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兄の視線がわずかにずれ、リリアの奥へと向かう。ティナとはまた夕食の時にと別れたのだから誰もいないはずだ。不思議に思って振り返ってみて、思わず悲鳴を上げかけた。
「……っ!」
どうにか堪えられた自分を褒めてやりたい。そこにいる兜を、ブロソを睨み付けると、彼はやはり何も言わずにきびすを返した。
「ブロソ。ご苦労。後はゆっくり休んでくれ」
ブロソは小さく頷くと、静かにその場を去って行った。
「お兄様、彼はいつからここにいたのですか?」
兄の視線を追うまで全く気づかなかった。自分は彼の横を通ったことに気づかなかったのか、と疑問に思いながら問うと、
「いつからも何も、ずっとお前の後ろを歩いていたぞ」
リリアが大きく目を見開く。それこそ全く気づかなかった。何故、と聞こうとして、しかしさくらが笑いながら言った。
――心配しなくても、護衛だよ。お忍び、とはいってもさすがにリリアを一人にできるわけがないからね。お兄さんは強いからともかく、さすがにリリアは護衛しないと。
――待ちなさい。貴方、気づいていたわね? どうして言わなかったの?
――必要ないと思ったんだけど……。言ったら変に意識しちゃわない?
聞き返され、少し考える。確かに聞いてしまっていたら、ブロソへと意識が向いていたかもしれない。そうなると、ここまで純粋に楽しめなかっただろう。ならやはり聞かなくて良かったのだろう。
リリアが難しい表情をしていたためか、兄が少し申し訳なさそうにしながら言った。
「すまない。言う必要はないと思っていた。そうだな、言うべきことだったな」
「ああ、いえ。構いません。確かに、聞けば気になったでしょうから」
リリアが首を振ると、兄は安堵のため息を漏らした。
「ところでお兄様。ブロソもこの宿に泊まるのですか?」
「いや。本人は俺たちの護衛のためにもここにいると言っていたのだが、俺の権限で帰らせた」
「帰らせた?」
どこに、と聞こうとする前に、兄は頷いて言った。
「あいつはここの出身だからな。実家に帰らせた」
リリアが少しばかり目を瞠り、次いで得心したように頷いた。
「どうしてあの人を選んだのかと思っていたのですが、それが理由ですか」
「ああ。誰かに頼むならついでに里帰りもできるやつがいいだろうと思ってな。遠方出身のやつはなかなか帰られないからな。丁度いいだろう」
そこまで言ってから、唐突に兄が笑った。
「心配するな。リリアのことは俺が守ってやる。だからすまないが、夜は一緒の部屋……。冗談だ」
半眼で睨み付けると兄は視線を逸らした。嫌いな相手と同じ部屋で寝ようとするなど正気とは思えない。
――報われないなあ……。
さくらの言葉の意味が分からずに内心で首を傾げてしまう。すぐに兄が目の前にいることを思い出し、誤魔化すように咳払いをした。
「それではお兄様。私は部屋に戻りますね」
「ああ。夕食はどうする? 食堂で取るか部屋で取るか、だが」
必ず食堂でなければならないと思っていたので、部屋で食べることもできるということに少しばかり驚いた。しかしそれも当然かもしれない。貴族の中には庶民にまで顔を知られている者もいる。そういった者が落ち着いて食事をしようと思えば、やはり部屋で食べる方がいいのだろう。今回だけの気遣いも否定できないが。
少し考えたが、部屋で取らなければならないということもない。リリアは、食堂で、と答えておいた。
「分かった。では俺も食堂で取ろうか。リリア、準備ができたら声をかけてくれ」
「私は別に準備はありませんが。ティナからしばらくは服を借りていてもいいと言われていますし」
「そうか。俺も特にこれといった準備はない。行くか」
そう言って歩き始めた兄の背を追う。階段までもう少しといったところで、ふと兄が口を開いた。
「リリア。明日には着替えはしろよ?」
それはつまり、しばらく着替えるつもりがないとでも思っているということか。リリアはそっと右手を伸ばし、兄の手を思い切りつねった。
「うお! わ、悪かった! 冗談だ! 痛い、いや待て、本当に痛い!」
必死に逃れようとする兄と、兄の手をこれでもかと何度もつねるリリア。端から見れば、きっと仲の良い兄妹に見えていたことだろう。
――平和だなあ……。
蚊帳の外になっているさくらは、その様子を欠伸をしながら見守っていたそうだ。
食堂には他の宿泊客が何人もいた。細長いテーブルが三つ並べられ、所々に三人前後で固まっている。酒を飲んでいる者もいるらしく、とても騒がしい。
「はは。いい空気だ」
兄は嬉しそうに笑いながら、一番隅の席に座る。何がいいのかと首を傾げながら、リリアも兄の対面に座った。さほど待たされることもなく、ここで働いているのだろう女性が水の入ったコップを持ってきた。
「はい。リリア」
「ありがとう……。え?」
女性の顔を見てみると、ティナだった。驚いてティナを見つめていると、ティナは恥ずかしそうにしながら目を逸らした。
「変、かな?」
ティナの服は、先ほどまでと違ってメイド服だ。どうやら慌てて着替えたらしく少しばかり崩れているが、それで似合っている。もっとも、男爵家とはいえ貴族の令嬢にそんなことを言っては失礼になるだろう。
「よく似合っているわ」
――さらっと言っちゃったよ。
――嘘はいけないでしょう。
――うん。私も同じ意見だからいいけどね。それにティナも気にしないだろうし。
さくらの言葉の通り、ティナは嬉しそうに微笑んでいた。
「それで? どうしてそんな服を着ているの?」
「うん。ここで雇っている人はこれを着てるんだよ。制服みたいなものかな」
「他にもあったでしょうに」
「分かりやすいから、だと思うんだけど……」
ティナはそう言うが、ティナも自信はなさそうだ。やはりなぜこの服なのかの理由までは知らないらしい。もっとも、そこまで興味があるわけでもない。経営者の自由だ。
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ではでは。




