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さくらは桜を見上げながら、先ほどからずっと後悔をしていた。
何故、気づかなかったのかと。違和感は以前からあった。その時に、もっと疑問に思うべきだったのだ。自分は一体何をしていたのか。
人間の性格がそう簡単に変わるわけがない。ましてや、リリアに望んだのは今までとは真逆とも言える考え方だ。今まで典型的な公爵家として生きてきたリリアが、すぐに順応できるはずのない考え方だ。
それでもリリアは努力をした。してしまった。今までの自分を無理矢理に抑えつけ、さくらが言うままに行動してきた。確かに当初はまだ改善の余地があることばかりだったが、最近はさくらの理想通りになっていた。どれだけ自分の心を抑えつけていたのだろうか。
結果として、リリアの心には爆弾ができあがってしまった。貴族としてのプライドを、かつての自分の心をこれでもかと凝縮させた爆弾だ。よく今まで爆発しなかったものだと思える。
「リリアに悪いことしたなあ……」
さくらの呟きは闇の中へと溶けていく。さくらはため息をついて、今後の方針を考え始めた。
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宿に戻った時、ティナは食堂の準備を手伝っていた。視線を上げたティナと目が合い、笑いかけてみる。ティナは今までとは違う、ぎこちない笑顔を浮かべた。それを見て、リリアは胸が締め付けられるように苦しくなった。
特に挨拶を交わすことなく、三階へと上がる。そのまま部屋に入り、ベッドに座った。
さくらが言っていたことを思い出す。心の中がもやもやとする。ずっと対等な友人が自分を見下しているかもしれない。ティナはそう思っているのだろう。思っても仕方がないことを、リリアは言った。相手がキースであろうと関係のない言葉だ。
ティナに説明するか?
リリアはすぐに首を振った。ティナはリリアに聞いてきた。それが本音なのか、と。そしてリリアは本音だと答えてしまった。そのリリアが、今更どのように説明をするというのか。今はまだ、ぎこちないながらも笑顔を返してくれている。もし、本当に失望されてそれすらもなくなってしまったら。
そう考えている自分にわずかながら驚きを覚えた。自分は今までこれほど弱い人間だっただろうか。人のことなどどうでもいいと、そう思っていたはずだ。確かに今も、それなら一人でも構わないと思う自分がいる。だが同時に、ようやくできた対等な友人を失いたくないとも思っている。
どうすればいいのか、分からない。こんな時に頼りにしているさくらは、あの後ずっと沈黙したままだ。さくらにまで見捨てられたのかと思うと、途端に胸が苦しくなった。自然と涙が溢れてくる。
――さくら……。ねえ、聞いているのでしょう? 返事をしてよ……。
誰も、何も応えない。静寂だけが流れていく。
――お願い、だから……。
そうして泣きながらずっと呼びかけている間に、泣き疲れたのか、いつの間にかリリアは眠りに落ちていた。
そうしていつもの黒い世界にたどり着く。さくらのいる場所だ。いつもの桜は、何故か少しばかり元気がないように見える。その桜の根元に、さくらは座って何事かを考えているようだった。
「あ……」
さくらの姿を見た瞬間、安堵した。見捨てられたわけではなかった、と。だが、まだ分からない。もしかすると、これから見捨てられるのかもしれない。そう思った瞬間、リリアはさくらへと駆け出していた。
「さくら!」
大声で呼ぶ。するとさくらは少しだけ驚いたように顔を上げた。
「あれ? リリア? どうやってここに来たの? まだ呼んでないはずだけど……。わっぷ」
何かを言おうとしていたさくらを抱きしめる。逃がさないようにと、強く。
「リリア? どうしたの? って、泣いてるの!? ああ、まあ泣いても仕方ないよね。よしよし」
さくらがリリアを撫でてくる。いつもなら少し怒るところだが、今日ばかりはその手が心地良い。しばらくそうしていた後、ようやくリリアは口を開いた。
「さくら……」
「ん? なに?」
「お願い……。見捨てないで……」
リリアが絞り出すようにして言った言葉に、さくらはしかし何も応えない。不安になってさくらの顔を見てみると、目を見開いて固まっていた。
「えっと……。見捨てる? 私が? リリアを?」
一度だけ頷くと、さくらは苦笑した。
「そんなことしないよ。私は、私だけは、何があってもリリアの味方だから」
「でも何も言ってくれなかったじゃない……」
「あー……。それは、ごめん。ちょっと今後のことで考え事をしていたから」
「今後?」
「うん。リリア、ちょっとお話しよう」
さくらの言葉に、リリアはようやく体を起こした。さくらに言われるがままに、彼女の正面に座る。さくらはこほんと咳払いを一度して、言った。
「私はね、リリアには色んな人に慕われる人になってもらいたいんだ。貴族だけじゃなくて、平民の人を含めた色んな人に慕われてほしい」
「無理よ。今日のことで分かったでしょう。きっと、どこかで失敗するわ」
「うん。そうだと思う」
あっさりと認めたさくらに、リリアは小さく首を傾げた。さくらはいたって真面目な表情だ。
「私のお父さんが言ってたよ。優しいだけじゃ慕われないって。時に厳しく、しっかりと怒れる人こそ多くの人に慕われるんだって。最近のリリアは、ずっと私の言うがまま、だったからね」
こればっかりは私に責任があるけど、とさくらが苦笑する。そんなことはないと首を振ると、さくらはやはり笑うだけだ。
「私の知識も常識も、以前にいた場所のものなんだ。だから私の考えは平民寄りだね。このことでリリアにはいっぱい迷惑をかけたと思う。ごめんなさい」
そう言ってさくらが頭を下げた。
「そんなことないわよ。私が、ちゃんとできなかったから……」
「リリアはがんばってくれてる。ずっとリリアを見てる私が言う。間違いないよ」
面と向かってそう言われると、リリアも悪い気はしない。そうかな、と思い、しかしすぐに首を振った。この考え方がだめだ、と。
「それより今後のことだけどね」
さくらが言って、リリアが頷く。
「私はどうしても平民よりの考え方だからさ。リリアもおかしいと思うことはちゃんと言ってね。どうしても貴族の考え方ってぴんとこないから」
「ええ……。分かったわ」
「今後の方針だけど、とりあえずは今のままで。ただ、怒るべきところは怒っていいよ。ただし人を見下す言い方はなしね。今日みたいなのは絶対にだめ」
それは痛いほどに身に染みた。重々しく頷くと、さくらも真剣な表情で頷いた。
「もしどうしても我慢できなかったら、私が聞くからね。私相手になら遠慮しなくていいから」
「本当に? 何でも言うわよ?」
「う……。な、なんだか怖いけど、どんとこい! 天使ちゃんの包容力で受け止めてあげよう!」
「ありがとう。そうするわね」
「うぐ……。真面目に返されると困る……」
自分で言っておきながら、さくらは恥ずかしそうに顔を赤くしていた。その様子に、リリアはわずかに頬を緩める。ずっと不安に思っていたが、話してみればさくらはいつも通りだ。そのことに、とても救われている。さくらに自覚があるかは分からないが。
「ねえ、さくら」
「ん?」
「ティナと、その……。仲直り、と言えばいいのかしら。できると思う?」
さくらの表情が険しくなった。それだけでさくらの答えが分かってしまう。自分が言ったことが原因だとはいえ、このままの関係というのはやはり寂しいものだ。
さくらは難しい表情で考えているようだったが、やがてしっかりと頷いた。
「時間が解決してくれる、とはさすがに言わないけど……。それでもきっと、いつか分かってくれるとは思うよ。大丈夫」
さくらの言葉に根拠などない。だがそれでも、素直に信じることができてしまう。さくらは、きっと自分を裏切らないと信じているからだろうか。
「さくら。今日はその……。ごめんなさい。あと、ありがとう。今後ともお願いするわね」
「気にしなくていいよ。だからがんばろうね」
そう言って、さくらは満面の笑顔を見せてくれる。リリアはそれに嬉しそうに頷くと、目を閉じた。
「少しだけ、ちゃんと休んでね」
さくらのそんな言葉が、聞こえたような気がした。
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ではでは。




