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十八


 冬の終わりに近づく一人部屋の病室は、いつも消毒液の鋭い匂いが鼻を刺す。

 俺はドアを開けるとき、毎回その臭いが体に染みつくような気がして、息を浅くする。

 外の雪解け水が窓ガラスを伝う音が、ポタポタと耳に残る。

 部屋の中は蛍光灯の白い光が冷たく広がり、陽菜の顔を青白く浮かび上がらせる。


 ベッドに横たわり、左腕に刺さった点滴の管から、冷たい薬液が静かに流れ込んでいるのが見える。

 あの感覚を想像するだけで、俺の肌がぞわっとする。

 陽菜の吐き気が波のように来るのを、俺は傍らで感じ取る。

 彼女が体を曲げて洗面器に嘔吐する音が、湿った、喉を絞るような響きで部屋に広がる。


 酸っぱい臭いが一瞬空気を汚し、俺の鼻腔に絡みつく。

 陽菜の髪が枕に散らばり、数本の黒い糸のように落ちているのを、俺は視線で追う。

 彼女が震える手でそれを拾い集める様子を見ていると、胸が締めつけられる。

 頰骨が尖り、腕が細く、むくんでいる。


 腹部がパンパンに張って、息をするだけで肩が上下する。

 俺は彼女の右手を握る。

 掌が冷たく、わずかに湿っている。



「今日も一緒にいるから。陽菜の声、聞かせてくれ」



 彼女の指が俺の手に絡みつく感触が、頼りなく、でも温かい。

 陽菜が無理に笑みを浮かべ、



「うん…少しだけ歌ってみる」



 と口ずさむ。

 掠れた声が、透き通る部分を残して部屋に響く。

 でも途中で、彼女の体が震え、吐き気に襲われる。

 洗面器に吐く音がまた響き、臭いが強くなる。


 陽菜の目が涙で濡れる。



「ごめんね……こんな姿、見せたくなかったのに」



 恥ずかしそうに謝る。

 俺はティッシュで彼女の口元を拭う。

 柔らかい唇の感触が指先に残る。

 そして我が子のように背中をさする。



「全部受け止めるよ。陽菜は俺の一等星だ。どんな時も輝いてる」



 俺の声が、自分の耳にも空々しく聞こえる。

 心の中で、陽菜の強がりが俺を責めている。

 もっと早く気づけなかったのか。

 あの文化祭のステージで、彼女の歌声に心を奪われたときから、何か異変を感じていたのに。


 肺転移の兆候か、彼女の息が浅く、時折咳が混じる音が、俺の胸をえぐる。








 午後、ドアが開く音がする。

 真奈が元気よく入ってきて、メイク道具のバッグを振り回す音が軽快だ。



「陽菜~! 今日もお化粧タイムだよ! ほら、このリップ、陽菜の肌にぴったりでしょ?」



 彼女の声が部屋を少し温める。

 真奈が陽菜の頰に色を付け、薄くなった眉をペンシルで描く。

 陽菜が小さな鏡を覗き込む。



「真奈ちゃんのおかげで、まだ可愛くいられる……本当にありがとう」



 弱く微笑む。

 でも、鏡に映る自分の姿に一瞬涙ぐみ、手で目を覆うのが見える。

 俺はそれを黙って見つめる。

 心がざわつく。


 純也がドアを乱暴に開け、果物バスケットをベッドサイドにドンと置く音が響く。

 りんごの新鮮な匂いが、消毒液の臭いを少し和らげる。



「おい、陽菜。弱気なんて似合わねぇぞ。これ食って元気出せ。」



 ぶっきらぼうに、純也がりんごを剥き始める。

 カリカリとした音と、果汁の甘い香りが広がる。


 明が静かに本を手に後ろから入ってきて



「これ、君の好きなファンタジー小説だ。まぁ、本代は幹也に請求するさ」



 明は空いた椅子に座り、本を読み始める。

 ページをめくる紙の擦れる音が、部屋に落ち着きを与える。

 俺はギターを膝に置き、みんなで小さな合唱を始める。

 陽菜の声は掠れているが、透き通る部分が俺の耳を優しく撫でる。


 ハーモニーが部屋に広がり、温かな空気が肌に触れるようだ。

 純也が陽菜にりんごを差し出し、



「もっと食えよ! 俺の剥いたやつだぞ」



 と声を張る。

 明が本を閉じて眉を上げ、



「うるさいぞ、純也。陽菜の休養を邪魔するな。声量を抑えろ」



 と軽く睨む。

 純也がムッとして



「てめぇこそ、クールぶってんじゃねぇよ! 俺の励まし方だよ!」



 と返す。

 真奈が笑いながら純也の腕を叩き、



「純也くん、ほんとに兄貴みたいで面白いね!陽菜、こんなに守られて幸せだよね~」



 とからかう。

 純也が赤面して視線を逸らすが、陽菜を見て拳を握り締める。

 みんなの笑いが部屋を温め、陽菜が一瞬本物の笑顔を見せる。


 でもすぐに激しい咳き込みで、酸素マスクを調整する音がする。

 息切れの悪化が、肺の痛みを想像させる。

 俺の心に、影が落ちる。


 陽菜がトイレから戻る際、壁に寄りかかり腰を押さえ、ゆっくり歩く姿を俺は見つめる。

 ベッドに戻ると倒れ込むように座り、



「お腹が重くて…息が苦しい。膀胱も痛くて、トイレに行くのも辛い」



 と漏らすが、すぐに



「みんながいるから大丈夫! 風邪みたいなものだよ」



 と強がって笑う。

 彼女の声に、金属のような苦さが混じる気がする。

 味覚障害のせいか、食事トレイの白米やおかずはほとんど手つかずだ。



「味が変で……金属みたいに苦い。食べたくない」



 と彼女が呟くのを聞くたび、俺の舌にもその苦みが広がるような錯覚がする。








 皆が去った夜、病室の蛍光灯が薄暗く調整され、モニターのピッピッという音が規則的に響く。

 あの音が、俺の鼓動と重なる。

 陽菜は痛み止めで意識が少し朦朧とし、スカーフで頭を隠したまま、ベッドに横たわっている。

 彼女の息が浅く、時折咳が混じる音が、静かな部屋に不気味に響く。


 俺だけが残り、ベッドの端に座って陽菜の肩を抱く。

 彼女の肩が細く、熱っぽい。

 心の中で、葛藤が渦巻く。

 なぜ陽菜は、こんな状況で平気な顔をしているんだ?


 死の影がすぐそこに迫っているのに、飲み込まれているように見える。

 彼女の強がりが、俺の胸を締めつける。

 俺は耐えきれず、声を低くして尋ねる。



「陽菜……なんでそんなに落ち着いてるんだ? 死に対して、飲み込めているように見えるよ。俺は……怖くてたまらないのに」



 陽菜がゆっくりと顔を上げ、俺の目を見つめる。

 彼女の瞳が、月光に照らされてかすかに輝く。



「諦めたわけじゃないよ、幹也くん。でも、だからって今を無駄にしたくない。限られた時間を、精一杯生きたいの。だから、手紙を証として残したい…みんなに、私の気持ちをちゃんと伝えておきたい。だから、お願い。見てほしいの」



 彼女の言葉が、俺の心に染み込む。

 震える手で便箋を取り出す様子を、俺は息を潜めて見つめる。

 手が震え、ペンが紙に滑って字が乱 canningれるのを、傍らで見る。

 陽菜が弱い声が響く。



「幹也くん……これ、下書きだけど見てほしいの。みんなにちゃんと伝えたいけど、言葉が上手く出てこなくて……」



 便箋を差し出す。

 俺は優しく受け取り、ゆっくり読み上げる。



「真奈ちゃんへ:いつも明るく笑わせてくれてありがとう。私、真奈ちゃんの笑顔が羨ましかった。私の分まで、みんなを輝かせてね。出会った時のこと、忘れないよ。」



「明くんへ:クールだけど、いつもみんなを見守ってくれてたよね。ありがとう。たまには本気で笑って、みんなを驚かせて。」



「純也くんへ:文化祭で守ってくれて、本当に助かったよ。見た目はヤンキーだけど、不器用な優しさで幹也くんを支えてあげて約束だよ。」



「幹也くんへ:君と出会えて、私の人生は光でいっぱいになった。一等星は遠くに見えるけど、実は一番近くで照らしてるって、君に教わったよ。私の分まで、歌い続けて。愛してる。」



 陽菜が恥ずかしそうに



「まだ変なところ多いよね…字も汚くて」



 と弱く笑うが、すぐに腹水の痛みで顔をしかめ、両手でお腹を押さえて咳き込む。

 俺は涙を堪え、



「完璧だよ。陽菜の気持ち、全部伝わってる。みんな、きっと宝物にする」



 と言い、額に優しくキスする。

 彼女の額が冷たい汗で湿っている。

 陽菜の強がりが崩れる。



「幹也くん……私ね、告知された時、否定して怒ってた。なんで私なの? って。でも、今は少し受け入れられるかも。でも、妊よう性を失うなんて、絶望的……子供の写真見るだけで胸が痛くて、一人で泣いてた。普通の結婚、子供を抱く未来が欲しかったのに、ごめんね、私じゃダメだよね」



 嗚咽しながら告白する陽菜。

 涙がシーツに落ち、冷たい汗が額に浮かぶ。

 俺は陽菜を抱きしめ少しでも安心させようと少し力が入る。



「関係ないよ。陽菜がいるだけで、俺の未来は全部陽菜だ。だからずっとそばにいるよ。絶対に」



 彼女の乾燥した肌と乱れた息が俺の胸に伝わり、受容への一歩を感じる。

 でも、心の奥で、否定と怒りが俺自身にも渦巻く。

 なぜ陽菜だけがこんな目に。

 絶望が、俺の五感を鈍くする。








 深夜、陽菜一人でベッドに横たわる姿を想像するだけで、胸が痛む。

 腹水穿刺の針の記憶が彼女を震わせているのだろう。

 窓外の月光が部屋を淡く照らし、遠くに一等星達が輝く。

 陽菜が弱く歌を口ずさみ、涙を流しながら指でベッドシーツを握り締める音が、俺の耳に残る。


 窓外の雪解けが春の訪れを予感させるが、陽菜の息の浅さと咳の頻度が増え、病気の進行を静かに示す。

 俺はそれを、ただ見つめるしかない。

 心の中で、永遠の喪失感がゆっくりと広がっていく。

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