の一つだな」
それはそうだろう。大精霊のことは大精霊と呼べば事足りるのだから、名前など聞いたこともないはずだ。それが名乗れば、騒ぎにもなる。だが今はそんな状況などどうでもいい。名前は、と聞くと王子は短く答えた。
「さくらだ」
それを聞いた瞬間、リリアは駆けだした。王城の中だがどうでもいい。王子たちが止める声が聞こえるが、それもどうでもいい。リリアは大急ぎで謁見の前へと向かう。他の部屋はともかく、謁見の間へは分かりやすい通路だ。迷うこともなくその部屋にたどり着き、驚く兵士たちも無視してリリアは扉を叩き開けた。
「だから! 私はリリアと会いたいの! 王様に止められる筋合いないよね!」
「もう少し、もう少しだけお待ちください! 今、城の者が呼びに行っています。ですから、もう少し!」
「なんで? 一応、王様に会っておいた方がいいかなと思っただけなのに、なんで止められるの? 私に喧嘩売ってるの? 買うよ? 喜んで買うよ? うぇるかむだよ?」
「うぇるか……? いえ、そんなつもりはありません。本当に、もうすぐです!」
あの王が、必死になって目の前の少女に頭を下げている。もっとも、リリアはそんな王の姿など見ていない。目の前の、黒い制服の少女に視線は釘付けになっている。リリアはその少女に、ゆっくりと近づいた。
「さくら?」
名を呼ぶ。すると少女は勢いよく振り向いた。少女と、さくらと目が合い、お互いにまじまじと見つめ合ってしまう。しばらくそうしていると、さくらが顔を輝かせた。
「リリアだ! 生リリアだ!」
そう言って、リリアに抱きついてこようとして。
咄嗟に避けた上でその頭に平手打ちを入れてしまった。
「ふぎゃ!」
妙な悲鳴を上げてうずくまるさくら。王や周囲の者が顔面蒼白になる中、リリアは、あ、と間抜けな声を漏らした。
「ごめんなさい。つい」
「ついってどういうことかな! ひどい!」
さくらが立ち上がり、叫ぶ。それを聞いて、リリアは笑みをこぼした。頬を膨らませていたさくらもすぐに笑みをこぼす。とても楽しげな、笑顔だ。
「さくらなのね?」
リリアが確認するように聞くと、さくらは頷いた。
「うん。お久しぶり、リリア! 会いに来たよ!」
懐かしい声と同じ声に、リリアは瞳を潤ませる。何も言わずに、さくらの体を抱きしめた。
「へ? り、リリア? どうしたの?」
「何でも、ないわよ……」
そう言いながら、小さく嗚咽を漏らす。さくらは不思議そうに首を傾げながら、リリアの背を叩いた。
「リリアはやっぱり泣き虫だね。よしよし」
そう言いながら、さくらがリリアの頭を撫でる。
静かに泣き続けるリリアと、柔らかく微笑みながらその頭を撫でるさくら。
周囲の者は、王を含み、ただただ呆然とその光景を見つめていた。
「落ち着いた?」
さくらの声に、リリアは小さく頷いた。さくらはそっか、と嬉しそうに微笑み、そして、
「それじゃあ、取り憑きます。おじゃましまーす」
「は?」
唖然とするリリアにさくらが触れる。するとそのまま、するっとリリアの中に入ってしまった。
「え? は? さ、さくら?」
――おお! なんか広くなってる! 私のことをそんなに気に掛けてくれてたなんて! 嬉しい! わーい!
恥ずかしい内容を心の中で叫びまくっている。それが聞こえるのはリリアだけだというのに、リリアは顔を真っ赤にした。
「リリアーヌ。先ほどの、大精霊様は……」
王がおずおずといった様子で聞いてくる。リリアははっと我に返り、周囲を見る。誰もがこちらを興味深そうに見つめていた。
「えっと……」
リリアは少し考えて、しかしすぐに諦める。考えるのが面倒だ。今は、早くさくらと話がしたい。
「申し訳ありません、陛下。説明は、後日に」
「そんなことが許されると思うのか!」
王ではなく、周囲の貴族から声が上がる。どうしようかとリリアが悩み始めると、さくらがふわりとリリアの側に現れた。本当に突然現れるものだから、驚きで悲鳴を上げてしまいそうになる。
「邪魔、するの?」
さくらが、静かに、けれどよく通る声で言った。
それは有無を言わさない声だった。声を上げた貴族が、ひっと短く悲鳴を漏らし、尻餅をついた。
「邪魔を、するの?」
さくらが再度問いかける。顔を見なくても分かる。間違いなく、怒っている。貴族たちは全員が顔を青ざめさせながら、勢いよく首を振った。
「うん。ならばよし! 王様も、邪魔しないでね?」
「畏まりました。お二人のご説明を待つと致します」
苦笑しながらの王の言葉にさくらは満足そうに頷くと、再びリリアの中へと入る。リリアは頬を引きつらせながら、踵を返した。
難しい表情をした王子と、どこか優しげに微笑んでいるティナとアリサが待っていた。リリアは肩をすくめて、言う。
「屋敷に戻るわよ」
アリサとティナがすぐに頷く。王子は、何かを言いたそうにしていたが、結局何も言わずにリリアたちを送り出した。
リリアは自室で、一人で立っていた。アリサとティナはリリアに遠慮したのか、部屋に入ってきていない。リリアは部屋の中央まで行くと、そこでゆっくりと息を吐き出した。
「さくら」
リリアが呼ぶと、背中に重みを感じた。振り返れば、さくらが笑顔でリリアに抱きついていた。
「呼んだ?」
さくらの声に、リリアは頷き、言う。
「色々と聞きたいことがあるけれど……。大精霊になったの?」
「うん。女神様に誘われたんだ。今の私は正真正銘の大精霊だよ」
「女神? さくらを殺した神ではないの?」
「違うよ。女神様はこの世界の神様。女の人の姿だったから女神様って呼んでるだけ」
予想よりも斜め上の存在に思わず目を丸くしてしまった。大精霊をまとめる存在として神がいるとは聞いたことはあるが、人前に姿を現したことがない存在なので作り話だと思っていた。
「話を戻すけど、理由はともかく世界を渡った私は大精霊になれるらしくて。大精霊になれば消えないで済むし便宜も図ってくれるらしいから、引き受けちゃった」
「便宜?」
「うん。リリアが死ぬその時までは、好きに過ごして良いって。その後は女神様の指示に従う。そう約束した。まあ、最初に色々と教わるのに時間がかかっちゃったけど」
だから、とさくらが楽しげに言った。
「私はリリアが死んじゃうその時まで、側にいるよ。ずっと側にいて、導いてあげる。私はリリアを助けるために遣わされた天使だからね!」
胸を張ってそう言うさくら。そう言えばそんなことも言っていたな、と思い出す。あの時は冗談の類いだと思ったが、今回はあながち冗談とも言えなくなってしまった。
「頼りにしているわ」
リリアがそう言うと、さくらは破顔した。
「うんうん! で、今後のことだけどね! まずは、何しようかな!」
嬉しそうな、楽しそうなその声に。リリアも思わず笑みをこぼした。
また、騒がしい日々が始まりそうだ。今回のこれは、おそらく死ぬまでずっとだろう。
リリアはさくらに取り憑かれたのだから。
これからの生活に思いを馳せながら、ふとリリアは言い忘れていたことを思い出した。さくら、と名を呼ぶと、さくらは首を傾げてこちらを見る。そんなさくらへと、リリアは微笑みかけた。
「おかえり、さくら」
さくらが目を瞬かせ、そしてすぐに、
「ただいま、リリア!」
花が咲いたような笑顔で言った。
了
転生の輪から外れてしまっているので、さくらは精霊として生きていくことになりました。
リリアも成長して、さくらの問題も解決?しました。
故に、『取り憑かれた公爵令嬢』はこれにて完結です。
このような拙作にお付き合いいただけたこと、本当に嬉しく思います。
ここまでお読みいただいた皆様、ありがとうございました。
今後はちょっとした番外編や後日談を不定期で更新するかと思います。
よろしければそちらもお読みいただければ、とても嬉しく思います。
残りは活動報告へ。
では、ありがとうございました。




