四
俺にとって音楽は“人生”だ。
これはふざけでも冗談でもない。
自分の生きる理由で、俺はこういう奴なんだと証明するための、唯一のコミュニケーション手段。
だから あの時 は、生きる理由、心臓が引き抜かれたかのように奪われたような感覚だった。
身体の一部が突然なくなったみたいに、胸の奥が空っぽになって、息をするたび、虚無が肺に流れ込む。
汗の塩辛い味が口に広がり、拳を握った手のひらの痛みが、怒りを抑えきれなかった。
俺にとって、あの絶望は今でも鮮明だ。
指先が震え、弦を握れなくなる夜の冷たいシーツの感触、部屋にこもった埃と汗の匂い、耳に残る自分の嗚咽の音。
全部が体に染みついている。
まるで、俺の心を蝕む影のように。
あれから二週間が経った。九月も終わりに近づき、蝉の声が途切れがちになった放課後の音楽室。窓から差し込む夕陽が床に長い影を落とし、古いアンプの焦げたような匂いが鼻をくすぐる。
弦の金属臭と埃っぽい空気が混じって、息をするたび喉が少し乾くように感じる。部屋の隅に積まれた古い楽譜の埃が、陽光に舞い上がり、俺の視界をぼんやりさせる。
「どうでしょうか?」
彼女がマイクの前に立ち、緊張で指先が微かに震えているのが見える。
彼女の息遣いがマイクに拾われ、吐息の温かい音がスピーカーから漏れる。
「いや、俺なんかが意見出していいの? もう十分上手いよ」
俺は、音楽室にあるギターケースに寄りかかりながら答える。
ケースの革が背中に冷たく当たる。
「上手いだけじゃダメなんですよ。私は それだけでは駄目 なんです」
彼女の声が少し掠れ、瞳がうるむ。
行き詰まった表情で唇を噛む仕草が、夕陽に照らされて影になる。
空気が重く、俺の胸がざわつく。
「たしかに。でも君は何がそこまで掻き立てる?」
「それは……」
話の途中、彼女が何か躊躇うように手を額に当てた。
「ん、ちょっと疲れちゃったかも。ごめんね、先輩」
彼女の顔色が少し悪い気がしたけど、笑顔で続く。
恥ずかしそうに口を開きかけた瞬間、ドアが乱暴に開く音が響いた。
ガチャンという金属音が耳を刺す。
「幹也ァ、女でもできたのか? さすが バンドマン たらしもロックってか?」
その声だけで頭痛がする。
耳の奥がキーンと鳴り、嫌な記憶が一気に蘇る。
純也の声はいつも低く、嘲るような響きで鼓膜を震わせる。
「純也か。お前には関係ない。あと、彼女ではない」
俺は目を細めて睨む。
喉が締まり、言葉が少し震える。
「へぇぇ?偉くなったなお前。誰に口きいてるのか、わかって言ってるのか?」
純也が一歩近づく。
背が高い分、見下ろされる視線が重い。
息が近く、汗とタバコの混じった匂いが鼻をつく。
「同い年に偉そうにもない。あとお前には関係ないと言ったはずだ。こっちはこっちで忙しいんだよ。お前に構っている暇はない」
「そうかぁお前にはまだ理解できてないか。残念だなぁ、自分の立場がよ。これは身体に言わないと分からないわけだな?」
拳が振り上げられる。
空気を切る音が耳に届き、俺は目を閉じた。
殴られる衝撃を待つしかなかった。
「なんなんですか!!」
叫び声が鋭く響く。
彼女が前に出て、純也の腕を掴む。
指が震えているのが見えた。
「あ?」
純也の注意が彼女に移る。
睨む目が険しくなる。
「貴方は幹也先輩のなんなんですか!? さっきから邪魔をするようなことと否定することしかしないじゃないですか」
「誰だお前? こいつとの関係てか? ただの腐れ縁だ。知ってるか? こいつ一回バンド仲間を裏切ってるんだぜ? 本番前でギターなくしたとか言ってなぁ」
純也の嘲笑が部屋に響く。
俺の胸がズキンと痛む。
「私はそんな事を聞いてないです。貴方は 何様 なんですかって聞いてるんです。 八つ当たり とやらに構っている暇はないのでそれ相応の理由があるんですよね?」
陽菜の声が少し高くなり、反抗的な態度が純也を苛立たせている。
彼女を突き飛ばす音が響き、彼女の体がよろける。
「うぜぇなお前!! なんだお前もあれだな口で分からねぇ奴か? なら殴るしかねぇよなぁ!!」
「やめろっ!! 彼女は関係ないだろ!! 殴るなら俺だろうが!!」
俺はとっさに陽菜を庇うように前に出た。
次の瞬間、拳が頰に直撃する。
鈍い衝撃が骨まで響き、視界が白くかすむ。
頰が熱くなり、すぐに腫れ上がる感触。
歯がガチンと鳴り、口の中に鉄の味が一気に広がった。
「痛っ……」
血の味が舌に絡み、鼻腔まで鉄臭が充満する。
目がかすみ、純也の顔がぼやける。
「先輩!!」
声が遠くに聞こえる。
彼女の叫びが耳に刺さる。
「お、お前の喧嘩なんか買うかよ……や、安すぎて買う気すらおきないな」
あくまでお前には関係ないとそう伝える。
口から赤い痰を吐く。
床に落ちる音が小さく響き、血の鉄臭が強くなる。
立っているだけで足が震え、視界が揺れる。
その時、廊下から足音が近づき、ドアが再び開く音がした。そこに立っていたのは、眼鏡を掛けた厳しそうな表情の生徒会長、明だった。
制服のネクタイをきっちり締め、手に生徒会資料らしきファイルを持っている。偶然通りかかったのか、彼は、部屋の中の騒ぎを見て即座に眉をひそめた。
「何だこれは! 暴力沙汰なんて、すぐに教師に報告する!」
明の声は鋭く、部屋に響き渡った。純也が一瞬動きを止め、苛立たしげに振り返る。明は怯むことなく、純也の前に進み出た。
「お前ら、すぐにやめろ! ここは学校だ。話し合いで解決できないなら、生徒会室に来い。こんなところで喧嘩なんて、許さないぞ!」
純也は舌打ちをし、明を睨みつけたが、毅然とした態度に気圧されたのか、拳を下ろした。そして、何も言わずに部屋を後にする。
彼女が俺を支えながら、明に助けを求めるような視線を送る。明は素早く状況を把握し、俺の怪我を見て顔をしかめた。
「先輩!! 大丈夫ですか!!」
「け、怪我はない?」
「そんな事言ってる場合じゃないでしょ!! 口から血が出てるじゃないですか!!」
確かに口と鼻が鉄の風味でいっぱい。
血の味が喉に流れ込み、吐き気がする。
痛みが波のように増す。
「よ、良かったわ、駄目だこれ。あと頼んだ」
「は? おい!! 幹也!!」
「先輩!!」
陽菜が無事なことに安堵し、俺は意識を失った。
体が重く、暗闇に沈む。
まるで、過去の影に飲み込まれるように。
後日、この事件は教師陣に報告され、純也は文化祭前まで停学処分となった。明の証言が決め手だったらしい。
「痛てて、容赦ないな、あいつ」
目が覚めると、自分の部屋のベッドの上。
右頰に氷嚢が当てられていて、冷たい感触が腫れた皮膚を刺すように冷やす。
まだズキズキと痛みが残り、頰を触ると熱く腫れている。
外はもう暗く、窓から街灯の淡い光が差し込み、部屋の空気が少し埃っぽい。
「ん? なんか置いてある?手紙?」
机の上に置かれた封筒。
開くと、陽菜の丸い字が並んでいる。
『目を覚ましそうになかったので手紙を置いときます。明会長と私で家まで運びました。すごく重かったです。本当に大変だったんですからね! 口から血は出ていたし、意識が無いし! あと! 幹也先輩の両親には上手いこと誤魔化してあげたのでカフェでも連れてってくださいね! 全くすごく不安です! 払拭するために元気な姿で会いに来てくださいよ! でも守ってくれてありがとうございました! す、すこしカッコよかったですよ! 惚れちゃいます♡ 追記 明会長ガチおこですよ! 頑張って弁明してね♡』
手紙の紙が少し湿っているのは、彼女の汗か涙か。
読みながら頰が熱くなり、痛みが少し和らぐ気がした。
明が怒っているのは仕方ない。
後日、学食で奢って謝るか……と思いながら、俺は氷嚢を頰に押し当てた。
冷たい感触が心地よく、血の鉄臭がまだ鼻に残る中、静かに息をついた。
陽菜の言葉が、心に棘のように刺さる。
惚れちゃいます♡
……あれは、冗談か、本気か。
彼女の声が、耳の奥で甘く反響する。




