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 私は彼が好きだ。

 最初は歌う姿に惚れた。

 あの狐の仮面の下でかすれた声が響く瞬間、弦を弾く指の動きに。

 ギターの弦が震える低音が胸に響き、指先の繊細な動きが視界を支配する。


 あの時、喉の奥が熱くなって、息が浅くなった。

 今は、喋る姿。

 先輩と呼ぶと振り向く時の、少し照れたような目。

 デートの時は予定を決めていないように見えて、最後の最後にさりげなくエスコートしてくれる姿。


 声のトーンが少し低くなって、視線が柔らかく絡む瞬間、胸の奥が甘く疼く。

 でも、この恋は成就しないのではないかと思ってしまう。

 時々先輩は暗い表情を見せる。

 それはまるで拷問される前の、静かな恐怖感。


 胸の奥がズキンと痛むような、息苦しい影。

 息を吸うたび、肋骨の内側が締めつけられるような気がする。

 人と関わるのが苦手なのか、先輩に何かあるのは、この前のあの男とのやりとりでわかった。

 だが、そこは地雷原のようで、踏み込んではならないと脳の警報が鳴り響く。


 心臓がドクドクと速くなり、喉が乾いて言葉が詰まる。

 手のひらがじっとりと汗ばみ、指先が冷たくなる。

 先輩と会えば会うほど、私たちの間は縮まらないように感じる。

 他の人よりもちょっとだけ近いだけの平行線。


 指先が触れそうなのに、決して交わらない。

 ここまで来ても、化学変化なんて起こらないのだろう。

 空気が重く、皮膚に張り付くようなもどかしさ。

 まるで、絡まった糸を解こうとしても、余計に固くなるみたいだ。








「幹也先輩、早く!!」



「まだ時間あるくね?うっ、食べたばっかりだから吐きそう」



 私はパンフレットやグッズがすぐに売り切れてしまうので焦っていた。

 早くと手を振りながら急かしてしまう。

 足音がロビーの床にタタタッと響き、息が上がって喉が熱い。

 興奮で頬が火照り、額に薄く汗が浮かぶ。


 映画を見る前にパンフレットは欲しかった。

 なぜなら、さらに面白く見られるらしいから。

 売店で二冊買う。

 紙の表紙が少し湿って、手に柔らかく張り付く感触。


 新品のインクの匂いが鼻をくすぐり、ページをめくるたび紙のざらつきが指先に伝わる。

 次にポップコーンと2人分の飲み物のカップルセット。



「あれ? もう始まってる?」



「上映前の予告とか流してるだけですよ。ほら」



 私はスクリーンに映し出される光の帯を指さす。

 来月上映!!という大きな文字が白く輝き、予告の爆音が耳を圧する。

 低音の振動が座席を通じて体に伝わり、背中がビリビリする。

 空気が重く、映画館特有の冷えた空調が皮膚を冷やす。



「赤松さん、危ないから足元見てよ」



「えっ? あ、ありがとうございます」



 先輩が私の手を握って席まで引っ張ってくれる。

 暗闇の中で、手のひらがとても温かく、少し汗ばんでいる。

 指が絡む感触が心地よく、心臓の音が耳元でうるさい。

 掌の脈動が伝わり、微かな震えが恋の興奮を増幅させる。


 私の顔は赤くなっているはずだ。

 頰が熱く、息が浅くなる。

 暗闇で視界がぼやけ、スクリーンの光だけが浮かび上がる。

 映画館の雰囲気が好きだ。


 上映が始まると、みんなの視線が前を向き、人の気配が遮断されるほどの静寂さ。

 まるで自分だけが貸し切ったように没入できる。

 無限に続くトンネルのようで、空気が少し冷たく、ポップコーンの油っぽい匂いが薄く漂う。

 座席の布地が体に沈み込み、肘掛けの冷たい金属が腕に触れる。


 ドアの隙間から覗き見したいような好奇心で、先輩の表情が見たくて心が疼く。

 でも恥ずかしさが勝って、視線をスクリーンに固定する。

 暗闇の中で、先輩の呼吸音が微かに聞こえ、隣の体温が空気を通じて伝わってくる。

 感動の場面で、私は涙ぐんだ。


 目頭が熱くなり、涙が頬を伝う感触。

 塩辛い味が唇に触れる。

 鼻が詰まり、息がひくひくと乱れる。

 その時、先輩の表情は今でも忘れられない。


 顔は至って変わらないが、手水舎のように清らかで、でも暖かい涙をすっと流していた。

 頰を伝う一筋の涙がスクリーンの光を反射してキラリと輝く。

 息を潜めた先輩の肩が微かに震え、吐息が小さく漏れる音が聞こえる。

 暗闇で、その涙の温もりが想像され、胸が締めつけられる。


 その時の先輩はどう感じたか。

 もっと先輩を知りたい。

 地雷原なぞ知らない。

 恋という武装をして、この溢れ出る気持ちで踏み込みたくてたまらなかった。


 胸が熱く疼き、手のひらが汗ばむ。

 まるで、心の爆発を抑えきれないみたいだ。








「映画、良かったですね。先輩!」



「ん? 良かったな」



「この後どうします?」



「俺、夜したいこと出来たから解散でもいい?」



「いいですよ! また行きましょうね?」



「了解! あ、これタクシー代。父親が渡せってうるさくて、受け取って! またな!」



 映画を見てからというもの、先輩の様子が何かを隠すように空元気に見え、心配になる。

 五千円札を私の手に置いた瞬間、手のひらの温もりが残る。

 紙のざらつきと、先輩の指先の感触が混じり、胸がチクリと痛む。

 先輩は陸上部並みの走りで、その場から逃げるように去って行った。


 足音がロビーに遠ざかり、ドアの開閉音が響く。

 ガラスの反射に、先輩の背中が小さくなっていく。

 でも私は次のデートの約束を確約できた嬉しさから、その心配は一瞬消えてしまった。

 心臓がまだ高鳴り、頬の熱が引かない。


 帰り道、タクシーの窓から見える地元の景色が違って見えた。

 薄暗い夕焼けが空を赤く染め、既に光っている星がちらちらと瞬く。

 過ぎ去って行く車のエンジン音が低く響き、シートに体を沈めると柔らかい布地の感触。

 風が窓の隙間から入り、頰を優しく撫でる。


 髪が乱れ、涙の跡が乾いて皮膚が少しつっぱる。

 先輩のことを好きだと痛感した私は、すべてが心地よく感じた。

 胸の奥が温かく、涙の跡がまだ頬に残る塩辛い感触さえ、愛おしい。

 まるで、この感情が、俺の心の闇を照らす一等星みたいだ。


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