十五
夕方の河川敷は、秋の乾いた風が木の葉をそよがせ、土と枯れ草の匂いを運んでくる。ベンチの木肌はひんやりと冷たく、陽菜が腰を下ろすと、わずかに軋む音がした。
彼女のセーターは柔らかい毛糸の感触なのに、その下の肌は青白く透け、唇の血色が薄い。息を吐くたびに小さな白い霧が浮かび、遠くで夕陽が水面を橙色に染めて目を細めさせる。
陽菜は座ったまま、無意識に下腹部を軽く押さえ、息を詰めて顔をしかめた。痛みが鋭く走り、指先が布地を握りしめる感触が布越しに伝わる。
立ち上がろうとして足がふらつき、俺の腕に軽く寄りかかった。下肢のむくみが靴下のゴム跡をくっきりと残し、歩くたびに重い水を溜め込んだような鈍い重さが足に絡みつく。
「純也くんが助けてくれたこと、ありがとうって伝えてあげて。あの時、私怖かったのもあるけど安心もしたよ。純也くん、本当は優しいよね……幹也くんの昔の友達なんだよね? みんなで仲良くできたらいいな」
陽菜の声は弱々しく、風に混じってかすかに震えていた。俺は彼女の冷たい手を握った。指は細く骨が浮き、触れると体温の低さが掌にじんわりと染み渡る。
「陽菜が言うなら、俺もちゃんと向き合ってみるよ」
決意の言葉が、風に陽菜の髪がなびかせるのを感じながら固まった。彼女の肩が小さく震え、秋の冷気が鼻腔を刺す。
陽菜が突然腰をさすり、
「最近腰が重くて……歩くのもつらい」
とつぶやいた。声に混じる息苦しさが、俺の胸を締めつける。
「また痛いのか? 最近ずっと顔色悪いぞ」
「文化祭で無理しただけだよ。ただの疲れだよ」
笑顔で誤魔化しているように見える。だが、目が潤み、涙の塩辛い気配が空気に溶け込む。俺が強く手を握ると、陽菜の手が冷たく細く震え、疲労の重みが伝わってくる。体は以前より軽く、風に飛ばされそうな儚さだった。
陽菜は言葉を飲み込み、弱々しい笑みを浮かべたまま、俺の胸にそっと顔を寄せた。
言いたい……全部話してしまいたい。でも、まだ……言ってしまったら、みんなの笑顔が壊れてしまう気がする。痛みは私だけでいい。今は、まだ。
学校帰りの路地裏は、夕陽が二人の影を長く伸ばし、アスファルトの残熱が靴底にじんわり伝わる。近くの食堂から油と醤油の匂いが漂い、遠くでバイクのクラクションが短く鳴った。俺は純也を呼び出し、足音を止めた。
「文化祭で陽菜を助けてくれたこと、本当にありがとう。あの時の行動を見て、俺も過去を水に流せた。陽菜も喜んでた」
純也は照れ隠しで視線を逸らし、指先で煙草の箱をいじる感触を確かめながら
「別に……俺の通路の邪魔だっただけだ」
声に混じるざらついた響きが、路地の壁に反響する。だが、その瞳の奥に、ずっと心の隅に沈んでいた罪悪感が揺れているのが、俺にはわかった。
俺は中学の頃から、胸の奥に重い石を抱えていた。あの交差点での出来事──小学生を助けた俺を「裏切り者」と罵り、絶交した瞬間。
家庭の荒れた匂いの中で、グレながらも、夜ごとに蘇る後悔の味。文化祭のステージで、ギターを弾きながら陽菜と輝く幹也を見たとき、胸が締めつけられた。
あいつは前に進んでいる。俺は、まだあの日のままだ。そう思った瞬間、ようやく決意が固まった。謝らなければ。もう、逃げられない。
純也が目を伏せ、低い声で吐き出す。
「……中学の誤解で……裏切って悪かった……お前を傷つけた……」
言葉が途切れ、純也の声が震え始める。喉が詰まったように息を吸い込み、目頭が熱く潤む。涙が一筋、頬を伝い落ちるのを拭おうともせず、彼は続ける。
「あの時、俺は本当は……人助けしただけだったのに……お前を許せなくて……」
ここで声が途中でかすれ、嗚咽が混じり、肩が小さく震える。純也は拳を握りしめ、視線を地面に落としたまま、涙がぽたぽたとアスファルトに落ちる音が響く。
「でも、ずっと後悔してた……文化祭見て、ようやくわかった……お前は変わったのに……俺はまだあの日のままで……情けねぇな、俺って……」
最後の言葉はほとんど囁きになり、純也の体が前かがみになる。涙が止まらず、鼻をすすりながら顔を上げ、俺の目を見つめる。その瞳は赤く腫れ、過去の重みが溢れ出していた。
俺は息を飲んだ。中学のバンド練習室の記憶が蘇る。埃っぽい空気、ギターの弦を弾く乾いた音、二人が「ここが俺たちの居場所だ」と笑い合った声。
交差点での鈍い衝撃音、なくしたと嘘をついた瞬間。純也の激怒「俺を裏切ったな!」と絶交の言葉が、耳に鋭く刺さっていた。
あの瞬間、俺はただ凍りついて、何も言い返せなかった。心にできた壁は、あの日からずっと厚く、誰とも本気で繋がれなくなった。
「家庭が荒れて、言い訳が許せなくてグレた。でも本当は……お前が正しかったんだな。陽菜見て変わりてぇと思ったのは、昔の俺たちみたいに、誰かを守れる奴になりたかったからだ。昔の誤解を引きずって、素直になれない自分が情けねぇ」
言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが崩れた。俺はゆっくりと純也に近づき、肩をつかんだ。純也の肩は固く、緊張で熱を帯びていた。俺は目を閉じ、深く息を吸って言った。
「……俺も、ずっとあの日のことを……引きずってた……」
声が震え始め、喉が詰まる。涙がこみ上げ、視界がぼやける。純也の顔が歪んで見え、俺は言葉を続けるのに必死で息を吐く。
「お前を信じられなくなって……心に壁を作って……上辺だけの関係しか持てなくなった……」
ここで嗚咽が漏れ、涙があふれ出す。俺は純也の肩を強くつかみ、声を絞り出すように続ける。鼻水が混じり、息が荒くなる。
「でも、陽菜が……お前達の歌う姿が俺を変えてくれた……お前と向き合うことで……ようやく本当の自分に戻れる気がするんだ……俺の方こそ……あの時はごめん……」
最後の「ごめん」が嗚咽に変わり、俺たちは互いの肩を寄せ、涙目で抱き合った。肩の固い感触、互いの息遣いが近く、汗と埃の匂いが混じる。純也の声が震えながら耳元で響く。
「誰かの笑顔守れたのが嬉しかった。俺も……変わらなきゃって、ようやく思えた」
抱き合う中で、二人の涙が互いの肩を濡らし、夕陽の光がその光景を優しく包み込んだ。
数分した後だった。真奈が駆け寄り、軽やかな足音が響く。
「純也くん、よく謝られたね! うちの兄も不器用で喧嘩腰だったけど、心は優しかったよ。純也くんもそうだよね」
と目を潤ませて頭を撫でる。純也は
「…うるせぇよ」
照れながら、頬が熱くなり、表情が柔らかくなった。
河川敷に明が加わり、グループが輪になる。夕陽が顔を赤く染め、水の流れる音が穏やかに耳に届く。風が草の匂いを運び、肩が触れ合う温かさを感じる。
「お前ら、昔みたいに戻れよ」
と明がクールに言う。
「お前こそクールぶってんじゃねぇ」
「俺はただ、幹也が笑えるようになったのが嬉しいだけだ。お前もだろ?」
「……まぁな」
「みんなで支え合おうよ! 陽菜も喜ぶよ」
真奈が目を潤ませてみんなの肩を叩く。叩く音が軽く、笑顔の温かさが空気に広がる。
純也と俺は相容れない立場だと思う。でも幹也を、親友を思う気持ちは同じ。文化祭の幹也を見て、胸が熱くなった。そんな立場や複雑な関係だってひとつにしてしまうお前達に本当は心の底から感謝してるよ。
陽菜が学校を早退し、俺と真奈が自宅を訪ねる。部屋は薄暗く、カーテンが閉まり、薬の袋がベッドサイドに散らばる。
空気に薬の苦い匂いが混じり、ベッドのシーツが皺くちゃに。陽菜は青白い顔で横たわり、腹部が少し膨らんでいる。セーターがだぶつき、体重減少が目立つ。
ゴミ箱に血混じりのナプキンが隠され、俺だけが気づき血の鉄臭い気配が鼻を突く。
「陽菜、最近お腹張ってるみたいだけど、大丈夫?」
「食べ過ぎただけ……ただの風邪だよ、もう治ったから」
笑うが、声が弱く息が浅い。表情は疲れ切っているのに、無理に目を細めて笑顔を作っているようにしか見える。強がりの表れで、唇の乾きが感じられる。
真奈は違和感を感じているのだろう。
「…本当? じゃあ良かった。でも何かあったらすぐ言ってね!」
と言い聞かせるように納得している様子だ。俺は静かに手を握り、心の中で「陽菜……俺はまだ本当のことを知らないふりをしている。でも、いつか話してくれるまで、そばにいる」と決意する。
学校で早退を聞き、明が俺に耳打ちをする。
「陽菜の様子、おかしいぞ。何か知ってるか?」
「心配ないよ」
とごまかすほかなかった。まだ何も知らないのも事実だったからだ。
俺と陽菜の手をつなぐ。彼女の弱々しい笑顔が切なく、窓の外の夕陽が部屋を赤く染め、薬の匂いが混じる。和解の喜びと不安の影が交錯する。
「陽菜の今の様子は強がりだな。でも、彼女がまだ話せない理由があるなら……俺は待つ。怖いけど、待つよ」
誰にも届かない言葉が空に消える。




