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17/22

十六

 午後の陽射しが薄く射し込む病院の待合室。

 空気は冷たく張りつめ、消毒液の鋭い臭いが鼻腔を刺すように広がっていた。

 私は母親と並んで、硬いプラスチックの椅子に腰を下ろしていた。

 膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめ、足先が軽く揺れる。


 床のタイルに当たる小さな音が、自分の心臓の鼓動のように響く。

 母親は隣で静かに座り、時折私の肩に手を置き、優しく撫でるが、その手も微かに震えているのがわかる。

 不安が足の裏から這い上がってくるようで、冷えた汗が靴下の中にじわりと染み込む。

 母親が持ってきた雑誌を一緒にめくり、指先が震える私を、母親がそっと支える。


 ページの紙のざらざらした感触が、かえって現実を突きつけてくる。


「最近の出血……ただの生理不順だよね? 中学の引きこもりみたいに、怖いことじゃないはず……」


 心の中で繰り返す言葉は、味気ない待合室の空気に溶け込んでいく。

 壁の時計の針がカチカチと進む音が、耳にやけに大きく響き、周りの患者たちのため息や、遠くの看護師の足音が、彼女たちの孤独を強調するように混ざり合う。

 母親が小声で


「大丈夫よ」


 と囁くが、その声にも不安がにじむ。


 ようやく名前が呼ばれ、母親と一緒に診察室に入る。

 医師の白衣が眩しく、部屋の空気はさらに重く淀んでいる。

 座った椅子のクッションが体を沈ませ、私の背中を冷たい感触が這う。

 母親が陽菜の手を握りしめ、二人は息を潜めて医師の言葉を待つ。


 医師の声は低く、重く響く。


「子宮頸がん、ステージ4です。膀胱と腸に浸潤が見られ、遠隔転移の可能性もあります。治療は化学療法と放射線療法を中心に進めますが、妊よう性は失われる可能性が高いでしょう。」


 言葉が耳に届いた瞬間、頭の中が真っ白になる。

 視界がぼやけ、周囲の医療機器の輪郭が溶けていく。

 母親の握る手が一瞬強く締まり、私の耳に母親の小さな息を呑む音が聞こえる。

 耳鳴りが高く鳴り響き、まるで遠くのサイレンが近づいてくるよう。


 口の中が乾き、鉄のような味が広がる。


「嘘……なんで私? まだ高校生なのに……歌いたい、みんなと笑いたいのに…」


 心の声が渦巻き、胸が締めつけられる。

 医師の説明が遠くぼんやりと聞こえ、無意識に唇が動く。


「間違いじゃないですか? 検査ミスかも……」


 声は震え、空気に溶けて消える。

 母親が医師に質問を重ねるが、その声も震え、私の肩を抱き寄せる。


 診察室を出て、廊下の壁に寄りかかる。

 母親が私を支え、二人は互いに寄り添う。

 壁の冷たいタイルが背中を刺すように感じ、足が鉛のように重く沈む。

 涙が頰を伝い、塩辛い味が唇に触れる。


 母親の目にも涙が浮かび、静かに拭う。


「なんで私だけ……怒りで胸がいっぱい。みんなに言えない……笑顔でいなきゃ」


 強がりが胸に生まれる瞬間、手のひらが冷たく汗ばみ、消毒液の匂いがまだ鼻に残る。




 自宅の部屋に戻ると、夕陽がカーテン越しに赤く染め、部屋全体を血のような色に塗りつぶしていた。

 ベッドに腰を下ろし、告知の書類を握りしめる。

 紙の感触が指に食い込み、くしゃくしゃと音を立てる。

 枕に顔を埋めると、柔らかい布の匂いが鼻をくすぐるが、すぐに嗚咽が込み上げてくる。


「子宮がん……子供産めなくなるかも。未来が奪われるなんて……悔しい、怖い、辛いよ」


 涙が枕を濡らし、塩辛い味が口の中に広がる。

 体が震え、下腹部の鈍痛が波のように襲ってくる。

 痛みは熱く鋭く、腸を絞られるような感覚。


 夜中、部屋は暗く静まり返り、外の街灯の光が薄く差し込むだけ。

 枕を殴る拳の音が鈍く響く。


「なんで! 私何も悪いことしてないのに!」


 怒りが爆発し、声が喉を裂くように出る。

 胸の締めつけが息を苦しくし、空気を吸い込むたび、部屋の埃っぽい臭いが肺に染み込む。

 体が熱くなり、汗が背中を伝う。

 中学の引きこもり時代がフラッシュバックする。


 あの暗い部屋で膝を抱え、窓から漏れる光が唯一の慰めだった。

 埃の臭い、孤独の重さ、息苦しさが今と同じようで。


「あの時みたいに、閉じこもりたい。でも、今は違う。みんながいる……」


 葛藤が心を蝕む。

 鏡の前に立ち、髪を触る。

 指先が柔らかい髪の感触を確かめる。


「まだ元気に見えるよね……みんなにはバレないように」


 笑顔を練習する。

 鏡に映る自分の目が赤く腫れ、頰の肌が乾いてつっぱる。

 息を吐くと、部屋の空気が重く淀み、下腹部の痛みが再び鋭く刺す。

 味覚が鈍り、口の中が苦い。




 電話の受話器を握り、指先が冷たく震える。

 夕暮れの部屋に、電話のダイヤルトーンが小さく響く。

 幹也の声が繋がると、私は明るく振る舞う。


「最近体調悪いかも…でも、大丈夫! 文化祭の余韻で元気出るよ」


 声が少し震え、喉の奥が乾く。

 幹也くんの返事が優しい。


「心配だよ。会えるか?」


 その言葉が耳に温かく響き、心の氷が少し溶けるよう。

 本当は怖いけど、一人で抱え込まないよ……少しずつ話そう。

 心の声が受容への一歩を踏み出す。


 電話を切った後、窓辺に立ち、夜空を見上げる。

 冷たいガラスの感触が指先に伝わり、外の風の音がかすかに聞こえる。

 星空に一等星が輝き、遠くの街の喧騒が耳に届く。


「私の光、守りたい」


 とつぶやく声は、部屋の空気に溶け込む。

 胸の痛みがまだ残るが、星の光が視界を優しく照らし、消毒液の残り香が薄れていく。




 学校の廊下、朝の陽光が大きな窓から差し込み、床に長い影を落としている。

 空気にはまだ冬の冷たさが残り、どこかから漂う消毒剤とチョークの粉の匂いが混ざる。

 陽菜がトイレから戻ってくる姿を見つけて、思わず足を止めた。

 下腹部を押さえる手が不自然で、顔が青白い。


 額にうっすらと汗が浮き、唇は乾いて色が悪い。

 制服のスカートに小さな血痕がついているのに気づき、胸が締めつけられる。

 陽菜は慌てて上着を引っ張って隠そうとし、壁に軽く寄りかかって息を整えている。

 足元を見ると、靴が少しきつそうで、足首がむくんでいるように見える。


「陽菜、大丈夫か? 最近ずっと顔色悪いぞ。熱でもあるんじゃないか?」


 駆け寄って声をかけると、陽菜は目を細めて無理に笑顔を作った。


「本当に大丈夫だよ……中学の時みたいに一人で抱え込まないから。ただの疲れ、ほんと!」


 声がかすれ、咳をこらえるような息遣いが混じる。

 かすかな鉄の匂いが鼻を突き、通り過ぎる生徒たちのざわめきが耳障りに響く。


 すぐ後ろから真奈が追いかけてきて、陽菜の肩に手を置いた。


「陽菜、絶対病院行こうよ! 私がついてくから」


 明るく言う真奈に、陽菜は小さく笑って手を振る。

 でもその笑顔は疲れ切っていて、無理に頰を上げているのが痛いほどわかる。

 少し離れた階段の踊り場に明が立っていて、腕を組んだままクールにこちらを見ている。

 外の木々が風に揺れる音が、春の気配をわずかに運んでくる。


 陽菜の目……なんかおかしい。

 文化祭の準備が始まってから、ずっと変だ。

 俺たちの過去みたいに、壁を作らせちゃダメだ。




 河川敷の夕陽が水面を橙色に染め、冷たい風が枯れた草をざわつかせ、遠くの橋の車音が低く響く。

 ベンチに座ると、木の冷たい感触が尻に伝わり、みんなが集まる。

 陽菜は疲労でゆっくり歩き、腰をさすりながら息を整えている。

 息切れで肩が上下し、足のむくみで歩幅が小さくなっている。


「ごめん……ゆっくりで」


 声は掠れ、毎回の息継ぎが苦しげだ。

 俺は陽菜の腕を支えながら並んで歩く。


「陽菜のペースでいいよ。春がもうすぐ来るから、蕾を見に行こう」


 俺の声は優しく、しかし抑えきれない悲しみが滲む。

 陽菜は息を整えながら、


「うん、楽しみ……この空気、久しぶりで新鮮。病室じゃ感じられない匂いだね。土の湿った感じ、雪解けの匂い……全部、生きてるって実感する」


 と言う。

 俺は


「そうだな。陽菜と一緒にいると、俺もそう思うよ。もっとこういう時間を作ろう」


 と返す。


 河川敷に着くと、枝にはまだ固い蕾しかなく、風が冷たく頰を刺す。

 陽菜の瞳がそれでも優しく輝き、


「この蕾、春が来たらきっと綺麗に咲くよね……君と歩けて、嬉しい。心が温かくなるよ」


 と囁く。

 俺は陽菜の隣に立ち、手を握る。


「陽菜、この蕾は君の強さに似てる。どんな冬でも、ちゃんと春を迎える。君の笑顔が、俺の春だ」


 陽菜は頰を赤らめ、弱く笑う。

 ベンチに座ると、陽菜は枯れた草を手に取り、冷たい感触を確かめる。


「この匂い、乾いてるけど……幹也くんのギターと一緒に、思い出に」


 彼女は弱く笑うが、目元に影が差す。

 俺がギターを弾き始め、二人のオリジナル曲をデュエット。

 陽菜の声は掠れ、透き通っていた歌声が今は細く途切れがち。

 途中で咳き込みが襲い、血痰をティッシュで拭う。


 鉄の味が口に広がり、体が震える。


「最後まで歌いたい……君と」


 彼女の瞳に涙が浮かび、声が震える。

 俺はギターを止めずに、


「陽菜の声が一番好きだよ。途切れても、美しい。一緒に歌おう、ゆっくりでいい」


 と励ます。

 陽菜は咳を抑え、


「ありがとう……この歌、私たちの物語だよね。出会った日から、今まで。君のメロディーが、私の心を繋いでくれる」


 と続ける。

 歌詞の一節一節が、過去の思い出を呼び起こし、切ないメロディーが冷たい風に溶け込む。

 歌い終わり、陽菜が俺の胸に寄りかかる。


 温かな体温が、冷えた体を包むが、彼女の体重は軽く、まるで消えゆく影のよう。


「この蕾、春になったら一緒にまた見に来よう。病気が全部奪うかもしれないけど、君との時間は……」




 容態が少し安定した冬の終わりの日、陽菜の強い願いで、病室を抜け出す。

 特別な外出だ。

 ゆっくり歩いて河川敷へ向かう。

 枝にはまだ蕾が固く、雪解け水が地面を湿らせ、冷たい風が頰を撫でる。


 空気は澄み、土と水の匂いが混じり、遠くから鳥のさえずりが聞こえる。

 陽菜はゆっくり歩き、時折立ち止まって息を整え、ウィッグが風で少しずれ、むくんだ足が靴にきつく感じる。

 息切れが激しく、胸が上下に激しく動く。




 陽菜が一人でベッドに横たわる姿を想像するだけで、胸が痛む。

 腹水穿刺の針の記憶が彼女を震わせているのだろう。

 窓外の月光が部屋を淡く照らし、遠くに一等星達が輝く。

 陽菜が弱く歌を口ずさみ、涙を流しながら指でベッドシーツを握り締める音が、俺の耳に残る。


 窓外の雪解けが春の訪れを予感させるが、陽菜の息の浅さと咳の頻度が増え、病気の進行を静かに示す。

 俺はそれを、ただ見つめるしかない。

 心の中で、永遠の喪失感がゆっくりと広がっていく。


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