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だからだろうか。翌日はまだ日が昇る前に目を覚ました。アリサはまだ眠っているので、起こさないようにそっとベッドから抜け出した。
――リリア。どうしたの?
さくらの声に、リリアは何も、と首を振る。
――早くに寝すぎたかしらね……。少し散歩でもしましょうか。
――あはは。この前のが気に入ったの?
――さあね。
静かにクローゼットの前に移動して、小さな声でシンシアを呼ぶ。やはりと言うべきか、シンシアはすぐに天井から下りてきた。本当にいつ寝ているのだろうか。
「ごめんなさい。少し付き合ってもらえる?」
「畏まりました」
シンシアはすぐに着替えの準備を始める。音を立てずに、素早く。着替えを終えたリリアは、シンシアを伴って自室を後にした。
寮の前で、シンシアと共に星空を眺める。空には雲一つなく、星と月の様子をしっかりと見ることができた。だが、冬は終わったとはいえ、まだ夜は寒い。早めに戻らなければならないだろう。
「リリア様。風邪をひいてしまいますから、お早めに……」
シンシアの心配そうな声に、リリアは薄く苦笑して頷いた。
「分かっているわ。でも、もう少しだけいいでしょう?」
「はい……」
シンシアはそう返事をしたが、少しだけ不満そうではある。リリアのことを心配してくれているのは分かるのだが、少し過保護すぎではないだろうか。
――でもリリア。本当に寒いからね。早めに戻ろうね。
――仕方ないわね……。
リリアがこれほど早くに起きることはほとんどない。もう少しこの星空を堪能したいところなのだが、二人を心配させてしまうなら戻るべきだろう。残念そうにため息をつき、寮へと踵を返した。
――早起きはリリアだけじゃないんだね。
さくらの言葉に足を止め、わずかに視線を上げる。三階ではまだ明かりはないが、二階の窓のいくつかからは明かりが漏れている。魔法陣の光らしく、仄かな光だ。そうして見ていると、窓の一つが開いて生徒が一人顔を出した。深呼吸して、視線を下げて、リリアと目が合った。
「……っ!」
はっきりと顔は見えないが、どうやら驚いているらしい。目を瞠り、硬直している。だがすぐに、慌てたように顔を引っ込めて窓を閉めた。
「ずいぶんと驚いていたみたいだったけど」
少しばかり唖然としたまま言うと、シンシアが神妙な面持ちで頷いた。
「誰もいないと思っていたところに人がいるだけでも驚きますよ。その上リリア様でしたから、余計にでしょう」
「そう。納得いかないけれど、まあいいわ」
次からは真っ直ぐ戻るようにしよう、と心に決めて、寮の中に戻った。
階段を上り、二階に上がる。いくつかの窓から明かりが漏れていたとはいえ、エントランスにはまだ誰もいないようだった。そのまま三階へと向かおうとして、
「シンシア?」
シンシアは階段を上らず、エントランスの隅を睨み付けていた。今までにないほどに緊張した面持ちで、リリアへと視線を向けた。
「リリア様。申し訳ありませんが、先にお戻りください。私は後から向かいます」
「は? 何を言っているのよ。どうかしたの?」
リリアが問うが、しかしシンシアは聞こえていないのか小さく独り言を呟いている。
「いえ、リリア様を先にお送りして、安全を確保してからが……。うん。そうしよう。リリア様。申し訳ありません。今すぐに、少し急いで部屋に戻りましょう」
さすがにリリアも苛立ちを覚え、思わずシンシアを睨み付けてしまった。
「何があったのよ」
シンシアが短く息を呑み、しかし表情は変えずに首を振った。何でもありません、と。
「そんなわけがないでしょう。いいから答えなさい」
それでもシンシアは答えない。ただ静かに、リリアを見つめている。無表情にも見えるが、どことなく焦りも感じた。
――リリア。
さくらの声に、リリアはそちらへと意識を向ける。聞いても答えないシンシアよりは答えてくれるだろう。
――部屋の隅、そっち側。血の臭い。急いで、手遅れになる。
さくらの言葉に、リリアは目を見開いた。その様子にシンシアが戸惑うが、すぐにリリアは駆けだした。シンシアが慌てたように、待ってください、と叫ぶがそれに構うつもりはない。
そして、それを見た。
少女が一人、固い床に倒れていた。血の海の中で倒れ、苦しそうに喘いでいる。その体の側にはナイフがあり、それもまた赤い液体に濡れていた。そして倒れている少女は、
「ティナ!」
リリアが駆け寄り、服が血で汚れるのも構わずに抱き起こす。ティナがわずかに目を開け、そしてすぐに閉じてしまった。なぜ、どうして、と頭の中に言葉が渦巻くが、しかしすぐにシンシアへと怒鳴りつけた。
「シンシア! 人を呼んできなさい! 今すぐに!」
「ですが……! この場にリリア様を置いてはいけません!」
シンシアの言葉に、リリアは言葉を荒げそうになり、しかしすぐに思いとどまった。シンシアは、リリアがティナを大切な友人として扱っていることを知っている。それでもここを動けない理由は、他でもないリリアがいるからだろう。シンシアにとって最も重視しなければならないことは、リリアの安全であり、ティナの命ではない。そうと分かっていても、しかしリリアはやはり叫んだ。
「行きなさい! 今すぐに! お願い、だから……!」
シンシアは言葉に詰まりながらも、表情を歪め、そしてすぐにしっかりと頷いた。
「すぐに戻ります」
そしてシンシアの姿がかき消える。それを見送ってから、リリアはティナへと視線を戻した。ティナの体からは未だに血が流れ、血だまりが広がっていく。一刻の猶予もないことは見て分かるが、しかしどうしていいかは未だに分からない。シンシアがどれだけ急いでも、間に合わないかもしれない。
心だけが焦り、しかし自分では何もできない。泣きそうに顔を歪ませると、
――リリア。こっちに来て。
不意に意識を刈り取られ、気づけば暗い世界にいた。桜の木の前で、さくらが厳しい表情で立っていた。
「さくら、今は遊んでいる暇はないの。すぐに戻して」
「戻ってもリリアには何もできないでしょ」
思わず反論したくなったが、しかしさくらが言う通りリリアには何もできない。だがここにいるよりも、せめてティナの側に。そう思っていると、さくらが指で足下を示した。
「覚えて」
視線を下げると、いつ書いたのか、地面に魔法陣が描かれていた。しかも今まで見たどの魔法陣よりも複雑なものだ。分かりやすいようにするためか、以前の壁新聞ほどの大きさで地面に書かれている。
「覚えて。今すぐ。正確に」
さくらの短い言葉。リリアが顔を上げると、さくらは今までにないほど真剣な表情だった。すぐには覚えられない、と言おうとして、
「ティナを助けられるよ」
リリアの目が見開かれた。
壁|w・)ミステリーやサスペンスといった推理系の要素はないと先に言っておきます。
誤字脱字の報告、感想などいただければ嬉しいです。
ではでは。




