十一
音楽部室の空気は、いつもより少し重かった。
ほこりっぽい臭いが鼻をくすぐり、暖房の効きが悪いせいで、指先が冷たく感じる。
窓から差し込む初冬の陽光が、ほこりの粒を浮かび上がらせて、楽譜の上で揺れている。
息が白く、部室の暖房が効いていないことを物語っている。
俺はギターを抱え、弦を軽く爪弾いた。
金属的な響きが、静かな部屋に広がる。
隣で陽菜が息を整え、マイクスタンドに手を添える。
俺たちで決めたデュエットの曲を文化祭のステージで披露する、オリジナルだ。
カフェで陽菜の手を握った温もりが、まだ掌に残っているようだった。
あの後、純也の影が頭から離れないけど、今は集中する時だ。
カフェで絡んできたのを、なんとか追い返したけど、心のとげが残る。
陽菜の声が、最初の一節を紡ぎ出す。
それは、確かに美しい声だった。
でも、俺にはわかった。
少し掠れている。
いつもより、息が続かない。
陽菜は笑顔を貼り付けて、歌い続ける。
俺はギターのボリュームを少し上げて、彼女の声を包み込むように弾いた。
二人のハーモニーが重なった瞬間、陽菜が小さく微笑んだ。
甘いシャンプーの香りが、ふと漂う。
「一緒に歌うの、嬉しい」
その言葉は、囁くように零れた。
俺はうなずくしかなかった。
嬉しいのは、こっちだよ、と言いかけたが、喉の奥で言葉が詰まった。
陽菜の横顔が、どこか遠くを見ているような気がしたから。
甘酸っぱい空気が、部室に満ちていく。
陽菜の頰が、少し青白い。
冷えた空気が、肌に刺さる。
ドアが開いて、明が入ってきた。
生徒会執行委員の腕章を着け、書類を抱えている。
クールな表情のまま、部室を見回す。
紙の擦れる音が、静かに響く。
「お前ら、ラブラブじゃん。邪魔しちゃ悪いか」
明の声は平坦だったが、目が笑っていない。
からかっているのは明らかだ。
でも、俺はそれに慣れていた。
明はいつもこうだ。
純也のことを思い出すたび、俺をからかいながら、自分の苛立ちを隠しているように見える。
純也とは相容れない。
それが明の持論だった。
純也に会ったのが原因なのか、胸がざわつく。
喉が渇き、唾を飲み込む。
陽菜がくすりと笑う。
「明会長、ひどいなあ」
明は肩をすくめて、机の端に腰掛けた。
観察するような視線を、四六時中投げかけてくる。
まるで、何かを待っているみたいに。
部室の窓から差し込む光が楽譜を照らし、みんなの笑い声が混じり合う。
埃の味が、口の中に広がるような気がした。
まるで、俺たちの絆が、埃にまみれた古い楽譜みたいだ。
部室の隅で、俺は書類を広げながら、幹也と彼女の様子を見守る。
いつものように、クールに振る舞う。
幹也のギターが彼女の声を支える様子は、悪くない。
ハーモニーが響くたび、部室の空気が少し甘くなる。
でも、彼女の声に、かすれがある。
息が続かない。
顔色が悪いのは、この前カフェで純也と揉めたストレスか?
いや、それだけじゃない気がする。
幹也は気づいているようだが、俺もうっすら分かっている。
この子、ただの疲れじゃない何かを抱えている。
純也の影が幹也を苛むのは知っている。
あいつとは相いれないが、幹也のためなら、からかいながら見守るしかない。
文化祭の準備で、みんなが笑っている今、崩れないよう祈るだけだ。
俺は黙って、視線を楽譜に戻した。
指先が、紙のざらつきを感じる。
まるで、俺の心のざわめきをなぞるように。
彼女が飛び込んできたのは、それから三十分後のことだった。
「陽菜ー! 衣装の相談に来たよ!」
明るい声が部室に響く。
彼女はいつもこうだ。
おせっかいを焼きながら、誰よりも周りを気遣う。
陽菜の親友で、高校に入学したばかりの頃、ギャルっぽい見た目で友達ができずにいた陽菜に、最初に声をかけたのが彼女だった。
あのときの恩を、陽菜は忘れていない。
金髪にピアス、派手なネイルが光っている。
この前、カフェで突然現れたときみたいに、無邪気だ。
甘い香水の匂いが、部屋に広がる。
彼女は陽菜の隣に座り、頭を軽く撫でた。
「陽菜の行動力、ほんとすごいよね。でもさ、少しストーカー気味じゃない? 幹也くんの後ばっかりついてって」
笑いながら言う。
陽菜が頬を赤らめて、抗議するように彼女の肩を叩く。
二人のやり取りを見ていると、俺は少し羨ましくなる。
自分には、こんな風に自然に笑える関係が、陽菜以外にない。
布地の擦れる音が、軽やかだ。
「ちゃんと寝てる?」
彼女の声が、本気になった。
陽菜の顔色が悪いことに、気づいていたのだ。
陽菜は慌てて笑顔を作る。
「大丈夫だよ、真奈ちゃん。ありがとう」
そう言って、陽菜は軽く息を吐いた。
ほんの一瞬のことだった。
でも、俺は見逃さなかった。
彼女も、気づいたような気がした。
でも、彼女は何も言わない。
ただ、うんうんと頷いて、陽菜の背中をさする。
柔らかい感触が、伝わってくるようだ。
「いい話じゃん。陽菜のヒーローだね、幹也くんって」
彼女の言葉に、陽菜が照れくさそうに笑う。
俺からすれば陽菜の方が一等星だ。
眩しくてたまらない。
まるで、彼女の存在が、俺の心の闇を溶かす溶剤みたいだ。
練習は続いた。
陽菜の声が、だんだん弱くなっていく。
顔色が悪い。
手が、マイクを持つたびに震えている。
俺はギターを置いて、陽菜の背中に手を当てた。
彼女の体温が、薄い布越しに冷たく感じる。
「無理するなよ」
陽菜は首を振る。
「大丈夫。絶対成功させなきゃ」
その言葉は、明るかった。
でも、俺にはわかった。
強がっている。
陽菜はいつも、こうだ。
みんなを励ますために、自分の弱さを隠す。
カフェで青白くなった顔を思い出す。
あれから、もっと心配だ。
ギターの弦の振動が、手に残る。
彼女が盛り上げる。
「いい感じじゃん! 文化祭でみんなを魅了しようよ」
四人で練習を繰り返す。
笑い声が部室に響く。
絆が、少しずつ深まっていく。
でも、俺の胸の奥に、何かが引っかかっていた。
陽菜の震える手。
かすれる声。
あれは、ただの疲れなのか。
明は黙って見ていた。
時折、陽菜に視線を向ける。
その目に、何かが映っているような気がした。
薄々、気づいているのかもしれない。
でも、明は何も言わない。
ただ、クールに見守り続ける。
部屋の空気が、息苦しい。
まるで、嵐の前の静けさみたいだ。
部室での練習を終え、みんなで河川敷に移動した。
外の空気を吸ってリフレッシュしようという真奈の提案だった。
河川敷の風が、陽菜の髪を優しく揺らす。
彼女の細い影が、オレンジの夕日に溶け込みそうで、俺は無意識に手を強く握った。
冷たい指先が、互いの体温を分け合うように温かくなる。
真奈が声を上げて、みんなを盛り上げようとする。
「ほら、みんな! 次はフルでいってみよー! 文化祭で大成功間違いなし!」
彼女の明るい声が、風に乗り広がる。
でも、陽菜の息が少し乱れているのがわかる。
さっきの練習から、声の嗄れが深くなっている。
俺はギターを構え直し、陽菜の横に立つ。
明は少し離れたところで、腕を組んで見守っている。
クールな表情のままだけど、目が優しい。
俺たちは幼い頃からの付き合いだ。
明はいつも、俺の背中を押してくれる。
親友だからこそ、言葉少なく協力してくれるんだ。
純也の件で俺が悩んでいたときも、黙って聞いてくれた。
明が俺たちに協力するのは、そんな絆から来ている。
陽菜が息を吸い、歌い始める。
俺のギターが絡みつくように響く。
ハーモニーが河川敷に広がり、草のざわめきと混じり合う。
真奈が拍手を送り、明が小さくうなずく。
空のアルタイルが、ますます明るく輝き出す。
星の光が、俺たちの未来を照らすように。
でも、陽菜の声が途中で途切れた。
「ごめん……ちょっと、休憩……」
彼女はマイクを下げ、顔をしかめる。
顔色がさらに青白く、唇が震えている。
俺は慌てて彼女を抱き寄せた。
冷たい体が、俺の胸に寄りかかる。
真奈が駆け寄り、陽菜の背中をさする。
「陽菜! 大丈夫? 無理しすぎだよ!」
明が素早く近づき、水筒を差し出す。
表情は変わらずクールだが、声に心配が滲む。
「飲め。無理はするなよ、陽菜。幹也のためにも」
明の言葉に、俺は感謝の視線を送った。
あいつはいつもこうだ。
親友として、俺の大事な人を守ろうとしてくれる。
純也の影がまだ胸に残るけど、こんな仲間がいる今、乗り越えられる気がした。
陽菜は水を一口飲み、弱々しく微笑む。
「ありがとう、みんな……。私、ちょっと体調が……でも、絶対にステージに立つよ。みんなと一緒に」
その言葉に、河川敷の空気が優しく包み込む。
夕陽が沈み、夜の帳が下り始める。
アルタイルの光が、俺たちの絆を繋ぐ糸のように輝く。
まるで、この光が、俺たちの運命を優しく導くみたいだ。
部屋に戻る道中、俺は明に声を掛けた。
陽菜と真奈が少し先を歩き、笑い声を上げている。
風が冷たく、街灯の光が道を照らす。
「明、ありがとう。今日も協力してくれて」
明は肩をすくめ、クールに答える。
「当たり前だろ。お前は親友だ。陽菜のことも、大事だと思ってるよ」
その言葉が、胸に染みる。
純也の件で揺らぐ心を、明の存在が支えてくれる。
俺たちは黙って歩く。
足音が、夜の静けさに響く。
でも、陽菜の体調が気にかかる。
あの息切れや顔色の悪さは、何だろう。
後日、ちゃんと話してみよう。
みんなで守る、この絆を。
まるで、この絆が、俺の心の盾になるみたいだ。




