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 私にとって音楽は“救済”だ。

 これは誇張でも嘘でもない。

 私の生きるための手段で、私も生きていいんだと、後押ししてくれる存在。

 どんな痛みが胸を刺しても、和らぐようなモルヒネみたいなもの。


 だから あの時 は、生きる理由が見つからなくて、明日なんて来なくてもいいのに、と絶望と虚無が体を重くした。

 布団にくるまって感じたシーツの湿った冷たさ、部屋にこもった埃と自分の汗の匂い、耳に響く自分の荒い息遣い。

 今でも体が覚えている。

 でも今は違う。


 大切な人が周りにいて、好きなことをして生きていくんだと、心が軽くなる。

 まるで、暗い霧が晴れるような。








 ある日曜日の朝、私は電車を降りて駅から駆け足で待ち合わせ場所へ向かった。

 九月末の風はまだ少し暑さを残していて、頰を撫でるたびに汗がにじむ。

 走るたびにスニーカーの底がアスファルトに叩きつけられて、パタパタと軽い音が響く。

 息が上がり、喉が乾いて少し苦い。


 額に薄い汗が浮かび、髪が乱れて顔に張り付く感触が気になった。



「はぁ、はあ、ご、ごめんなさい!! 少し遅れちゃいました。準備に手間取ってしまって……待たせちゃいました?」



「いや、時間ちょうどだよ。俺もさっき来たし、だから待ってないから大丈夫よ」



 幹也先輩はヘッドホンを外し、こちらを向く。

 耳に残る音楽の余韻か、声が少し低めで柔らかい。

 なぜか口元を抑えて笑いを堪えている。



「ぶっ……何、その髪。あはははははっ!! そんな走らなくても良かったのに、前髪すごいことなってる」



「へっ? あ! ほんとだ!」



 我慢しきれずに噴き出す先輩の笑い声が、駅前の喧騒に混じる。

 私は慌ててスマホの内カメを起動。

 画面に映る自分の前髪が爆発したみたいに跳ねていて、頰がカッと熱くなる。

 指で髪を押さえながら整えると、汗で少し湿った髪の感触が指に絡む。



「今日は何する? 飯行くのは決まってたはずだけど」



「せっかく京都に来たので、食べ歩きとかしたいです」



「了解。俺はまだ口の中痛いから染みる物は食べれないけどな」



 先輩が苦笑いする。

 よく見ると、唇の端に小さな絆創膏が貼ってあって、腫れの跡が薄く赤い。

 頰を軽く触る仕草で、痛みが残っているのが伝わる。



「それにしても人多いな、外国人の方が多いか?」



「そうですね。まぁ観光シーズンですし、いつもよりも多いかもですね」



 周りを見渡すと、着物を着た人々がちらほら。

 外国人観光客の話し声が英語や中国語で混じり、街の空気に甘い屋台の香りが混ざる。

 空気はまだ少し湿気を含んでいて、風が頰を撫でるたびに暑さが和らぐ。



「最初どこ行く? 俺は別にないから、どこでもいいよ」



「まずは清水寺に行きませんか?」



「清水寺かぁ、いいね。中学生の時の校外学習以来やな。なら、迷わんようにしないとね」



 そう言って先輩が左手を差し出す。

 私は一瞬ドキッとして、手汗をスカートの裾で拭いてから繋いだ。

 手のひらが温かく、少し硬い感触。

 指が絡むと、先輩の脈が微かに伝わってきて、自分の心臓の音が耳にうるさい。



「なんか女の子慣れしてないですか? 私より冷静なのが少しムカつく」



 私は話しながらも、心臓がドクドク鳴って、手のひらが汗ばむ。

 息が少し浅くなる。



「いや、普通に赤松さん迷いそうかなって。こんな人おったらはぐれる可能性もあるやろ? だから仕方なく!!」



 先輩が顔を逸らす。

 耳が真っ赤で、首筋まで赤みが差している。

 風が吹いて、髪がサラッと揺れる。

 まるで、恥ずかしさを隠すための仕草みたいだ。








 清水寺の舞台に立つと、眼下に広がる京都市街がまだ深い緑に包まれている。

 ところどころで早い木が色づき始めていて、秋の気配を感じさせる。

 風が強く吹き抜け、着物の袖がはためく音が聞こえる。

 空気は澄んでいて、遠くの山の匂いが微かに漂う。



「ここから落ちたら、人生終了だな」



「清水寺に来て感想がそれですか? もっと他にありません?」



 先輩は欄干から下を覗き込み、高ぇと呟く。

 緑の絨毯のような景色に、ちらほらと赤い点々が混じる様子が、ちょうど季節の変わり目を思わせる。



「にしても綺麗ですね。京都来たこと無かったのですごく楽しいです」



「そう? 女子って結構こういう場所に行くようなイメージだな。中学生の時とかは? だいたい秋ぐらいに行かない?」



「中学生の時は訳あって行ってないですよ。だから初めてが先輩となので嬉しいです」



 先輩がそうかと言って目を逸らす。

 頰が少し赤い。

 気のせいかな?



「あっそうだ! 先輩、写真撮りましょうよ写真!」



「ん? いいよ。ならそっち行こうか」



「先輩も一緒にです!」



「え!? 俺は大丈夫。もう色々写真撮ったし」



 私は先輩の腕を掴む。

 袖の布地が柔らかく、腕の筋肉が少し固い感触。

 隣にいたカップルに



「写真撮ってくれますか?」



 と頼むと、快く引き受けてくれた。



「先輩。もっと笑顔で! 顔硬いですよ!」



「そんなこと言われてもこれが限界……」



 私はもっと密着したくて、先輩の右腕に両手でしがみつく。

 体温が伝わり、シャツ越しに心臓の鼓動が感じられる。

 少し汗ばんだ匂いが混じって、ドキドキが加速する。



「ん? 赤松さん近すぎではないですか?」



 先輩の声が少し上擦り、敬語になる。

 可愛い。



「え? 普通ですよ普通! それよりもほら! あっち見て!」



「分かった、分かったから」



 反論を諦めてくれた。

 やはり押しに弱い。

 撮れた写真は、恋人のように密着した距離感。

 画面を見ながら、私はニヤけてしまう。


 頰が熱く、唇が自然に緩む。

 その後、恋愛成就の滝や縁結びの神社を回り、先輩とこれからも一緒にいたいなと、心の中で強く願う。

 手を繋いだまま歩く感触が、温かくて離したくない。

 まるで、この瞬間が永遠に続けばいいのに、と思うのに、風が優しく囁くように



「時間は限られているよ」



 と耳打ちするみたいだ。


 清水寺を出て歩いていると、先輩のお腹がグゥ~と鳴った。

 空腹の音が静かな道に響き、恥ずかしそうに先輩が腹を押さえる。



「そろそろご飯にしない? あと結構歩いて疲れただろ? ゆっくり出来るところで食べよ」



「そうですね。私もそろそろご飯食べたいです。」



「じゃぁ、ここにしよ」



 先輩がスマホを見せる。

 画面に映るのは桂川近くの上品な店。

 うなぎメインの高級そうな場所で、写真から漂うような炭火の香ばしい匂いが想像される。



「親父に京都で女の子連れていくならここにしろってうるさくて。まぁうなぎメインにしてる所なんだって。赤松さんうなぎ食べれる?」



「うなぎですか! めっちゃ好きです! でも見た感じ高そうなところですけど……」



「まぁそれは気にしないでいいよ。飯連れていくって約束してたし、実は予約もしてある。今日俺なんも決めてなかったし、飯ぐらいエスコートさせてよ」



「お金は気にしないで、ほらいこ」



 と、先輩が私の手を握り直す。

 手のひらが温かく、指がしっかり絡む。

 あまりの格好良さに、言葉が出てこない。

 胸が熱くなり、頰が火照る。


 秋の風が頰を撫でる中、手の温もりが心地よくて、離したくなかった。

 まるで、この温かさが、俺の心の氷を溶かす鍵みたいだ。

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