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濁流から拾い上げた縁

黒い森の霧は、生者の感覚を麻痺させる毒液のようであった。ウィデント傭兵団の副団長、セリルは、鼻をつく湿った苔の匂いと生臭い魔力の残響の中で、剣の柄を強く握りしめた。彼女の銀色の胸甲には、数々の戦いの痕跡が傷跡として残っており、短く刈り込んだ赤い髪は、汗と湿気に濡れて額に張り付いていた。


「副団長、霧が深すぎます。前が見えません」


後ろに従う傭兵の声には、震えが混じっていた。セリルは恐怖を隠すように言い返した。


「怖気づくな……私たちは北方の雪原をも生き抜いたウィデント傭兵団だ。たかが森の霧ごときに足を止めるわけにはいかない。それに、うちの馬鹿な団長が前払い金をもう受け取っちまったんだから……」 「はは……そいつは済まないな」 「済まないと思う人が、あんなに呆気なく受け取りますか!? いかに手負いとはいえ、相手はあの『黒い森のムルクサール』ですよ!! 正体不明の怪物野郎と、黒い森の猟師と呼ばれている化け物なんだから」


ムルクサール。黒い森の捕食者であり、領民たちを恐怖に陥れた巨大魔獣であった。黒い森の東に位置する領地、ポルサールの領主から莫大な前払い金を受け取り、さらには報奨金まで約束されたウィデント傭兵団は、この死の森を突破し、怪物の首を獲りに来たところであった。彼らの隊長であるウィデント은、おっとりとした印象に似つかわしくない巨漢の男で、背負った大型の斧を弄びながら、先遣隊として先に出発した部下が戻ってくるのを待っていた。


「見つけました、隊長。ここから遠くない場所で痕跡を見つけました」 「よし……全員準備しろ。セリル、今回はお前も少し手伝え」 「……そうですね。隙を作ってくれれば、私が弱点を狙います」 「今回の依頼さえ達成すれば、資金難も解決する。これが成功すれば終わりだ」 「はいはい、そうでしょうね。全員出発だ。武器を構えろ」


この状況を快く思っていないセリルの低い声と共に、団員たちが一斉に武器を抜き放ち、ゆっくりと前進した。枯れ木の裏側で、黒い毛玉のようなものが蠢いていた。近づいて確認すると、それはムルクサールの幼体であった。まだ成体の半分にも満たない大きさであったが、放たれる気配は不吉そのものであった。


「幼体がいるということは、近くに巣があるということだろう。まずはこの芽を摘み取ってやる!」


ウィデントの命令に、セリルが真っ先に跳躍した。彼女の長剣が虚空を切り裂き、幼体ムルクサールの首を狙った。怪物は鋭い悲鳴を上げて抵抗したが、老練な傭兵たちの合攻の前では無力であった。ウィデントの斧が幼体の頭部を粉砕し、セリルの剣がその心臓を貫いた。


一、二人負傷者は出たが、そのままキャンプに帰せば済む程度のことだった。


「思ったよりいけるな。成体も大したことなさそうだぜ」 「……そういうことを言うと、いつも問題が起きるって知ってるでしょ?」


傭兵の一人が地面に唾を吐きながら笑った。しかし、セリルの背筋には、凍りつくような戦慄が走った。森が、突然あまりにも静まり返ったからだ。風さえ止まったその静寂の中で、大地が低く鳴り響き始めた。


グゥゥゥン――


「全員回避!!」


セリルの叫びと同時に、森の巨木たちが紙切れのようにへし折られた。霧を裂いて現れたのは、巨大な山のような姿をしたムルクサールの成体であった。我が子の死を目撃した母の瞳は血の色に染まっており、あぎとからは大気を腐食させる黒い唾液が滴り落ちていた。


「陣形を維持しろ! 盾を構えろ!! 一班は俺と共に腕を止めろ、二班は脇腹を狙え! 三班はセリルと共に弱点の……くっ!!」


ウィデントが叫んだが、成体の圧倒的な武力の前では無意味であった。怪物の巨大な腕が地面を叩きつけると、その衝撃波だけで五、六人の傭兵が宙に飛散した。鋼鉄の盾はひしゃげ、悲鳴は怪物の咆哮にかき消された。


「団長!!!」 「ダメだ。退却してキャンプへ戻るぞ!!! 団員を連れて先に動け、セリル!!」 「どうして団長だけ置いて行けるんですか!?」


セリルはウィデントがムルクサールの腕を食い止める光景を見た。彼女は本能的に彼に向かって走ったが、ムルクサールの尾が鞭のように飛来し、彼女の脇腹を強打した。胸甲が粉砕され、肋骨がひしゃげる苦痛が襲った。セリルの体は宙を舞い、森の傍を流れる急流の中へと叩きつけられた。


「ダメだ!!! セリル!!!!!」


冷たい川水が肺腑に押し寄せた。意識が遠のく中、セリルは見た。自分が率いていた仲間たちが、森の闇の中に一人、また一人と消えていく悲劇的な光景を。そして彼女の世界は暗転した。


どれほどの時間が流れただろうか。水滴が岩に当たる音が規則正しく聞こえてきた。エピタフは大きな木桶二つを片手に持ち、川辺に立っていた。彼はエデリンが飲む水と、薬草を煎じるための水を汲みに来たところだった。兜の蒼い眼火が、水の中に沈んでいる異質な物体を捉えた。


銀色の、ひしゃげた鎧。そして、その中に収まった、まだ息のある肉体。


エピタフは川の中へと歩み入り、セリルの襟首を掴んで水の上へと引きずり上げた。彼女はすでに半死半生であった。顔は蒼白で、唇は紫色に変色していた。エピタフは彼女を地面に投げ出すように下ろした。彼にとって、契約で結ばれたエデリン以外の人間の命は、保護すべき価値のあるものではなかった。ただ、エデリンにとって脅威となるか否かだけが重要であった。


「エピタフ! 水は汲めた?」


遠くからエ데린が籠を手に歩いてきた。彼女はエピタフの傍らに倒れている女を発見し、驚愕して駆け寄った。


「大変、何があったの!? エピタフ、この人、生きてる?」 「息はあります」


エ데린がセリルの首筋に手を当てた。微かではあるが、規則正しい拍動が感じられた。エ데린の瞳に焦りが宿った。


「傷が深すぎるわ。肋骨が折れているみたいだし、体温も低すぎる。早く小屋に運ばなきゃ!」


エピタフは微動だにしなかった。


「危険です。武装した傭兵です」 「でも、このまま放っておいたら死んでしまうわ。お願い、頼むわ。この人を見捨てるなんてできない」


エ데린の切実な訴えにも、エピタフの眼火は冷たく揺らめいた。


「我らを狙って入り込んだ者を招き入れることはできません」 「違うわ! この人は今、狩りに来たんじゃなくて事故に遭ったのよ。私が魔女だと知ったら、後で私を害するかもしれないけれど……それでも今、目の前で死んでいく人を見捨てたら、私は本当に教団の連中が言うような『魔女』と変わりなくなってしまう。お願い、エピタフ」


エ데린がエピタフの鋼鉄の篭手の上に、自身の小さな手を重ねた。冷たい金属越しに、彼女の体温が伝わった。エピタフはしばし沈黙した。彼にとって主人の命令は絶対であり、彼女の悲しみは最も避けるべき事態であった。


「……承知しました」


エピタフは短く答え、セリルを軽々と抱き上げた。そして片手には水桶を、片腕には重傷者を抱え、小屋に向かって歩き始めた。


小屋の内部には、薬草を煎じる匂いと薪の燃える匂いが混じり合っていた。エ데린はベッドの上にセリルを寝かせ、慎重に彼女の粉砕された胸甲を取り除いた。エピ타프はその全ての過程を部屋の隅に立って見守った。大剣の柄を握る彼の掌は、万が一にも目覚めてエ데린を脅かす敵を斬り伏せる準備ができていた。


「エピタフ、温かいお湯をもっと汲んできて。それから傷を拭くための清潔な布も」


エ데린の手つきは慌ただしかった。彼女は自作の秘薬と薬草の粉末を混ぜ合わせ、セリルの傷口に塗った。彼女の知識に基づき精교に作られた薬は、砕かれた骨を繋ぎ、裂けた肉を癒やした。セリルの顔色が徐々に回復するのを見て、エ데린は安堵の溜息をついた。


「この人は運が良かったわね。私たちが川辺にいなかったら、そのまま流されていただろうに。本当に良かった」 「治療が終わり次第、追い出します」


エピタフは無味乾燥に答えた。彼はセリルの指先が微かに震えるのを捉えた。意識が戻りつつあった。


「ここ……は……」


セリルは極烈な痛みと共に目を開けた。真っ先に見えたのは、古い木の天井だった。温かなぬくもりが全身を包んでおり、ほのかな薬草の香りが頭を清澄にした。「夢か? 死んだのか?」彼女は混乱する精神を立て直そうと必死だった。


しかし、顔を横に向けた瞬間、彼女の心臓は止まるかと思った。


逆光を背負い、部屋の隅に屹立する巨大な影。漆黒の鎧の上にたなびく黒いマント、そして兜のスリットの間から自分を射抜くように燃える蒼い火。 エピタフの冷徹な影が彼女の頭上に垂れ込めていた。


息が詰まったように、セリルの喉から短い声が漏れた。


「あ……?」 「起きたか」 「きゃあああああ!!!」


セリルは悲鳴を上げ、身を起こそうとした。しかし、折れていた骨の痛みが悲명と共に彼女を再びベッドへと押し戻した。


「あれは何!? き、騎士!?」


恐怖に駆られたセリルの目には、エ데린の姿は見えていないようだった。彼女はただ、エピタフという存在が放つ圧倒的な死の圧力に圧し潰され、発作のように体を震わせた。


エピタフは大剣を床にトン、と置いた。金属音が部屋の中に冷たく響いた。彼は一歩近づき、冷徹に言い放った。


「……これだから人間というものは」 「どうしたの、エピタフ!?」


台所で薬を調合していたエ데린が寝室に駆け込んできた。彼女の手には、まだちぎり終えていない薬草が握られていた。


「こ……ここは……あなたたちは誰なの?」 「落ち着いてください。偶然、負傷したあなたを見つけて、治療するために連れてきたんです」 「負傷……っ……」


そこでようやくセリルは深刻な傷を負った事実に気づいたのか、苦痛の混じった呻きを漏らした。


「ひとまず寝ていてください。傷がひどいんです」


エ데린はそんなセリルをゆっくりと寝かせつけ、傍らに座った。少なくとも彼女の事情を知りたいという様子だった。


「もしかして……私の仲間は見ませんでしたか? みんな茶色の革鎧を着ているんですが……」 「いいえ。少なくともあなたを川辺で見つけた時、近くに他の人はいませんでした。ね、エピタフ?」 「……左様です」


エピタフは腕を組みながら頷いた。


「そんな……ダメだ……早く助けに……うっ!!」


身を起こそうとしたが、負傷という足枷が彼女の足首を掴んで離さなかった。彼女にとってウィデント傭兵단의仲間たちは、家族も同然であったからだ。しかし、いかに強力な意志であろうとも、体がついてこなければ何の意味もなかった。


「団長……」


セリルは森のどこかにあるはずの傭兵団のキャンプを思い、目を強く閉じた。どれほど生き残っているのか、団長は無事なのか、もしかして自分以外全員死んでしまったのではないか。あらゆる恐怖が彼女の喉を締め付けるかのようだった。

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