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「こいつ、メンテ出さないといけないかなぁ……」



 ベッドの端に腰掛け、長年使い込んだクラシックギターを膝に置く。

 木のボディが少しひんやりと冷たく、指先で弦を軽く弾くと、古い塗装の匂いと埃っぽい空気が鼻をくすぐる。

 金属の弦が指を軽く切り込むような痛みが、俺の孤独を呼び起こす。


 年季の入ったボディには細かな傷が無数に刻まれていて、指でなぞるとざらざらした感触が伝わる。

 まるで、俺の心の傷跡を撫でているみたいだ。


 俺の趣味は、小学生の頃から続けている弾き語りだ。

 今では狐の仮面をかぶって素顔を出さずに動画を投稿するまでになった。

 顔出しなんて絶対無理だから。

 仮面の下で汗が滴り、頰にベタベタと張り付く不快感を我慢しながら録画する。



「誰も本当の俺を知らなくていい……」



 と、心の中で呟きながら。



「ふぅ……」



 仮面を外すと、蒸れた熱気が一気に顔に広がり、まるでサウナから出た直後のように息苦しい。

 額の汗が目に入り、しょっぱい味が唇に触れる。

 結露した窓ガラスのように顔が湿って、鏡に映る自分の表情がぼんやり歪む。

 疲れが、鏡の中の俺を嘲笑うように見つめ返す。


 録画を停止してスマホを置くと、通知音がピコンと鳴った。

 メールだ。

 そういえば、昨日連絡先交換したっけ。

 開くと一行だけ。



「明日、絶対来てくださいね!」



 飾り気のない文面に、思わず失笑が漏れる。

 喉の奥が乾いて、唾を飲み込むと微かな苦味が広がった。



「わかったよ」



 素っ気なく返信して、スマホをベッドに放り投げる。

 シーツの柔らかい感触に体を沈め、天井の蛍光灯がチカチカと眩しい。

 まるで、俺の心の明滅を映しているみたいだ。








「おはよう。幹也。なんかいいことでもあったのか?」



 朝のホームルーム前、教室のざわめきの中で背の高い声が響く。

 明の声だ。

 アスリート体型の好青年が、俺の机に寄りかかってニヤニヤしている。

 朝の空気に混じる彼のスポーツシャンプーの爽やかな匂いが鼻を抜ける。



「おはよう、明。いや、別にそんなことはないけどなぁ」



 俺は教科書をパラパラめくりながら答える。

 ページの紙の感触が指にさらさらと心地いい。



「いや、絶対何かあっただろ。俺の目は誤魔化されないぞ。彼女でもできたか?」



「い、いや彼女なんて、そんなんじゃないよ。そもそも好きな人がいない」



 図星じゃないはずなのに、喉が急に締まって言葉がどもる。

 頰が熱くなり、耳までほんのり赤くなるのを感じる。



「なんだその間は、余計怪しいな」



「なんもないよ、もうそろホームルームだし、自分の席に戻れよ。ほら先生来たよ」



 先生の足音が廊下から近づき、革靴のコツコツという音が響く。

 明を早く追い払いたくて、俺は視線で合図を送る。



「ホームルーム始めるぞ。ん? 田中、自分の席に着くように」



 先生の声が教室に響き、ざわめきが少し収まる。



「後で色々聞くから、昼休み俺と食堂行くぞ」



 明が耳元でボソッと囁き、息が耳にかかってぞわっとする。

 席に戻る彼の背中を見送りながら、俺はため息をついた。

 昼飯がゆったり食べられそうにない。

 まるで、俺の日常が少しずつ侵食されているみたいだ。








「さて、何があった?朝から嬉しそうな顔してて、気持ち悪いぞ」



 学校の食堂。

 喧騒の中で、明が唐揚げ定食を頰張りながら話す。

 口いっぱいに詰め込んで、リスのようにモグモグ動く咀嚼音が耳障りだ。

 揚げ物の油っぽい匂いと、熱々の湯気が鼻を刺激する。



「嬉しそうな顔はしてないし、キモいって何だ。てかまず口の中無くなってから話せよ。まぁいいよ、実は、文化祭も今年最後なわけだし、弾き語りでもしようか迷ってるところなんだ」



 俺は対照的に焼き魚定食を丁寧に食べる。

 箸で骨を抜く感触が繊細で、魚の身がほろりと崩れる。

 醤油のしょっぱさと、ほのかな焦げの苦味が舌に広がる。



「ほほう? ついに見れるというわけだな。お前のギターを。やっているのは聞いてたから知ってはいたが、見た事はなかったな。これはひとつ楽しみができたぞ。実行委員会に声掛けしようか?」



 明が箸で俺を指す。

 箸先が少し油でテカテカ光っている。



「箸で人を指すな。てかまだ迷ってるだけだし、ワンチャンくらい?あと、出し物でするほど上手く出来る自信はないからハードルは上げないで欲しいけど……」



 先走らないでくれと制止しようとした瞬間。



「そんなことないですよ!!」



 突然、聞き覚えのある大きな声が割り込む。

 食堂の喧騒を切り裂くように響き、周囲の視線が一気に集まる。



「うお!? 誰だこの子! やっぱり彼女か? 幹也!」



 明が驚いて椅子からずり落ちそうになる。

 箸がテーブルにカチャンと落ちる音。



「違うよ! はぁ、もう。面倒なことになった……」



 目の前に立っていたのは、陽菜だった。

 今の状況で一番ここにいてほしくない人。

 彼女の声が少し震え、苛立っているように聞こえる。



「何が面倒なんですか? 私が面倒くさいってことですか?」



 周りの生徒たちの視線が刺さる。

 食堂の空気が急に重くなり、汗が背中を伝う。

 油とご飯の匂いが混じった空気が、息苦しくなる。



「なんで赤松さんが怒ってるのかも訳が分からないし、この状況がめんどくさいんだ」



 俺はため息をつき、明に救助を求める視線を送る。

 でもあいつは知らんぷりで、ニヤニヤしているだけ。



「怒ってませんし、めんどくさくなんてないです! 幹也先輩が謙遜なんてしているから……」



 彼女の声が急に小さくなり、悲しげに落ち込む。

 瞳がうるみ、唇を軽く噛む仕草。

 彼女の髪から、朝のシャンプーの甘い匂いがふわっと漂ってくる。



「わかった、わかったから。情緒どうした!? そこは通路だからこのまま居続けられても困るし、赤松さんとりあえず誰かと一緒に食堂に来たんでしょ? その子待ってると思うから早く行ってあげないと。あとは放課後聞いてあげるから、ここでは勘弁してくれ」



 彼女はハッとして周りを見回す。

 顔が真っ赤になり、耳まで染まる。



「へ? あ、あ!? そ、そうでした。待たせているのをすっかり忘れていました! じゃあ話はまた放課後にでも! あ、来ないのなしですよ!」



 彼女はてへっと愛嬌のある照れ隠しのような仕草をし、ごめんなさいと周りに小さく頭を下げて早歩きで去っていく。

 足音がタタタッと遠ざかり、周囲の視線がようやく散る。



「はぁ、こういう事はもうごめんだ。疲れて仕方ない……」



 解放された安堵で、体から力が抜ける。

 肩が重く、首筋がこわばる。



「おい、なんやあの子は、しかも年下って。ついにモテ期が来たのか?」



 明が腕で俺の肩をぐりぐり突く。

 肘の感触が痛い。



「お前、少しぐらい助けてくれたっていいのに」



「ごめんごめん。つい面白くてな」



 反省ゼロの悪い笑顔。

 俺はため息をつき、焼き魚を口に運ぶ。

 さっきまで美味しかったはずの魚が、急に味気なく感じた。

 醤油のしょっぱさが、舌に残る苦味に変わる。


 今日は最悪な日だなと思いながら、食堂の喧騒が遠くに聞こえる中、俺は静かに箸を置いた。

 陽菜の声が、頭の中で反響し続ける。



「幹也先輩の言葉、印象的でした」



 ……あれは、俺の仮面の下の本心を、彼女だけが見抜いたみたいだ。


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