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十二

 十一月八日、文化祭前々日。校内は準備の喧騒に満ち、足音が廊下を埋め尽くしていた。息が白く舞う朝が続き、校庭の木々は葉をすべて落とし、枝が冷たい風に震えていた。


 カフェでの純也の一件から数日が経過し、陽菜の頰はまだ淡い青みが残っていた。あの瞬間、彼女の顔が白紙のように色を失った姿が、俺の胸に棘のように刺さり続ける。


 それでも陽菜は「もう平気」と微笑み、音楽部室へ通い続けていた。


 今日は歌詞を本格的に完成させる日。俺たちは河川敷のベンチに腰を下ろし、ノートを広げ、ギターを抱えた。風が鋭く頰を切りつけ、枯れた草の湿った土臭さが鼻腔をくすぐる。


 陽菜の横顔を覗くと、瞳に宿るのは鋼のような決意。でも、時折、下腹部をそっと押さえる仕草が、俺の視線を絡め取る。






 音楽部室の空気は埃と古木の臭いが絡みつき、息を吸うたび喉をざらつかせた。窓から漏れる午後の光が、俺のギター弦に細く絡みつき、金属の冷たい輝きを放つ。


 陽菜がその弦を指でなぞる感触を、俺は横目で捉えていた。彼女の細い指が触れるたび、微かな振動音が響き、部屋の静けさを微かに揺らす。


「幹也くんのギター、初めて見た時から歌が好きになったよ」


 彼女の声は低く抑えられ、喉の奥に何かを押し込めたような響きだった。中学時代の引きこもり期の話を、彼女は淡々と紡ぎ出す。


 部屋に閉じ込められた日々の湿った空気、母親が作った食事の匂い、窓の外からかすかに漏れ聞こえた俺の演奏。それが彼女の耳にどう刺さったのか、俺には想像の及ばない深淵だ。


 でも、彼女の瞳の奥に暗い水のようなものが揺らぐのを見ると、胸が締めつけられる。


「先輩の影響で、歌が私の救いになった」


 そう言って、彼女は小さく息を吐いた。その息が白く揺れ、俺の頰にかすかに触れる。温かく、でもどこか湿り気を帯びていた。


 文化祭で歌いたい理由を語る時、彼女の声は少しずつ高くなる。思春期の孤独、受験の重圧、誰も触れてくれない心の痛み。それを歌で共有したい、払拭したい、と。


 決意の言葉なのに、彼女の指先がノートを握る力は弱々しく、紙がくしゃりと音を立てた。


「俺も全力でサポートする」


 でも、彼女の横顔を見る。痛みだろうか。彼女の額に、薄く汗が浮かんでいるのがわかる。部室の空気が、急に冷たく感じられた。






 河川敷のベンチは、錆びた鉄の冷たさが尻に沁みる。風が枯れ草の匂いを運んでくる。少し湿った、土と水の混じった匂い。


 陽菜がノートに歌詞を書くペンの音が、静かな河川敷に小さく響く。俺はギターを膝に乗せ、弦を爪弾く。低く、切ない音が空気に溶けていく。


「暗い部屋でひとり、窓辺に立つ……」


 陽菜が試しに口ずさむ。声はきれいだ。でも、彼女自身が首を振る。


「なんか、違う……本当の孤独が、伝わらない」


 俺のメロディも、彼女の言葉に追いつかない。弦の音が空回りして、風に散る。ノートを破る音が、乾いた裂ける音を立てて、紙くずが地面に落ちる。白い紙が、土に吸い込まれていく。


 陽菜の手が震える。細い指が、ノートを握りしめる。震えが伝わってくる。俺は彼女の肩に手を置く。制服の布地越しに、体温が伝わる。でも、その熱は少し高すぎる気がした。


「休憩しよう。無理は禁物だ」


 彼女の肩が、小さく震えた。風が髪を揺らし、俺の鼻に彼女のシャンプーの香りが届く。甘い、でもどこか儚い香り。


 休憩の後、再び始める。修正を重ね、バース2が決まった瞬間、陽菜の声が弾む。


「これだ!」


 ハイタッチした手のひら同士の感触が、熱かった。彼女の笑顔に、初めて本物の光が見えた気がした。


 歌詞が完成する。タイトルは「一等星の光」。


 バース1: 「暗い部屋で一人、窓辺に立つ / 受験の影が心を覆う / 誰も知らないこの痛み / でも君の声が聞こえてくる」


 サビ: 「一等星のように輝け / 思春期の悩み、風に飛ばせ / 仲間と歌えば、光が見える / 明日へ踏み出そう、手を繋いで」


 バース2: 「引きこもった日々、涙の跡 / でも君のギターが扉を開く / 孤独の鎖を解き放て / 新しい朝が待ってるよ」


 ブリッジ: 「不安の波に飲まれそうでも / 歌声が支えになる / みんなの笑顔が、僕らの力」


 サビ: 「一等星のように輝け...」


 陽菜が歌う。声が、夕暮れの空に吸い込まれていく。俺はギターを弾きながら、彼女の横顔を見つめる。夕陽が、彼女の頬を赤く染める。でも、その赤みは、熱のせいかもしれない。


 部室に戻り、グループに披露する。真奈の目が潤む。彼女が陽菜の頭を撫でる手が、優しい。明はクールに頷くだけ。


 でも、みんなの視線が、陽菜に集まる。彼女の過去を共有した時、部室の空気が一瞬、重くなった。誰もが、自分の暗い部分を思い出したような、沈黙が落ちる。


 河川敷で、陽菜が一人で練習している姿を、俺は遠くから見ていた。彼女が顔を上げる。空はもう暗くなり始め、星が一つ、冷たく光り始めている。


 彼女の歌声が、風に乗って届く。きれいだ。でも、その声の奥に、かすかな震えが混じっている気がした。






 音楽部室の蛍光灯が、夜遅くまで点いたままだった。白い光が、机の上に散らばった楽譜を冷たく照らす。陽菜がギターの音に耳を澄ます。俺が何度も同じフレーズを弾き直す。弦の振動が、指に残る。


「もっと切なく……でも、温かく」


 彼女の声はかすれている。深夜の部室は、静かすぎて、自分の息づかいが大きく聞こえる。陽菜が額を押さえる。


「頭が、痛い……」


 下腹部をさする仕草の他に頭を抱える。彼女の顔色が、蛍光灯の下で青白い。俺はギターを置く。


「今日はここまで。無理しないで」


 彼女の目から、涙がこぼれる。熱い涙が、頬を伝う音が、静かな部室に響くような気がした。俺は彼女を抱きしめる。


 制服越しに、彼女の体温が異常に高い。心臓の鼓動が、速い。彼女の髪の匂いが、鼻をくすぐる。甘い、でもどこか苦い。






 翌日、部室に真奈と明が加わる。真奈の明るい声が、部屋を少しだけ温める。


「陽菜の歌、聞かせて!」


 明が楽譜を広げる。紙がこすれる音。みんなでアイデアを出し合う。真奈が「ここ、もっと感情を込めて!」と歌ってみせる。彼女の声が、部室に響く。陽菜の顔が、少しずつ明るくなる。


 部室の外、廊下の影から純也が見ていた。彼の足音が、遠ざかっていく。乾いた靴音が、床に響く。彼の考えは、俺には分からなかった。


 河川敷で最終調整。風が冷たくなってきた。枯れ草の匂いが、初冬の気配を運ぶ。メロディーが決まる瞬間、陽菜が歌う。


 声が、夕空に吸い込まれていく。俺はギターを弾きながら、彼女を見つめる。視線が絡み合う。唇が、触れそうになる距離。でも、彼女の瞳の奥に、かすかな痛みが揺れている。


 グループで河川敷を歩く。夕陽が、みんなの影を長く伸ばす。陽菜がつぶやく。


「この苦労が、私たちの絆を強くしたね」


 その声は、優しい。でも、風に乗って届く時、少しかすれていた。俺は彼女の手を握る。冷たい指先。心の奥に、得体の知れない不安が、静かに広がり始めていた。

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