糸の軌跡
路地裏の空気は急激に冷却された。エピタフの足元から始まった霜が、苔むした壁面を伝い迅速に広がっていく。彼はエデリンが落とした紫のリボンを、鋼鉄の篭手の隙間に差し込んだ。それはもはや彼にとって単なる布切れではなく、必ず取り戻さなければならない「世界の中心」の一部であった。
兜の狭い隙間から揺らめく蒼い眼火が、路地の闇を引き裂くようにぎらりと光った。エピタフは頭を低く下げ、空気中に残された残響を辿る。人間の鼻では感じ取ることのできないもの――急上昇したアドレナリンの生臭い匂い、か細い悲鳴の果てに残された魔力の波動、そして強欲に塗れた男たちの汗の臭いが手がかりとなり、彼の感覚に刻み込まれた。
彼はもはや足音を殺さなかった。巨大な金属の長靴が石畳を踏みしめるたび、鈍い破空音が路地裏の壁を震わせた。
その時刻、村の北側にある廃墟となった革工房の地下。カビの臭いと湿気に満ちた部屋に、エデリンは椅子に縛り付けられたまま投げ出されていた。彼女の口には荒い布が噛まされ、細い手首は荒い縄に擦れて赤く腫れ上がっていた。
「見ろよ、大物中の大物だぜ」
黄色い歯を剥き出しにして笑う男は、この村の地下で賭博場と人身売買を生業とする組織の頭、ジャックだった。彼は蝋燭の火に照らされたエデリンの顔を貪欲に舐めるように見た。
「これほどの美貌なら、領主様の側室へ売り飛ばしても金貨百枚は固い。いや、いっそのこと国境の向こうへ送ってやろうか?」
彼はエデリンの白い頬を汚れた指先で小突いた。エデリンは嫌悪感に顔を背けたが、ジャックはその姿がむしろ楽しいようで、下卑た笑い声を上げながら酒瓶を煽った。地階の外からは、手下たちが肉を食らい、ナイフを研ぐ騒音が聞こえてくる。彼らにとってこの少女は、運良く釣り上げた高価な生贄に過ぎなかった。
「んんっ……!! んんっ……!!」
「おい、そいつの猿轡を外せ。何を抜かすか聞いてやろうじゃねえか」
「……今からでも遅くありません。すぐに私を放しなさい。さもなければ、あなたたちは……」
「はっ!! 見ろよ。まだ状況が分かってねえ女がいるとはな」
ジャックはエデリンの頬を強く掴み、言い放った。
「なあ。俺がこの街の領主に売り飛ばした女が何人いると思ってんだ? 舌を抜かれたくなきゃ、黙って大人しくしてろ」
その時、地下室の天井が微かに震え始めた。埃が舞い落ち、壁に掛けられた古いランプがガタガタと音を立てる。
「なんだ? 近くで土砂崩れでも起きたか?」 「いや、ボス……この辺りは平地のはずじゃ……」 「じゃあ、この音は何だ?」
ドォォォン――!
「これ……入り口が破られました!」
遠くから聞こえる音ではなかった。それは極めて近い場所、すぐ頭の上で巨大な獣が大気と大地を蹂躙しながら近づいてくる音だった。
バリバリッ、ドォォォン!
「……クソが」
地上から聞こえてくる悲鳴は、地下室まで届くほど短く強烈だった。何かしら巨大なものが建物の外壁を粉砕し、侵入してくる音が始まりだった。ジャックと手下たちは一斉に天井を見上げた。「なんだ!? 警備隊か!?」ジャックが地下の入り口を守っているはずの手下に叫んだが、返事はない。代わりに、階段の向こうから人間の体が転がり落ちてきた。いや、それは人間というより、無残にひき肉となった肉の塊に近かった。
エピタフは地下室の鉄門を押し開いた。彼は取っ手を回さなかった。巨大な左手を伸ばし、厚い鉄扉の中央に置いただけだ。
ギギギギィィィ――
冷たい金属が悲鳴を上げ、内側へと歪んだ。エピタフが肩で軽く押し込むと、蝶番が引きちぎられた門扉が砲弾のように飛び、廊下の突き当たりにいた三人のならず者を壁に叩きつけた。
煙の中から歩み寄るエピタフの姿は、恐怖そのものだった。マントはすでに引き裂かれ、肩からボロボロと垂れ下がっている。その隙間から覗く漆黒の鎧からは、凄まじい冷気が滝のように溢れ出していた。
「おい!! 全員でかかれ!! 騎士だろうが何だろうが、どこか一突きすれば死ぬはずだ!!」
恐怖に駆られたならず者たちが、包丁や棍棒を手に襲いかかった。エピタフは大剣を抜かなかった。彼にとってこいつらは、剣を汚す価値さえない羽虫に等しかった。
真っ先に飛びかかった男の胸元に、エピタフの篭手を嵌めた拳が叩き込まれた。「ボゴッ」という鈍い音と共に男の胸郭が陥没し、背中から骨が突き出した。エピタフは止まることなく、横から振り下ろされた斧を左手で軽く受け止めた。そしてそのまま力を込めて斧の刃を握り潰すと、折れた鉄の破片を男の喉元に突き立てた。
その動作一つ一つに躊躇はなかった。彼は怒り狂うのではなく、「効率的」であったがゆえに容赦がなく、苦痛を知らないがゆえに無敵だった。廊下は一瞬にして血の海と化し、生者の息遣いよりも、死者が肉を砕かれる音の方が大きく響き渡った。
ジャックは恐怖で正気を失ったように、エデリンの首元に短剣を突きつけた。
「来るな! 来たらこの女の喉を掻き切るぞ! 本気だ!」
エピタフは足を止めた。
「そうだ……クソ、お前もこの女を狙って来たんだろ? 聞け、このまま俺を見逃せば……」
兜の中の蒼い眼火が、地下室全体を凍てつくように照らした。ジャックの短剣がエデリンの白い首を圧迫し、血の滴が滲むのを見た瞬間、エピタフの周囲に黒い魔力が霧のように立ち昇った。
彼は答えなかった。代わりに、床に転がっていた男の短剣を一蹴した。
シュッ!
空気を切り裂いた短剣はジャックの目の前を通り過ぎ、彼が短剣を握っていた右の手首に正確に突き刺さった。
「ギャァァァッ!!! この狂った野郎が……!!!」
ジャックが悲鳴を上げ、腕をだらりと下げた刹那、エピタフの身形が揺らぎ、消えた。
次の瞬間、ジャックの視界は巨大な鋼鉄の篭手で埋め尽くされた。エピタフはジャックの首根っこを掴み、壁へと叩きつけた。「ドォン」という衝撃と共に壁にひびが入る。ジャックは宙で足をバタつかせたが、エピタフの指先は微動だにしなかった。
エピタフはジャックをすぐには殺さなかった。ただ、彼がエデリンに触れた右手を反対の手で掴み、ゆっくりと、確実に力を込めた。
メキメキ、バキバキ……。
指の関節の一つ一つが粉々になる音が、静まり返った地下室に響いた。ジャックの悲鳴はもはや人間の発するそれではなくなっていた。エピタフはぼろ雑巾のようになったジャックを隅へと放り投げた。ジャックは苦痛にのたうち回り、自分のねじ曲がった手を抱えながら絶叫を漏らした。
エピタフはすぐさまエデリンの元へ歩み寄った。彼は片膝をついて座り、血で汚れた篭手を自分のマントの端で拭い取った。可能な限り、清潔に。それから極めて慎重に、世界で最も壊れやすい宝石を扱うように、手首の縄を断ち切った。
エデリンは拘束が解けるやいなや、エピタフの冷たい胸甲に顔を埋めた。金属の冷気と生臭い血の匂いがしたが、彼女にとってはどんな香気よりも安心できる匂いだった。
「……遅くなりました」
エピタフが発した最初の一言だった。エデリンは首を振り、彼の鎧を強く握りしめた。
「ううん……来てくれるって信じてた。あなたが絶対に来てくれるって」
エピタフは彼女の肩を抱き寄せようとして、手を止めた。自分の体に付着した返り血が、彼女の服を汚すことを危惧したような、奇妙に繊細な躊躇いだった。エデリンはそんな彼の道連れを自ら引き寄せ、自分の肩に置かせた。
「この者は……どう処理しましょうか」 「……この男は、私以外の女性たちも攫っていたみたい。このままにしておけば……また多くの犠牲者が出るわ」 「御意のままに」
這いつくばっていたジャックの頭上から、大剣が振り下ろされた。 大剣は正確に彼の首を貫き、頭部と胴体を分断した。床には赤い血溜まりが刻一刻と広がっていく。
「帰りましょう。もう」
エピタフはエデリンを軽々と抱き上げた。彼は死体が散乱する廊下を通りながら、彼女の目を自分のマントの端で覆い隠した。彼女が見るべきではないものが、あまりにも多すぎた。
外はすでに騒がしくなっていた。遠くから衛兵たちの笛の音が聞こえてくる。エピタフが正面突破した痕跡が、帰路に堂々と刻まれていた。
「あ……私のリボン……!」
彼の腕の中で、エデリンはエピタフの鎧の隙間に差し込まれていた自分の紫のリボンを見つけた。彼女はそのリボンを手に握りしめ、囁いた。
「見つけてくれてありがとう。私にとって……本当に大切なものだったから」
エピタフは答えなかった。ただ、彼女をより確かに抱き直し、月光さえ届かない黒い森の懐へと、黙々と歩みを進めるだけだった。彼らの背後でベロッタの村の喧騒は徐々に遠ざかり、冷たい森の霧が二つの存在を温かく包み込んだ。
崩れた墓場へと戻る道。騎士の鎧の上に落ちたエデリンの安堵混じりの吐息が、血の匂いを洗い流していた。
少なくともエデリンは、今日の出来事をただ手放しに喜ぶことはできないだろう。それでも、彼女はまた人々が集まる村へと下りていくだろう。 彼女は、そういう人間なのだから。
ホデン(ホデン)作家様へ: 緊迫した戦闘シーンと、その後のエピタフの「奇妙に繊細な躊躇い」の対比が非常に美しく描かれています。エピタフがエデリンの瞳を汚さないようにマントで隠す配慮など、言葉のない騎士の深い愛が感じられる素晴らしいエピソードでした。
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