雨の日の言葉
私は雨が好きだ。雨の日を語る言葉が好きだ。
いま私がこうして話しているような言葉が好きだ。これまで何千何万の小説で使い古されているであろう、こうした己語りのような言葉が好きだ。そんな言葉遣いで雨について話すのが好きだ。
雨というのは常に新しいようでいて、しかし天地をぐるぐるとまわっている。それは言葉も同じだ。私が何を考えて何を話したとしても、その言葉はとっくの昔に使い古されていて、「とっくの昔に使い古されている」という言葉すらとっくの昔に使い古されていて、でも今ここに新しく降り続ける。だから私は雨が好きだ。
雨の音がガラスを叩く。私は雨の日の音も好きだ。
雨が地面に落ち、窓ガラスに当たり、干しっぱなしの洗濯物に当たり、それぞれの音を奏でるのを聞くのが好きだ。まるで自分が世界のあらゆるものに触れているかのように感触を楽しむことができる、そんな雨の日の音が好きだ。
微睡むように目を瞑り、雨が植物の葉に当たる音に聴き入り、雨が空気を揺らす音に聴き入る。雨を楽器に例える芸術家は多いが、それに倣って雨という楽器を楽しむのが私は好きなのだ。
窓の外の風景へと目を向ける。 私は雨の日の景色も好きだ。
空気の汚れを雨がさっぱりと洗い流し、澄んだ世界を上映しながらも深い霧のように視界を覆う、雨の日の景色が好きだ。
ざぁざぁと降る雨、路面は弾けた雨粒でうっすらと白く覆われ、壁やガラスには水滴でモザイクが掛かる。そんな雨の日の風景が好きだ。
そして私は気づく。私は雨の日の風景を室内から眺めるのが好きだ。
雨のなか、直にその風を肌で感じて、長靴でぐしゃぐしゃと歩き回ってみるのも楽しいだろう。いや楽しい、断言する。
でも私は、雨の日の世界をガラス越しに眺め、安全な部屋の中から余裕の顔で雨を愉しむのも好きなのだ。雨は冷たい。冷たいなかを歩き回るのは寒いので嫌だ。暑い日にはこのくらいの寒さを欲しがってしまうものだが、あまりに寒いと風邪を引いてしまうからそれは嫌なのだ。
そんな事を考えていたら身震いがしたので、
最近買った「着る毛布」に包まりなおし、ごろんと天井を仰ぐ。
私はこの安全な部屋が好きだ。
ゆっくりと雨の日を眺めることのできる部屋が好きだ。
灯りを点けず、昼間だと言うのに少しひんやりとした暗さのある、この安心できる部屋が好きだ。そして暗さに飽きたら照明を点け、明るさを自分の思うがままに操れる神のごとき全能感を感じながら、買い替えたばかりの照明にくっついているLEDの人工的な明るさを浴びるのが好きだ。
仰向けのまま照明のスイッチをころころと弄び、
私は再度、雨に濡れる外の風景を視界に入れる。
私は、こうしてゆったりと雨の日を堪能できるからこそ、雨が好きなのだ。
安全で暖かな部屋、頬に当たるやわらかな毛布、うっすらと白く見える景色、なぜか落ち着く水滴の音色。雨の日の世界は、こんなにも私の好きなものであふれている。
私は思う。
雨が上がりすっきりとした空気の中、悠々と散歩をするのもいいかもしれない。
しっとり濡れた緑の鮮やかさ、水溜りに映る街、そしてそれをあえて揺らす面白さ。雨はそのものが上がってしまってもなお、私に楽しいものを残してくれる。
少し寒いが、雨が止んだら散歩にでよう。
長靴で水溜りをぱしゃぱしゃ鳴らすのもいい。
カメラを持って子供のように虹を探すのもいい。
ついでに近くのお店で、おいしいと評判のたい焼きでも買って齧り付けば、思わず頬も緩むだろう。なにせ私は甘いものも好きなのだ。
よし。予定も決まった所で、もうしばらく雨を眺めていよう。
天気予報のお姉さんが言うには、あと数時間ほど。
それまで、また少し、微睡みながら、もう少しだけ、雨を眺めていよう。
この雨には、私の大好きなものがこんなにも詰まっている。
やはり私は、雨の日が好きだ。
雨の日になんとなく書いたものです。そのうちリメイクしたい。
本タイトルは自ブログおよび「カクヨム」様においても公開しています。
あまり頻繁に確認していないため反応できたりできなかったりしますが、コメント等は気付いたときにすべて読んでます。ありがとうございます。
【最終更新】
2018/9 ちょっとだけ改稿しました。