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10/22

 十月も半ばに差し掛かり、文化祭まであと三週間ほどになった。

 秋の空気が少しずつ冷えてきて、夜風が頬を刺すように感じられる季節だ。

 心臓の鼓動が、耳元で激しく鳴り響いていた。

 喉が乾き、息が熱く感じる。


 俺は息を切らして校舎の階段を駆け上がる。

 足音がコンクリートの壁に反響し、廊下の蛍光灯が白くぼやけて見える。

 夕陽が窓から柔らかいオレンジの光を漏らし、校舎全体を優しい色に染めていた。

 空気にはかすかな埃の匂いが混じり、鼻をくすぐる。


 音楽室のドアに手をかける。

 少し震える指で、ゆっくりと押し開く。

 ドアの蝶番がきしむ音が、静かな廊下に響いた。

 部屋の中では、陽菜が窓辺に立って一人で歌の練習をしていた。


 声が少し息が上がり、歌詞の途中で途切れがちになる。

 彼女が振り返り、驚いた表情で言った。



「幹也先輩……どうしたんですか?」



 陽菜の髪が夕陽に照らされ、金色に輝いている。

 でも、頬が少し青白い。

 それは、病んだ花びらのように儚く、俺の胸に影を落とす。

 俺は息を吐き、声を絞り出す。



「話したいことがある」



 音楽室の空気が静かに張り詰め、窓外の木々が風に揺れる音が遠く聞こえてくる。

 陽菜の瞳が、わずかに揺れた。

 部屋には古いピアノの木の匂いが漂い、懐かしい温かさを感じさせたが、それは失われゆく記憶の残骸のように、切なく響く。

 まるで、俺の心の闇を映す鏡みたいだ。








 俺は息を整え、陽菜の目を見つめる。



「手紙、ちゃんと読んだ。ごめん、ちゃんと向き合えへんくて」



 陽菜が目を伏せ、微笑む。



「ありがとうございます」



 でも、手がかすかに震えている。

 それは、糸の切れた人形のように、無力さを露わにする。

 俺は床に座り込み、過去を語り始める。

 床の冷たい感触が、尻に伝わる。



「幼い頃、親に愛されなくて……父親はいつも怒鳴り散らかして、母親は無関心で、俺はただの影みたいに生きてきた。荒れた家庭で孤独だった。中学で幼なじみの純也に裏切り者って絶交して、人を信じられへんようになった。唯一の親友を失ったトラウマで、どうせ失うなら表面だけで過ごせば傷は浅いって考えるようになった。あれが俺の心を壊したと思う」



 声が震え、涙がこぼれる。

 塩辛い味が唇に触れる。

 それは、心の傷口から滴る血のように、苦く染みる。

 陽菜の表情が優しく変わる。


 フラッシュバックが、突然俺の視界を埋め尽くした。








 中学校の音楽練習室。

 純也と俺がギターを弾き、家庭の暗さを忘れて笑い合う。

 弦の振動が指先に伝わり、汗の匂いが部屋に満ちる。



「俺たちの家みたいに暗くねぇよな。ここが俺たちの居場所だ」



 と純也が言う。

 楽しげなリフが部屋に響く。

 記憶は飛び、登校途中の交差点。

 小学生がトラックに飛び出し、俺がギターケースを抱えたまま子供を突き飛ばし助ける。


 ギターが地面に落ち壊れ、ケースの破片が散らばり、弦の切れた音が響く。

 アスファルトの熱気が足元から上がり、排気ガスの匂いが鼻を突く。

 当時の俺は思春期だ。

 だから恥ずかしく思って、



「ギター無くした。ごめん」



 と言いたくなくて、バンドを理由も言わずに辞める形になる。

 純也はその適当な感じに激怒。

 顔が赤く染まり、拳を握りしめる。

 突然、俺の頬に拳が飛んでくる。


 鈍い衝撃が頬を震わせ、鉄の味が口の中に広がる。

 痛みがジンジンと広がるが、それより心の奥がずきりと痛む。

 純也の目が、怒りと失望で揺れる。

 それは、割れた鏡のように、友情の破片を散らす。



「バンドの夢を!俺を!裏切ったな! お前みたいなヤツ、もう信じられねぇよ」



 絶交。

 殴られた頬の熱さが、皮膚を焦がすように残る。

 でも、その物理的な痛みは、親友を今ここで失った心の痛みに比べて、かすかなものだった。

 胸の奥が引き裂かれるような、深い裂け目が広がり、息すらつまる。


 涙が視界をぼやけさせる。



「純也……俺はただ……」



 と心で叫ぶが、言葉にできない。

 以後、純也のグレが悪化し、ヤンキーグループに本格的に入り道を踏み外す。

 風が頬を撫で、冷たい汗が背中を伝う。

 まるで、友情の糸が切れる音が、今も耳に残っているみたいだ。








 フラッシュバックが終わり、現実に引き戻される。

 陽菜が涙を流していた。



「私も……怖かったです。誰かに必要とされるって信じられなくて。でも、幹也先輩の歌が、私を救ってくれたんです」



 陽菜の瞳が、俺の顔を捕らえる。

 そこには、静かな湖面のような落ち着きと、底知れぬ深みが混在していた。

 彼女の唇がわずかに動き、言葉が零れ落ちる。

 その声は、細い針のように俺の心を刺す。


 音楽室の空気が、再び張りつめる。

 陽菜の指が、俺の袖を軽く掴む。

 それは、沈みゆく船から伸ばされた手のように、必死で儚い。

 俺は彼女の言葉を咀嚼し、過去の影が彼女の背後に忍び寄るのを感じた。



「怖かったって……どういう?」



「私、高校に入ってから……引きこもりがちになったんです。受験の不安が、毎日胸を締めつけて。勉強しても、頭に入らなくて、夜通し机に向かっても、ただ時間が過ぎていくだけ。家族は期待してるのに、失敗したらどうしようって、怖くて部屋から出られなくなったんです。友達も離れていって、ひとりぼっちの闇の中で、先輩の歌だけが光だったんです。あのメロディーが、孤独を溶かしてくれるみたいで……」



 陽菜の言葉は、断片的な記憶の欠片のように、ぽつぽつと落ちる。

 彼女の瞳に、涙が溜まる。

 それは、割れた鏡に映る歪んだ自分自身のように、痛みを映し出す。

 俺は彼女を抱きしめ、背中を撫でる。


 彼女の体温が、秋の冷たさを帯びて俺の胸に染みる。

 陽菜の肩が小さく震える。

 俺は彼女の髪を優しく撫でながら囁く。



「陽菜、お前は一人じゃない。俺がいる。これからは、一緒に乗り越えよう」



 でも、心の奥で、何かが崩れ落ちる音がする。

 それは、脆い砂の城のように、波にさらわれゆく運命を予感させる。

 音楽室の窓から入る風が、二人の間を冷たく通り抜け、すべてを儚く散らす。

 俺たちは互いの弱さを共有し、抱き合う。


 陽菜の手が冷たく、俺の背中を優しく撫でる。

 彼女の髪から優しいシャンプーの香りが漂い、心を落ち着かせるが、それは儚い幻のように、すぐに消えゆく予感を帯びる。

 俺が陽菜の肩を抱く。



「ありがとう、陽菜」



 まるで、この温かさが、永遠に続くことを祈るように。








 俺たちは音楽室から外に出て、校庭のベンチに座る。

 夜空を見上げ、星々がくっきり輝く。

 夜風が冷たくなり、遠くから聞こえる虫の声が、少し寂しげだった。

 俺が心の中で



「君は俺の一等星だ」



 とつぶやく。

 それは、暗闇に浮かぶ唯一の光のように、希望を灯すが、いつか消える星の運命を思わせる。

 陽菜が微笑むが、ふと胸を押さえて小さく息を漏らす。

 俺は気づかなかった。



「陽菜、好きだ。これが今の俺の気持ち。これからずっと一緒にいたい」



 一世一代の告白。



「うん……ずっと。私も、幹也先輩が好きです」



 自分の理想通りの答えが返ってくるが、声が少し弱い。

 それは、風に揺れるろうそくの炎のように、儚く揺らぐ。








 俺たちが手を繋いで帰る道中、陽菜の足取りが少し重い。

 街灯の光が二人の影を長く伸ばし、静かな夜の空気が切なさを増す。

 アスファルトの冷たい感触が靴底から伝わり、遠くの車のエンジン音が低く響く。

 陽菜の冷たい手が、俺の掌に絡みつくが、それは不吉な予感を残す。


 俺の心に小さな希望が芽生えるが、陽菜の息遣いが時折乱れ、彼女の頰に浮かぶ薄い汗が、月明かりにきらめく。

 道端の木々が風にざわめき、二人の影が重なり合う中、陽菜の体温が徐々に失われていくような感覚が、俺の胸を締めつける。

 さっきの告白の余韻が、まだ俺の胸に温かく残っていた。

 ベンチから立ち上がり、校庭を抜けて帰り道を歩き始めたところで、陽菜が足を止めた。


 街灯の下、彼女の顔がぼんやりと浮かび上がる。

 瞳に映る光が、わずかに揺らめいている。



「幹也先輩……私も、ずっと怖かったんです」



 彼女の声は、細い糸のように細く、夜風に溶け込みそうだった。

 俺は彼女の顔を覗き込む。

 頬が少し青ざめていて、それは古い写真のように、色あせた記憶を思わせる。



「怖かったって……何?」



 陽菜は目を伏せ、手を強く握りしめた。

 指先が冷たく、俺の皮膚に食い込むような感触がした。

 それは、誰かにすがりつく最後の力のように、必死で。



「ずっと片想いだったから……幹也先輩の過去に触れて、嫌われてしまうのが怖かったんです。あなたの本当の姿を知ったら、私なんか必要ないって思われるんじゃないかって」



 その言葉は、静かな夜に落ちる一粒の石のように、水面を波立たせた。

 俺の心臓が、再び激しく鳴り始める。

 喉が乾き、息が熱くなる。

 あの音楽室での告白が、ただの言葉じゃなかったことを、今改めて実感する。


 陽菜の瞳が、ゆっくりと俺に向けられる。

 そこには、怯えと、わずかな期待が混じり合っていた。

 それは、割れそうなガラスの器のように、危うげで美しい。

 俺は自然と彼女を引き寄せ、唇を重ねた。


 キスは、静かで、深かった。

 陽菜の唇は柔らかく、かすかな塩味がした。

 それは、涙の残り香のように、苦く切ない。

 彼女の息が俺の頰に触れ、温かく湿った空気が混ざり合う。


 でも、その温かさの奥に、冷たい影が潜んでいるような気がした。

 手が彼女の背中に回り、細い体を抱きしめる。

 心臓の鼓動が、二人の間で響き合う。

 それは、互いの傷を埋め合うような、しかし決して埋めきれないような、甘く苦いシンフォニーみたいだ。


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