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さて、と。
彼女を自由にしてしまった。伯父が戻ったときに元通りにしておかないと、何言われるかわかったもんじゃないのだが、おとなしく捕まってはくれるまいな。
この部屋は広いから、逃げ回られると厄介だ。出てきたところをすぐ捕まえるしかない。女の子がトイレをすませるのを手ぐすね引いて待ち構えるって状況は、かーなーり問題があると思うが、いたしかたない。
猿轡を取ったことも問題だ。あのキツい性格がテリア犬みたいにきゃんきゃん騒ぎ出したら手に負えない。オレ、女の子とモメるのヤなんだよ。一つ何か言うと、三〇は反撃してくるから。メンドクセェ。
水の流れる音が聞こえてきた。ドアが、きぃ、と音を立てた。さぁ来るぞ。オレは身構えた。もちろん、すぐ耳を塞げるようにだ。
……ところが。
予想に反して、紫子は暴れたり騒いだりしなかった。じっとして、黙っていた。それはそれでヤな状態だった。何しろ、おかっぱ髪の少女が、こちらからは片眼だけが見えるほどの隙間を空けて、トイレのドアから外を凝視しているのだ。
彼女はいったんぱたんと扉を閉めた。また、きぃ、と細く開いた。視線はオレを見ていなかった。ひどく青ざめて、オレの背後をじっと見ていた。ぱたんと扉を閉めた。また、きぃ、と細く開いた。今度はオレをまっすぐじーっと見て、ゆっくり手招きしている。
「すっげぇ怖ェからやめてくんね?」オレは唇の端を引きつらせ目を背けて答えた。……トイレの花子さんってどんなんだったっけ、いい妖怪だっけ悪い妖怪だっけ?
だがオレの気も知らず、紫子は手招きを続ける。「早く、いらして」声は、怒っているようにも何かに怯えているようにも聞こえた。しかたなく扉に近づくと、いきなり手をつかまれ、トイレの中に引き込まれた。
二人で立つと、吐息が感じられるくらいの距離になってしまう。そんな狭い場所で、紫子はやはり怒っているのか怯えているのかよくわからない表情で、オレを上目遣いににらみつけてきた。
「えっと……そのぅ……もしかして間に合わなかった?」言いながら、なんちゅうことを口走っとるんだと自分でも思った。だがオレにもよく状況がわからないので、思いつきを言ったまでだ。
彼女はぶんぶんと顔を横に振り、怒りと恥じらいと恐怖を一緒くたにした複雑な表情で、とにかく何か答えようとあたふたしたが、なかなか言葉にならなかった。目には相変わらず力があるが、足が小刻みに震えているのが、この狭い空間では嫌でも伝わってくる。
……ひょっとしたら、強気に振る舞ってるけど、やっぱりこの状況が怖いのかな。そりゃそうだよなぁ。拉致られて縛られたら、ショックを受けるのがフツーだろう。
「うーんと……だから……いろいろ手荒なことしてゴメンね。オレ、あの人に頭上がらなくってさぁ」
他人事みたいにオレが言ったあたりで、ようやく彼女の頭の中で何か噛み合ったらしい。
「あああ謝る気があるならはじめからしなければよいのですわっ!」
早口大声でまくしたてて、そこではっと口を押さえる。体をひねり、緊張の面持ちで、薄く開いたドアの隙間からまた外を凝視した。
「……その伯父様とは連絡がつきませんの?」
「いやぁ、ケータイ圏外でさ。伯父貴、カギかけてったもんで外にも出られないし」そのとき紫子が、びくんと身を震わせた。「……外に何かいるの?」
「いますよ」紫子が外を凝視したまま至極まじめに答えた。
「何が?」オレも思わず緊張して問い返した。
「悪霊です」
「はぃ?」
緊張が吹っ飛び、すっとぼけた声が出てしまった。
……えーと、オレには見えないんですが。
……てゆーか、もしかして、怖いのってそっち? オレとか拉致じゃなくて?
……てゆーかてゆーか、「きみ、霊能力者なのに霊が怖いの?」
「こここここわくなんかっ!」緊張しているところに図星を突かれ、紫子はビシィと背筋を伸ばした。それからきりきりとからくり人形のように体の向きをゆっくり戻してオレを見て、ばつが悪そうにこうつぶやいた。「ゴメンナサイ、ホントはちょっと……怖いです」おや、今までにない素直な言葉。
「そんなヤバいヤツがいるわけ?」
「怨念に満ちた地縛霊です。人間の生気を奪って殺す能力を持つ悪霊で、無差別な激しい憎悪をこちらに向けています」
「はいぃ?」マジかよ。そりゃ、確かに怖い。
「無防備で襲われたら、あなたも、わたくしも、ひとたまりも……」さしもの紫子でも、語尾が曖昧になる。
とはいえ、オレにはやはり何も見えないのだ。体をひねり、ちらりと外を見た。殺風景な部屋で目立つものは、オレが座っていたパイプ椅子くらいだ。霊がいるとはとうてい思えなかった。
「いいんです。わたくしが何とかいたします。霊能力のない方はじっとしていてください」勇気を奮い起こさんとぐっと小さな拳を握り締め、紫子がまた強気な表情を見せた。「先ほど結界を張りました。金剛不壊とはいいませんが、この中は当分安全です」
言われてみれば、トイレの閉じた蓋に何かお札が貼ってあった。なるほど? 霊能者っぽいことをする。
はてそういえば、彼女の荷物は事務所に置き去りのはずで、何も持ち出す余裕はなかったはずだが、と思ったら、彼女はお守りの袋を手に持っていた。今までは首からぶら下げていたらしい。それに十枚ほどのお札が入っていた。
「結界の他に、使えるものがあれば……」紫子はそう言って、お守りに入っていたお札を丹念に調べ始めた。
どうやら紫子は、そのお札に期待をかけていたらしい。それさえあれば何とかなる、と思っていたようなのだ。
強気な表情を保とうと努めていた彼女の表情が、少しずつ陰り始めた。札に触れる指先まで震えが走り始めた。しまいに彼女は、悔しそうに歯を食いしばりながら、お札の束をくしゃっと握りつぶしてしまった。「お母様も……人が悪い」「お母様?」「はい、このお守りは、母から緊急用にといただいたのですが……その結界のお札以外は、今のわたくしの霊能力では使いこなせない高度なものばかりです。とすると、あの霊に抗するすべは……何も……」
……最低限、身を守るためのお札だけはちゃんと入っていたってことは、そりゃあママさんわざとやってるよ絶対。腹黒なのか、千尋の谷に突き落とすというのか。つーか紫子ちゃんも、あらかじめ中身調べとくくらいしろよ。
……と、ツッコミを入れるのもはばかられるほど、紫子は落胆し、深くうつむいてしまった。
「外、出られないんですよね」「うん」「連絡も、つかないんですよね」「うん」「どうしよう……わたくしが未熟なばっかりに……」
え、と思った。彼女はこの状況を、自分の未熟のせい、と思っちゃうのか。
今思えば、事務所での慇懃無礼な態度も、成熟した大人を装っていたのだ。そうでなければ、物事は解決できないと思い込んでいるのだろう。
しかし、ムリヤリ準備もなく連れてこられた場所で悪霊に襲われて、自分のせいってことはないだろう。ロクなお札を入れなかった母親や、拉致監禁したバカのせいにして、テリア犬になってくれた方がまだ安心できるものを。
も少しヘラヘラ生きていても何とかなるんだよ、とか、それを借金積み重ねたオレが言っても説得力ゼロなんだが、このままひとりで何でも抱え込んで、カラ勇気振り絞ってたら、紫子ちゃん、折れちゃうよ。
「なんとかなるって」オレは何とか安心させようと言葉を繰り出した。こういうときの減らず口は得意だ。「地縛霊っていうからには、この工場から出ちまえば大丈夫なんだろ? じきに伯父貴が戻ってくるから、そんとき襲われるより先に脱出しよう。さて、出口まで、ダッシュでどれくらいかかるかな……」
オレはドアを開けて、一歩外に踏み出し、トイレから建物の入り口までの距離を目算しようとした───とたんに、「ダメですッ!」紫子に、手をつかまれて引き戻された。「今の一瞬で、爪がかかる距離まで近づいてきました。出口まではとても間に合いません……」紫子は、オレの手を握ったまま離さなかった。
オレとしては、悪霊に爪があるのか、という点が激しくひっかかるのだが、……どうもそんな場合じゃなさそうだ。紫子が、今にも泣きそうな顔でオレを見上げている。白くて柔らかい手に、ぎゅうっと力がこもる。
「ダメです、そんな、無茶しないでください……死んじゃったりなんかしたら、わたくし、どうしたらいいか……う、ぐすっ」
うわ……ヤバい! 泣きそう! もう心が折れる! ポッキリ行く! オレは悪霊なんかより、泣いてる女の子の方がよほど怖い!
どうする? どうにか気を紛らわせないと。でも、悪霊に太刀打ちできなくて怖がる彼女に、何と言ったら励ませる? 生まれてこの方ずーっと、霊なんて一度も見たことないこのオレが、生まれてからずーっと霊を見続けてる彼女に、何が言える? ずーっと霊を見てきた、彼女に……。
……あれ、待てよ。
おかしいな。なんか変だ。
「紫子ちゃん」オレは紫子に尋ねた。「その悪霊、いつからここにいるの?」
「はい?」
「いやさ、その霊が地縛霊で、ずーっとこの土地にいるんだったら、オレたちこの建物に入った瞬間に襲われてるんじゃね? ってか、紫子ちゃん、なんで最初っから見えてなかったのさ?」
「あ、それは、その……」紫子のマジメな性格には、単純な状況確認の質問は有効だったようで、涙も引っ込む事務的な対応に彼女を引き戻すことができた。「あの霊は、ついさっき現れたのです。わたくしの霊能力が解放されたので、それに反応して目覚めたのですわ」
「霊能力が、解放?」
「えーーっと……その」紫子は、ぽつぽつと話し出した。霊感の全然ないオレにどんなふうにどこまで話せばよいか、気を払ってくれているようだった。「今までは、縛られていて、猿轡もあって、だから」
「縛られていると、霊能力って使えないの?」
「猿轡の方が問題だったのです。霊能者が霊能者たりうるのは、霊感点と呼ばれる、霊を感じる器官というべきものが備わっているからで、どなたも、頭や首回りにあることが多いです。わたくしの場合は、それがぼんのくぼにあって、そこで感じたものが視覚と重なるのですわ」
「ぼんのくぼ?」紫子は首の後ろあたりを押さえた。「ここを塞がれていると、霊は感知できません」
なるほど? 猿轡していたタオルの結び目があった場所だ。おかっぱという古くさい髪型にしているのもそのせいか。
「髪の毛が塞いでもダメなんだ」
「はい、たとえ産毛でも、三日も剃るのを怠ると、とたんに感度が落ちます」
「感度ねぇ……感じない方がいいこともあんじゃね?」さっきまで彼女の猿轡だったタオルは、オレのポケットに入ったままだった。取り出して、彼女の首に巻いてやった。そうすれば、ぼんのくぼが塞がる。「怖いものをわざわざ見なくていいよ、とりあえず」
なぜだか、紫子がぽぉっと顔を赤くした。「あ……ありがとうございます」少し安心できたようで、しばらく慈しむようにそのタオルをなでていた。
それから、ふっとひとつ大きく息をついて、便座の蓋の上にとすんと座り込んだ。
「ごめんなさい、わたくしが未熟なばかりに、こんなことに巻き込んでしまって」
「いや、巻き込んでんのこっち。ひっさらったりする方が百パー悪いんだからそういうの言いっこナシ。こっちこそホントにごめんな、伯父貴があんなパニックになるとは思わなかった」なんかちょうどいい位置にきていたので、オレは紫子の頭をかいぐりかいぐり撫でてやった。「紫子ちゃんはよく頑張ってるよ」
ふにゅ、と紫子はなんだか嬉しそうな吐息を漏らした。「身に余ります、えっと……お名前はなんでしたっけ……」「塚堂洋介」「ありがとうございます、洋介さん」あ、なんか少しカドが取れて、かわいい顔立ちになってきた。ツンケンしてるのも悪くはないが、こっちの方がずっといい。