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『とある屋敷のメイドの日記より抜粋』
今日もようやく長い一日が終わった。この屋敷で働き始めて今日で三年になるが、ここの仕事は本当に辛い。旦那様と奥様はお優しいのだが、お嬢様がとても厳しく、理不尽な方だ。気に入らないことがあればすぐに怒鳴り、殴ってくる。こちらは手が出せないのをいいことにやりたい放題だ。
そんなお嬢様は、今日は様子がおかしかった。優しくなったとか、怖くなったとか、そんな意味ではない。純粋に、おかしかった。
起床から就寝まで、ぶつぶつと独り言を言っているのだ。何かしてしまったかと不安に思っていると、突然叫んだこともある。だがその叫びは私たちに向けられたものではなく、すぐに我に返ると私たちの視線から逃れるようにそっぽを向いていた。
今までの傾向にはなかったものだ。何かしらの反応を期待されていた場合は応えられなければ責められる。本当に触れてほしくない時に触れてしまうと、それもやはり責められる。私たちは相談の結果、今日のお嬢様の奇行には触れないことにした。
その後も、その日一日、お嬢様に奇行が目立った。ずっと独り言を言っているし、突然叫び出す。私たちは気が気では無かったが、呼ばれた時にいつでも応えられるようにするだけで精一杯だ。
結局のところ、お嬢様は何も言うことなく就寝した。終わってみれば、奇行以外はいつもより平和な一日だった。
華美な装飾品が並ぶ広い部屋。その部屋には多くの調度品が並ぶ。これは全て、この部屋の主がほとんど無理矢理集めたものだ。人を騙して、己の立場を振りかざし、時には父の権力に物を言わせて集めたものがこの部屋には並んでいる。
その部屋の隅、大きなテーブルに突っ伏しているのがこの部屋の主だ。長い金髪に豪華なドレスを着た女で、年は十代前半に見える。その女は疲れ切った表情で、ぶつぶつと独り言を呟いていた。どうしてこんなことに、本当にうるさい、といった言葉が続く。
――まあまあ、落ち着きなよ。
彼女の頭に響くのは、若い女の声だ。この声は彼女にしか聞こえることがなく、今日一日、突然聞こえ始めたこの声に振り回され続けた。
――ねえ、無視しないでよ、リリア。
リリアと呼ばれた女は目を見開き、勢いよく立ち上がった。
「いい加減うるさいのよ! これはだめ、あれもだめって! あんたに命じられる筋合いはないわよ!」
――いやいや、命じてないよ? 忠告だよ。
その声は、リリアがどれだけ怒っても調子を崩すことはない。それどころかどこか楽しげですらある。
「だいたい何度も聞くけど、忠告って何のことよ。それがまず意味が分からないわ」
――それも何度も言ってるよ? このままだと、リリアは破滅しちゃう。没落しちゃうの。私はそれを防ぐために、貴方を助けるために来たんだよ?
「はっ! 没落? 笑わせないでほしいわね。私は何も悪いことはしていないでしょう。それに、公爵家がそう簡単に潰されると思っているの?」
彼女はこの公爵家の長女だ。王家と家族を除く誰もが自分の顔色を窺う。少なくとも同年代なら王子に次ぐ権力者だ。
そんな自分が、公爵家が没落するなど考えられない。
「だいたい、どうして貴方にそんなことが分かるのよ」
――どうして? えっと……。私は天使なのです、未来が見えるのです。ありがたがれ。
「さてと、明日は何しようかしら」
――無視はひどいよ! 確かに天使ではないけど、でも未来はちょっとだけ分かるよ。
ずっと飄々としていた声だったが、その一言だけは真剣味を帯びていた。リリアは内心で驚きながらも、それを表情にはおくびにも出さずに言葉を紡ぐ。
「それだけ言うなら、何が予言してみせなさい。それが当たれば、そうね。貴方の言うことを信用してあげるわ」
絶対に無理だとリリアは断言できる。この声は得体が知れないが、それでも予知ができるようなやつではないだろう。だが声は、リリアの言葉に嬉しそうに笑った。
――本当? 約束だよ。それじゃあね……。
声は何かを考えているのか、少しだけ黙り込んだ。ようやく訪れた静かな時間に小さく吐息を漏らす。そのまま待っていると、やがて声が言った。
――それじゃあ、二年後の予知。時期は春先、かな。
「ずいぶんと先ね。言っておくけど、あの時はこう言った、というのは認めないわよ」
――うん。いいよ。だって、間違えようがないから。
そこまで言うほどのことが、二年後に起きるのか。リリアは純粋にその内容が気になり、続きの言葉を待つ。声は咳払いをすると、言った。
――二年後の春。上級学校に入学後、王子の逆鱗に触れてしまい、嫌われてしまうでしょう。
「な……っ!」
リリアが大きく目を見開く。この国の第一王子とは婚約者だ。その王子から嫌われてしまうなど、どういうことか。
「言っていいことと悪いことがあるわよ……」
リリアが声に怒気を込める。だが頭に響く声には通用せず、やはりどこか楽しげだ。
――分かってるよ、そんなこと。リリアにとっては当たらない方がいいんだし、怒る必要はないよね?
確かに、とリリアは思う。この予言は当たらないと自信を持って言える。そして当たらなければ、この声はきっといなくなるだろう。リリアは分かったと頷いた。
「それじゃあ結果が分かるまで黙っていなさい。いいわね?」
――ええ、寂しいよ……。でも、うん。そうだね。私の言葉を気にしすぎて流れを回避されても困るし、黙っておくね。
その言い方に、少しだけ引っかかるものを覚えた。しかしその違和感を気にすることはせずに、続ける。
「それじゃあ、さようなら。もう二度と出てこないでよ」
――ひどいなあ。うん、分かってるよ。さようなら。また二年後にお話ししましょう。
リリアが不愉快そうに顔をしかめると、声は笑い声を上げて、そして聞こえなくなった。
その後、一日聞こえ続けた不可解な声は一切聞こえなくなった。しばらくは声の言葉を気にしていたが、一ヶ月もするとそんな声があったことすら忘れていた
そして二年後の春。
リリアは王子から婚約破棄を言い渡された。