一
九月中旬、放課後の教室はまだ残暑が残っていた。夕暮れの廊下を歩きながら、俺は小さくため息をついた。息が吐き出されるたび、口の中に埃っぽい空気の味が広がる。古い校舎の壁から染み出る湿気の臭いが、鼻腔をくすぐり、足を進めるごとに重く絡みつく。
高校三年生の俺にとって、最後の文化祭が近づいているのに、クラスは出し物なし。
大学や専門学校の受験勉強に追われ、指定校推薦、就職組の連中が有志で何かやるだけだ。
教室の空気は埃とチョークの粉末が混じり、息苦しい。
窓から差し込むオレンジ色の光が、床に長い影を落とす。
古い校舎の埃っぽい匂いが、鼻をくすぐり、喉の奥まで染み込んでくるようだ。
足音が木の床板に響き、微かなきしみ音が耳を刺す。
まるで校舎が息を潜め、俺の孤独を嘲笑っているみたいだ。
正直、俺にはそんなイベントを楽しむ資格なんてない。
中学時代、幼なじみの純也との絶交がトラウマで、心に壁を作ってしまった。
あれ以来、誰とも深く関わらず、上辺だけの笑顔で過ごしてきた。
「お前みたいな裏切り者、信じられねぇよ!」
あの時の純也の声が、耳の奥で今も反響する。
ギターが唯一の慰め。
家で一人、弦を爪弾く時だけ、本当の自分を出せた。
情熱的なのに、内気で臆病者。
それが俺だ。
指先が弦に触れる感触、金属の冷たさと振動が、孤独を紛らわせてくれるのに、今はそんな余裕すらない。
弦が指を切るような痛みが、俺の心の傷を思い出させる。
裏庭へ続く渡り廊下を歩く。
冷えた風が頬を撫で、肌に細かなざわめきを残す。
枯れ葉の匂いが混じり、湿った土の臭いが鼻腔を満たす。
ふと、視界の端に人影。
長い髪の女の子が、一人で夕陽を浴びて立っていた。
彼女が口ずさむ歌声が、風に乗って届く。
透き通るような、低く優しい声。
切なさを帯びた芯の強さ。
まるで心を直接撫でるようで、俺の足が止まる。
歌詞が、風に絡まって耳に届く。
「孤独の影を溶かす光、君の声が響くよ……」。
鳥肌が立ち、胸が熱くなる。
彼女の横顔が、金色に輝く。
汗の粒が頰に光り、息の震えが微かに聞こえる。
歌詞の合間に、彼女の息遣いが、かすかな吐息として耳に届き、胸の奥をざわつかせる。
まるで、彼女の心の叫びが俺にだけ届いているみたいだ。
歌が終わると、彼女が気づき、目が合う。
琥珀色の瞳が、星のようにきらめく。
空気の味が、突然甘く感じられる。
いや、それは気のせいだろう。
喉が乾き、唾を飲み込む音が自分にだけに響く。
「あっ……」
沈黙の後、俺は慌てて頭を下げる。
「すまん! 驚かすつもりじゃなかった。けど……綺麗な歌声だなって、思わず聞き入っちゃって……」
声が少し震え、廊下の空気に溶け込む。
彼女は笑った。
「ふふっ、ありがとうございます。褒めていただけるなんて嬉しいです。まして、佐藤幹也先輩に」
彼女の声は、柔らかく、かすかな湿り気を帯びていて、耳に心地よく残る。
まるで、優しい雨の滴のように。
「え? 俺の名前、知ってるの?」
「あ、えっと……生徒会選挙の時、明会長の応援演説で! 幹也先輩の言葉、印象的でした」
彼女の言葉に、微かな緊張が混じる。
風が再び吹き、髪の香り。
シャンプーの優しい花の匂いが、鼻先をかすめる。
彼女の瞳が、夕陽に照らされて金色に輝き、俺の心を一瞬奪う。
俺は苦笑い。
「ところで、文化祭で歌うの?」
「はい! でもギターとデュエットしたくて、相手が見つからなくて……」
彼女の瞳が寂しげに揺れる。
胸がチクリと痛む。
空気の冷たさが、背筋を這うように感じられる。
この時、俺は自然に口から零れる。
「人を探すまでの間、練習の感想くらいなら、聞くよ。俺、受験終わってるし、時間あるから」
言葉を吐き出すたび、口内の乾きが気になり、喉がわずかに締まる。
彼女の顔が明るくなる。
「本当ですか!? ありがとうございます! 私は赤松陽菜、二年生です。よろしくお願いします!」
突然、手を握られる。
温かく、柔らかい感触。
彼女の掌の熱が、指先から伝わり、心臓が跳ねる。
汗の微かな湿り気が、皮膚に染み込むようだ。
「じゃあ、明日また音楽室でも使うか。連絡先、交換できる?」
スマホを出し、番号を交換。
陽菜はにこっと笑い、
「約束ですよ!」
と走り去る。
柱に軽くぶつかり、
「あいてっ!」
と可愛らしく転ぶ姿に、俺は小さく笑った。
彼女の足音が遠ざかり、廊下に残るのは、かすかな埃の匂いと、夕陽の残り香だけ。
夕空に、一等星が瞬く。
あの出会いが、俺の人生を変えるなんて、この時は知らなかった。
ただ、胸の奥に、微かなざわめきが残っていた。
予感のような、不安のような、何かが。




