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2/22

 九月中旬、放課後の教室はまだ残暑が残っていた。夕暮れの廊下を歩きながら、俺は小さくため息をついた。息が吐き出されるたび、口の中に埃っぽい空気の味が広がる。古い校舎の壁から染み出る湿気の臭いが、鼻腔をくすぐり、足を進めるごとに重く絡みつく。


 高校三年生の俺にとって、最後の文化祭が近づいているのに、クラスは出し物なし。

 大学や専門学校の受験勉強に追われ、指定校推薦、就職組の連中が有志で何かやるだけだ。

 教室の空気は埃とチョークの粉末が混じり、息苦しい。


 窓から差し込むオレンジ色の光が、床に長い影を落とす。

 古い校舎の埃っぽい匂いが、鼻をくすぐり、喉の奥まで染み込んでくるようだ。

 足音が木の床板に響き、微かなきしみ音が耳を刺す。

 まるで校舎が息を潜め、俺の孤独を嘲笑っているみたいだ。


 正直、俺にはそんなイベントを楽しむ資格なんてない。

 中学時代、幼なじみの純也との絶交がトラウマで、心に壁を作ってしまった。

 あれ以来、誰とも深く関わらず、上辺だけの笑顔で過ごしてきた。



「お前みたいな裏切り者、信じられねぇよ!」



 あの時の純也の声が、耳の奥で今も反響する。


 ギターが唯一の慰め。

 家で一人、弦を爪弾く時だけ、本当の自分を出せた。

 情熱的なのに、内気で臆病者。

 それが俺だ。


 指先が弦に触れる感触、金属の冷たさと振動が、孤独を紛らわせてくれるのに、今はそんな余裕すらない。

 弦が指を切るような痛みが、俺の心の傷を思い出させる。


 裏庭へ続く渡り廊下を歩く。

 冷えた風が頬を撫で、肌に細かなざわめきを残す。

 枯れ葉の匂いが混じり、湿った土の臭いが鼻腔を満たす。

 ふと、視界の端に人影。


 長い髪の女の子が、一人で夕陽を浴びて立っていた。

 彼女が口ずさむ歌声が、風に乗って届く。

 透き通るような、低く優しい声。

 切なさを帯びた芯の強さ。


 まるで心を直接撫でるようで、俺の足が止まる。

 歌詞が、風に絡まって耳に届く。



「孤独の影を溶かす光、君の声が響くよ……」。



 鳥肌が立ち、胸が熱くなる。

 彼女の横顔が、金色に輝く。

 汗の粒が頰に光り、息の震えが微かに聞こえる。

 歌詞の合間に、彼女の息遣いが、かすかな吐息として耳に届き、胸の奥をざわつかせる。


 まるで、彼女の心の叫びが俺にだけ届いているみたいだ。


 歌が終わると、彼女が気づき、目が合う。

 琥珀色の瞳が、星のようにきらめく。

 空気の味が、突然甘く感じられる。

 いや、それは気のせいだろう。


 喉が乾き、唾を飲み込む音が自分にだけに響く。



「あっ……」



 沈黙の後、俺は慌てて頭を下げる。



「すまん! 驚かすつもりじゃなかった。けど……綺麗な歌声だなって、思わず聞き入っちゃって……」



 声が少し震え、廊下の空気に溶け込む。

 彼女は笑った。



「ふふっ、ありがとうございます。褒めていただけるなんて嬉しいです。まして、佐藤幹也先輩に」



 彼女の声は、柔らかく、かすかな湿り気を帯びていて、耳に心地よく残る。

 まるで、優しい雨の滴のように。



「え? 俺の名前、知ってるの?」



「あ、えっと……生徒会選挙の時、明会長の応援演説で! 幹也先輩の言葉、印象的でした」



 彼女の言葉に、微かな緊張が混じる。

 風が再び吹き、髪の香り。

 シャンプーの優しい花の匂いが、鼻先をかすめる。

 

 彼女の瞳が、夕陽に照らされて金色に輝き、俺の心を一瞬奪う。


 俺は苦笑い。



「ところで、文化祭で歌うの?」



「はい! でもギターとデュエットしたくて、相手が見つからなくて……」



 彼女の瞳が寂しげに揺れる。

 胸がチクリと痛む。

 空気の冷たさが、背筋を這うように感じられる。

 この時、俺は自然に口から零れる。



「人を探すまでの間、練習の感想くらいなら、聞くよ。俺、受験終わってるし、時間あるから」



 言葉を吐き出すたび、口内の乾きが気になり、喉がわずかに締まる。


 彼女の顔が明るくなる。



「本当ですか!? ありがとうございます! 私は赤松陽菜、二年生です。よろしくお願いします!」



 突然、手を握られる。

 温かく、柔らかい感触。

 彼女の掌の熱が、指先から伝わり、心臓が跳ねる。

 汗の微かな湿り気が、皮膚に染み込むようだ。



「じゃあ、明日また音楽室でも使うか。連絡先、交換できる?」



 スマホを出し、番号を交換。

 陽菜はにこっと笑い、



「約束ですよ!」



 と走り去る。

 柱に軽くぶつかり、



「あいてっ!」



 と可愛らしく転ぶ姿に、俺は小さく笑った。

 彼女の足音が遠ざかり、廊下に残るのは、かすかな埃の匂いと、夕陽の残り香だけ。


 夕空に、一等星が瞬く。

 あの出会いが、俺の人生を変えるなんて、この時は知らなかった。

 ただ、胸の奥に、微かなざわめきが残っていた。

 予感のような、不安のような、何かが。


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