安楽椅子探偵
湯気を立てて半透明の黒い液体が白いカップに注がれる。購入したばかりの豆の状態の時よりも香ばしく、指先から感じる熱さがより喉を渇望させる。白い湯気が段々とモクモクと立ち込める透明になり、カップに注がれたばかりのコーヒーを覗き込めたら、いつものタイミングだ。
この部屋のオーナーである青年は、カップを受け皿に乗せ、窓ぎわにあるデスクまで運ぶ。
ゆっくりと椅子に腰を掛け、カップの横にある3枚閉じのA4の紙を左手で持ち、右手でカップを口まで運ぶ。
やばい……これぞ、THE仕事人でしょ!
必要ない妄想に口元が緩みそうになるのを、意識的に抑える。もちろん、資料の内容は頭に入ってはいない。
「そろそろかな」
時計に視線を移し、秒針を目で追う。彼の耳の奥ではすでに、ビルの灰色の階段を駆け上る女の足音が音が響いている。
12、11、10、9。彼の脳内でのカウントがどんどんと進む。
5、4、3、2、1、
「いらっしゃ「失礼します!」
彼の声をかき消すようにして、部屋に入ってきたのは、ここ『琥珀探偵事務所』の唯一の社員である芒玲奈だった。ショートの茶髪が幼さを醸し出しているだけではなく、もともとの童顔低身長の体つきの影響でより幼く見えている。見た目だけでいえば16歳前後だ。
「遅くなりました。少し、面倒な仕事だったもので」
息を切らしながら説明する彼女を、琥珀空が優しく抱擁しようとした。しかし、彼のその行動はさらりと交わされる。
「これが今回の資料です……って、この資料、とっくに解決した案件ですよね? どうして今更」
「いや~、過去の事件を洗い流してみるのも大事だと思ってね。そうだ、コーヒー飲む?」
「いただきます」
すでに湯気が消えつつあるカップを横目に資料を片付けながら、玲奈は答えた。
空はコーヒーメーカーに近付き、新しいカップを取り出す。
「そうだ。砂糖とミルク入れる?」
尋ねた後で、空は思い出したように海馬の中にある記憶の引き出しを開ける。
「コーヒーはもともとアルカリ性飲料で、ミルクを入れても変化をしないんだが、砂糖を入れると酸性に変化すると主張されている。飲み物でアルカリ性を主張しないといけないのは、コーヒーが人体に悪影響だという噂が広まったためらしい」
「そうですか、私はミルクだけで」
ドヤ顔で雑学を披露する空を、慣れたように聞き流した上で答えたのだが、空は聞こえていないかのように続ける。
「砂糖には疲れを癒して頭の回転を早くする効果があるといわれているけど、砂糖単体
での効果はそこまで期待できないらしい。だけど、気休め程度にはなるだろうから、砂糖も入れておくね」
「いや、ですから砂糖は」
制しようとする玲奈を無視し、空はカップの中に砂糖とミルクを入れる。黒色から淡い茶色に変化したコーヒーが、空の鼻を擽った。
「どうぞ」
本来は依頼人の話を聴くための机の椅子に座っている玲奈の目の前にカップを置く。
「ありがとうございます」
ブラックコーヒーを希望していた彼女は少し不満そうだったが、何も言わずに口に入れる。
「それで、警察から依頼、受け取って来たんでしょ?」
「あっ、はい……」
空に言われ、玲奈は鞄から資料を取り出す。
琥珀空は私立探偵だが、警察からの要請を受けてよく事件解決に協力をしている。それは、彼の独特のスタイルによるものだった。
「今回は、犯人の推定ではなく、どのようにして殺害したか、がメインの依頼ですね」
「珍しいね、いつもはある程度捜査が進んでからだったのにさ」
「それほど、今回は難しいみたいですよ」
玲奈は資料に視線を移しながら言った。その言葉に、空は少しだけ緊張の表情を見せた。
「じゃ、始めちゃって」
空の指示が入ると、玲奈は資料を読み上げ始めた。と同時に、空は自分のコーヒーが置いてある机の椅子に座り、目を瞑る。
「はい。今回のは、ニュースにもなっているものですね。少女が拉致されて、その子の家の近くにある廃墟で椅子に縛られた状態で死亡しているのが確認された事件です。この事件の説明、いりますか?」
「う~んと、僕が今から言うことで間違っていることがあったら訂正してね」
前置をした上で、空は口を再び開く。
「少女が拉致されたのは8月17日。で、死体が発見されたのは同月30日だよね。確か、親が警察に言ったのが8月18日だったよね。あまり詳しくは覚えてないから、これが限界。あぁ、そういえば、首元に細いチューブが貼り付けられていて、その先、上には水の入ったポンプが、下には水の入った容器があったっていうのは知ってるかも」
「その通りです。情報を追加するとしますと、下側のチューブは容器から少し高くなっていたそうです。そして、少女の死因としては、心臓発作によるショック死が考えられるそうです」
「りょうかい。それじゃあ、すこしかんがえるから、まってて」
玲奈にそう告げる。空は目をギュッと頭、右手で顎を支えるようにして椅子に深く腰掛ける。
冷めて湯気が確認できなくなったコーヒーが、ユラリと揺らめく。
Armchair- Detective。日本語訳で、【安楽椅子探偵】。
小説やドラマなどでよく見かける、現場に行かず、僅かに与えられた推理力が抜群に高い探偵の俗称だ。
基本的に第三者へ情報を提示、開示することを恐れている警察だったが、空のこのスタイルは、現場に出ない、簡単に言えば、捜査をしないのだ。現場で姿を見せないということは、メディアなどの目に触れることも少ない。もし万が一マスメディアが警察が空に捜査協力をしているという情報を得た場合でも、警察は簡単に「ただの推理オタクです」と切り捨てることができる。それを理解しているからこそ、空と警察は報酬と解決という状態を保っているのだ。
ゆっくりと、空の瞳が外気に触れる。
「ヨーロッパの某国で、ある実験が行われたのは有名な話だよね?」
疑問符を付けてはいるが、長年の経験から、推理中の空には何も云わないことを玲奈は知っている。
「実験の内容はこうだ。【暗示で人が殺せるか】。今でこそありえないが、政府によって認められた殺人があった。もちろん、科学者も政府も本当に死ぬとは考えていなかったらしいけどね。
まず、被験者に目隠しをしてこう告げる。「人間は血液のある一定量を失ったら死んでしまう」。ここが彼らの面白いところでさ、損なわれる血液の量をハッキリとさせないことで、被験者をある種の精神不安定にさせてるんだ。
まぁそんなことはどうでもいい。そう告げられた被験者は、気にしているしないに関わらず、意識的に血液不足=死というのがイメージとして脳に残る。そして、首元をアルコールをつけた棒でそっと触れる。そして、その後は、ちょうど棒が触れたところと同じ場所にポツン、ポツンって水を垂らし、水を容器に音がなるように落とす。人間の情報の約80%以上を占めているといわれている視覚が閉ざされている被験者は、普段ならばバカバカしいこの行為に、本気で「自分の首から血が流れている」という恐怖に狩られるんだ。
そうして恐怖と絶望とを繰り返して感じているうちに、催眠状態に入る。そして、ある程度の時間が経ったころ、被験者にこう告げるんだ。「あと10秒で、血液が無くなる」ってさ。
んで、後はご想像通りの、ショック死さ。人間なんて、凶器なしでも殺せるっていう面白い案件だね。
たぶん、今回もこういう類でしょ。これ、指紋とか残らないから凄く良いアイディアに見えるけど、実際は穴だらけだね。警察に、少女の近くに毛髪とか残ってないか聞いてみるといい。まぁ、そのくらいはしているだろうけどね。一応さ。犯人はこんな三流ドラマのネタを使うような馬鹿だから、たぶん何かしらの情報を残しているはずだからさ」
長々と続けられた空の推理を、玲奈はメモ帳に書き取る。彼の話したことの半分が削られた形で、彼女は警察に情報を提供するのだ。
今日も10分以下で解決ね。集中力もあまり使っていないようだし、これで警察の信用を得られるなら安いものね。
玲奈は時計で時間を計り、空を見つめる。玲奈の視線に気づいたのか否か、空は面白そうに笑みを浮かべ、口を再び開いた。
「そういえば、面白い話があるんだ。一卵性双生児の双子の姉妹が、これまた誘拐されたんだ。結局、姉は逃げられたんだけど、その時に姉の証言でね、「犯人に、自分が助かるか妹が助かるか」って言われたらしい。妹が自分の死を選んだからこそ姉は逃げられたわけだけどね。それで、姉の証言で犯人が捕まることになったんだ」
「? どうしてです? 今の話だけでは、特に……」
不思議そうに訪ねる玲奈に、空はにんまりと笑って正解を披露した。
「一卵性双生児っていうのは二卵性双生児と違って顔がとても似ているんだ。それこそ、第三者には分からないくらいにね。つまり、姉と妹が判断できるのは、姉妹のことを良く知る親類だっていうこと」
「はー……」
何度も頷く玲奈に、空は満足そうに話を締めた。
「だからさ、僕が思うに、全ての人間は拉致されてギャーギャー騒ぐくらいなら、ボイスレコーダーにGPSを体に埋めるくらいしろっつー話しだよね」
「それは、それで極論だと思いますが」
苦笑いをしながら意見を示す玲奈だが、その意見は空に届かない。
「そういえばさ、独眼竜伊達政宗は、自分の書いた手紙だっていうことを表すために、手紙に針で穴を開けて本物と偽物を区別してたらしいんだけどさ、」
「そういえばね、ハガキを送るのに必要な切手を舐めると、1枚に舐める度に2kalも摂取したことになるらしいね。それは、切手に使われているPVA糊のせいだってさ、」
今日も、『琥珀探偵事務所』には、雑学が飛び交っている。コーヒーの湯気と共に。




