十九
病室の窓辺に、春の陽光が淡く差し込んでいる。
桜の花びらが風に舞い、薄いピンクの粒子のようにカーテンをかすめて落ちる。
俺はドアを開け、陽菜のベッドに向かう。
空気はほのかに甘く、土の湿った匂いが混じり、外の世界の息吹を運んでくる。
陽菜のベッドサイドテーブルには、点滴スタンドが立っており、透明な管から痛み止めの液体がゆっくりと滴り落ちる音が、静かな部屋に響く。
彼女の髪は化学療法の猛攻に耐えきれず、すべて抜け落ち、ウィッグがわずかにずれている。
指先でそれを直す仕草は震え、皮膚の下に浮かぶ青い血管が、彼女の脆弱さを露わにしている。
体重はさらに減少し、頰骨と肋骨が鋭く浮き出、まるで影絵のように輪郭を強調する。
肺への転移が悪化し、咳が激しく体を震わせ、ティッシュに吐き出される血痰は鮮やかな赤で染まる。
鉄のような生臭い味が口いっぱいに広がり、陽菜はそれを必死に飲み込もうとするが、息切れが追い打ちをかける。
放射線治療の痕が肌を赤く腫らし、触れるだけで熱く疼く。
ベッドに上体を起こした陽菜は、窓外の桜を眺め、弱い声でつぶやく。
「綺麗……幹也くんと、一緒に散歩したかったな……」
俺の手には桜の枝が数本。
花びらが俺の肩に落ち、淡いピンクがコントラストを成す。
「外の桜だよ。一緒に見よう。もっと、たくさん見に行こう」
ベッドに枝を置くと、部屋に甘い花の香りが広がる。
陽菜の震える指が花びらに触れ、柔らかい感触が皮膚を優しく撫でる。
「ありがとう……この感触、ずっと覚えてる。桜の匂い……優しいね」
彼女は笑おうとするが、突然の咳き込みが体を折り曲げ、血痰が口から溢れ出す。
鉄の味が再び広がり、慌てて口を押さえる。
「ごめんね……こんなの、見せたくなかった……」
俺はティッシュを素早く取り、優しく拭う。
彼女を抱きしめ、温かな体温が冷えた肌に伝わる。
陽菜の瞳が、静かに俺を見つめる。
彼女の心が、俺に伝わってくるようだ。
末期だって言われて、また否定したくなった。
怒りが湧くけど、みんなの支えで、少しずつ受け入れられる……私は一人じゃないと。
やがて、病室にみんなが集まってきた。
明は大学生の私服姿で、軽く肩を並べる。
純也は作業着風の服を着て、荒々しい雰囲気を残し、真奈は高校の制服で明るく振る舞おうとする。
空気は重く、桜の香りがわずかに和らげる。
陽菜はベッドから封筒を渡し、手紙を各々に手渡す。
みんなが封筒を受け取り、静かな緊張が部屋を満たす。
真奈が最初に封筒を握りしめ、声を震わせて言う。
「陽菜……これ、大事にするね。陽菜の分まで、私がみんなを明るくするよ。約束……」
彼女の目から涙が溢れ、陽菜にそっと寄り添う。
陽菜は弱く微笑み、
「真奈……いつもありがとう。君の笑顔が、私の力だったよ。みんなを……引っ張ってね」
真奈は頷き、涙を拭いながら
「うん……絶対に」
と返す。
純也は封筒を強く握り、悔しげに顔を歪める。
「陽菜……俺、何もできなくて……本当に、すまねぇ。でも、この手紙で……変わってみせるよ」
彼の声は低く、拳が白くなるほど力を込める。
陽菜は優しく目を細め、
「純也くん……君の強さが、みんなの支えだよ。変わらなくていい……君らしくいて。手紙の言葉、覚えててね」
純也は声を詰まらせ、
「ああ……絶対に」
と呟く。
明はクールに封筒を受け取り、目を細めて言う。
「陽菜の想い……受け止めた。俺も、約束する。陽菜の光、絶対に消さない」
珍しく声が少し震え、目を伏せて涙を堪える。
陽菜は静かに、
「明くん……ありがとう。君の冷静さが、みんなをまとめてくれた。君の光も……ずっと輝いて」
明は短く
「わかった」
と答え、視線を逸らす。
俺は陽菜の手を握り、
「愛してる。みんなで……陽菜の光を守るよ」
その手はむくんで冷たく、指の感触が弱々しい。
みんなの言葉が交錯し、互いの支えを確かめ合うような会話が続く。
真奈が明るく振る舞おうと、
「陽菜の歌……みんなで歌おうよ」
と提案し、陽菜が弱く頷く。
陽菜が弱く歌い始めると、みんなが合唱に加わる。
彼女の声は途中で咳に途切れるが、真奈のハーモニーが優しく引き継ぎ、純也の低く力強い声が支え、明のリズムが全体をまとめる。
歌声が部屋に満ち、桜の花びらが窓から入り、ベッドに落ちる。
柔らかいピンクが、視界を優しく染める。
俺の胸に、温かなものが広がる。
その後、陽菜の両親が俺に近づき、静かな声で話しかける。
母親が穏やかに微笑み、
「幹也くん……いつもありがとう。心から感謝してる。あなたのおかげで、陽菜がこんなに笑顔でいられたのよ」
父親も頷き、肩を軽く叩く。
「そうだよ。君がいてくれて、陽菜は幸せだった」
俺は少し照れくさそうに頭を下げ、
「こちらこそです。お父さん、お母さん。陽菜に出会えて……僕の人生が変わりました。彼女の強さと優しさが、僕を支えてくれたんです」
母親は涙ぐみながら、
「陽菜があなたを選んで、よかったわ。私たちも、君を家族みたいに思ってる」
と付け加える。
父親は
「これからも……陽菜のことを、よろしくな」
と声を低くする。
俺は
「はい……絶対に」
と答える。
会話の間、空気は温かく、桜の香りが優しく包む。
両親の目には涙が浮かび、俺の言葉に頷きながら、互いの支えを再確認するような静かな時間が流れる。
夜になると、病室は二人きりになる。
俺がベッドサイドに座り、陽菜の酸素マスクを少し外す。
彼女の息は浅く、弱い声で語り始める。
「幹也くん……子供の夢、叶わなくて……ごめんね。子宮がんが、全部奪っちゃった……妊孕性、失くしちゃって……普通の結婚、子供を抱く未来が欲しかったのに……」
涙が頰を伝い、塩辛い味が唇に触れる。
嗚咽が続き、体が震える。
「怒ったり否定したり……繰り返してたけど、みんなのおかげで、少し受け入れられたよ……ありがとう」
彼女の微笑みが、部屋の薄暗い光に浮かぶ。
陽菜の心の中で、過去と今が交錯するのを感じる。
中学の頃、引きこもってた時は、毎日死にたいと思ってた。
あの暗い部屋で、一人で涙を流して、生きる意味なんてないって。
でも今は違う。
死にたくないよ。
幹也くんやみんなと、もっと一緒にいたい。
この病気が奪おうとしても、この温かさが、私を生きる気にさせてくれる。
俺はベッドに寄り添い、ウィッグを優しく直す。
柔らかい人工の髪が指に絡む。
「陽菜の存在が、俺のすべてだ。夢は一緒に作ろう。君の光は……永遠だよ」
陽菜は弱く頷き、
「うん……君の言葉、温かい。子供の夢は叶わなかったけど……君との時間で、幸せだったよ。まだしたいこと、いっぱいあったけど……後悔、ないよ」
と返す。
俺の唇が彼女に触れ、冷たい感触が静かな感動を呼ぶ。
陽菜の息が弱く、肌の冷たさが伝わり、むくんだ手が俺の袖を握る。
布地の感触が、わずかな支えになる。
胸が締め付けられる。
深夜、陽菜一人でベッドに横たわる姿を想像するだけで、胸が痛む。
腹水穿刺の針の記憶が彼女を震わせているのだろう。
窓外の月光が部屋を淡く照らし、遠くに一等星達が輝く。
陽菜が弱く歌を口ずさみ、涙を流しながら指でベッドシーツを握り締める音が、俺の耳に残る。
窓外の雪解けが春の訪れを予感させるが、陽菜の息の浅さと咳の頻度が増え、病気の進行を静かに示す。
俺はそれを、ただ見つめるしかない。
心の中で、永遠の喪失感がゆっくりと広がっていく。
容態が少し安定した春の日、陽菜の強い願いで、病室を抜け出す。
特別な外出だ。
車椅子で河川敷へ向かう。
桜が満開で、花びらが風に舞い、水面をピンクに映す。
空気は清々しく、土と水の匂いが混じり、遠くから鳥のさえずりが聞こえる。
陽菜は車椅子に座り、ウィッグが風で少しずれ、むくんだ足が靴にきつく感じる。
息切れが激しく、胸が上下に激しく動く。
河川敷に着くと、桜のトンネルが二人を迎える。
風が優しく花びらを散らし、まるで祝福のシャワーのように降り注ぐ。
陽菜の瞳が輝き、
「こんなに美しい桜……君と見られて、夢みたい……心が、満ちてくるよ」
と囁く。
俺は車椅子を止め、彼女の隣にしゃがみ込み、手を握る。
「陽菜、この桜は君の美しさに負けてるよ。君の笑顔が……俺の太陽だ」
陽菜は頰を赤らめ、弱く笑う。
ベンチに座ると、陽菜は桜の花びらを手に取り、柔らかい感触を味わう。
花びらの繊細な脈が指先に伝わり、儚い命のよう。
「このピンク……優しいね。幹也くんのギターと一緒に……思い出に」
彼女は弱く笑うが、目元に影が差す。
俺がギターを弾き始め、二人のオリジナル曲をデュエット。
陽菜の声は掠れ、透き通っていた歌声が今は細く途切れがち。
途中で咳き込みが襲い、血痰をティッシュで拭う。
鉄の味が口に広がり、体が震える。
「最後まで……歌いたい。君と……」
彼女の瞳に涙が浮かび、声が震える。
俺はギターを止めずに、
「陽菜の声が……一番好きだよ。途切れても、美しい。一緒に歌おう……ゆっくりでいい」
と励ます。
陽菜は咳を抑え、
「ありがとう……この歌、私たちの物語だよね。出会った日から……今まで。君のメロディーが、私の心を……繋いでくれる」
と続ける。
歌詞の一節一節が、過去の思い出を呼び起こし、切ないメロディーが風に溶け込む。
歌い終わり、陽菜が俺の胸に寄りかかる。
温かな体温が、冷えた体を包むが、彼女の体重は軽く、まるで消えゆく影のよう。
俺は陽菜の頰に手を添え、そっと唇を重ねる。
柔らかく、冷たい唇の感触が、静かな愛を伝える。
陽菜の目が優しく細められ、満足げな微笑みが浮かぶ。
「幹也くん……幸せだよ。この瞬間、全部満たされてる……ありがとう」
彼女の声は弱く、でも穏やかで、心からの充足が滲む。
花びらが二人の上に降り注ぎ、桜の香りが優しく包む。
陽菜は俺の胸に寄りかかったまま、静かに目を閉じる。
満足した表情で、穏やかな眠りにつくように。
俺は彼女を抱きしめ、この時間が永遠に続けばと願う。
病室に戻り、陽菜をベッドに寝かせる。
彼女は安らかな寝息を立て、俺は傍らで見守る。
この一日が、彼女の最後の輝きだった。
翌日、陽菜の容態が急変した。
朝の陽光が病室を照らす中、彼女の息が突然乱れ、モニターの警告音が鳴り響く。
俺は慌てて看護師を呼び、みんなが駆けつける。
陽菜の体から力が抜け、俺の腕の中で静かになる。
彼女の最後の息が、桜の花びらのように儚く散りゆく。
温かかった体温が、ゆっくりと冷え、永遠の闇に溶けていく。
部屋に満ちる桜の香りが、別れの調べのように優しく包む。
陽菜の光が、静かに、しかし確実に消えゆく瞬間だった。
俺は彼女を抱きしめたまま、動けない。
涙が頰を伝い、胸を裂くような痛みが広がる。
桜の花びらが病室の窓から入り、ベッドに舞い落ちる。
彼女の魂が、花びらに乗って天に昇るかのように。
俺は空を見上げる。
一等星が、静かに瞬く。
陽菜の光は、今も俺の胸に残っている。
永遠に、輝き続ける一等星として。




