静かな時間の流れる家
小屋の屋根に、早朝の蒼い霧が降りていた。エデリンはきしむベッドから起き上がり、まず窓の外を確認した。森は昨日と変わらず沈黙している。賞金稼ぎたちの悲鳴や金属の衝突音の代わりに, 湿り気を帯びた風が葉を揺らす音だけが聞こえてきた。
入り口にはエピタフが立っていた。一晩中, その場所に立っていたのだろう。眠ることのないアンデッドにとって, 夜は休息ではなく、果てしなく退屈な待機に過ぎなかった。エデリンが上着を羽織りながら近づくと, エピタフの兜の中の蒼い火が微かに揺らめき, 彼女の動きを追った。
「エピタフ, 籠を持ってきて」
エピタフは無言で, 隅に置かれた大きな革の籠と薬草用の鎌を手に取った。彼の巨体に比べれば籠は小さく粗末に見えたが, 彼はそれを宝物か何かのように、慎중(しんちょう)に腕に抱えた。
今日の目的地は森の西側にある湿地だった。そこには「月影草」が自生している。月光を浴びて育ち, 夜にだけ淡い光を放つその草は, 錬金術の基礎材料であり, 近くの村にとっては唯一の熱病の特効薬でもあった。 神聖教団は, 聖水と祈りさえあれば病など治せると豪語したが, 実際にそれを治療するのはエデリンのような魔女……いや, 錬金術師の役目だった。
小屋の扉を開けると, 冷たい空気が肺を刺した。エデリンが先頭に立って歩き, エピタフは彼女の後ろで一定の距離を保ちながら従った。
湿地への道は険しかった。雨風に折れた古木が道を塞ぎ, 蔓が足首を掴もうとする。エデリンが足を止めるたびに, エピタフが前に出た。彼は大剣を振るう代わりに, 鋼鉄の篭手で巨大な幹を軽く押し退け, 絡まった蔓を引きちぎって道を作った。
「ありがとう」
エデリンの礼に, エピタフは短く答えた。
「当然のことです」
湿地に到着すると, 月影草は露を纏って群生していた。エ데린は地面に膝をつき, 丁寧に草を摘み始めた。エピタフは彼女の背後に立ち, 周囲を警戒した。彼の視線は、森の暗闇を絶えず監視していた。
「この薬草があれば, 村の人たちも冬を越せるはずよ」
「貴女にとって、人間は……不必要な存在です」
「何言ってるのエピタフ。村の人たちがどれだけ私を気にかけてくれてるか。トーンおじさんなんて, あなたの剣も手入れしてくれたじゃない」
「あれは、野犬狩りに対する正当な対価でした」
「あのおじさん、普段は予約制なのよ。当日にやってくれただけでも、ありがたいことなんだから」
そう言うエデリンは, 少し切なげな表情を浮かべた。
「あの人たちは、私が魔女だと知ったら買うかどうか分からないけれど……でも, この薬がなければ冬をまともに越せない人たちなの。助けられるなら、助けなくちゃ。神聖教団なんて……ペテン師ばかりだもの」
エデリンは摘み取った草の土を払いながら、独り言のように呟いた。エピタフはその言葉に動揺しなかった。彼は、村人が彼女をどう思っているか、彼女がどんな心配をしているかなど重要ではなかった。彼にとって重要なのは、ただこの瞬間, エデリンが安全に薬草を摘むことだけだった。
「今、何か聞こえなかった? 物音がした気がするけど……」
エデリンが尋ねると, エピタフが腰を落として答えた。
「獣の気配です。脅威はありません。魔物が接近すれば、私が察知します」
彼は不必要な説明を付け加えなかった。獣の種類や距離について言及することもない。彼が脅威はないと判断したなら、それで十分だった。
籠が月影草でいっぱいになった頃, エデリンは腰を伸ばして立ち上がった。長時間しゃがんでいたせいで、足がふらついた。エピタフの大きな手が瞬時に伸び, 彼女の腕を支えた。冷たく硬い金属の感触だったが, その支持力だけは確かだった。
「お立ちください」
エピタフは彼女が重心を安定させると, すぐに手を離した。彼は、自分の手が彼女の服を汚し、肌を傷つける可能性があることを理解しているようだった。
帰り道, 二人は小さな川に立ち寄った。エデリンは水を汲み, エピタフは籠を下ろして川辺の岩に腰掛けた。いや, 正確には座ったというより、巨大な石像のように静止した。
エデリンは濡れた手拭いを取り出し, 彼の鎧を拭き始めた。昨日の賞金稼ぎとの戦いで付着した返り血は, すでに固まって黒い染みになっていた。鎧の隙間を拭うたびに, 鉄が擦れる音が響いた。
「鎧、だいぶ傷んでるわね。近いうちに継ぎ足し用の鉄板を手に入れないと。私の腕前はあんまりだけど……」
エピタフが口を開いた。
「性能に支障はありません。無理はなさらないでください」
「私が気になるのよ。私の騎士が汚れているのは、我慢できないから」
エデリンが冗談めかして言ったが, エピタフの眼火は微動だにしなかった。彼は彼女の冗談に笑ったり答えたりはしない。ただ, 彼女が腕の部分を拭くとき, 拭きやすいように少しだけ腕を持ち上げ, 角度を調節してやるだけだった。
小屋に戻ってからの日常は単調だった。エデリンは摘んできた薬草を仕分けして乾燥棚に並べ, 一部は釜に入れて煎じ始めた。水蒸気が小屋の中に満ち, ほろ苦い香りが広がった。
エピタフは小屋の隅で大剣の整備をしていた。砥石で刃を研ぐ金属音が規則的に鳴り響く。彼は剣にこぼれがないか、血が溜まって腐食していないかを細かく調べた。その手つきは極めて精緻だった。巨大な怪力とは相反する繊細さだった。
「エピタフ, 薪が足りないわ。もう少し取ってきてくれる?」
竈の火を調整していたエ데린が言った。エピタフは即座に剣を置き, 外へ出た。しばらくして, 森の向こうから木が折れる重苦しい音が数回聞こえると, 彼は大人の男の胴体ほどもある丸太を三本, 両肩に担いで戻ってきた。
彼は斧を使わなかった。素手で丸太を木目に沿って引き裂き, 竈に入れやすい大きさに整えた。バキッ, メキッという音がするたびに, 頑丈な木材が力なく割れていった。
「その力があれば, 村に行けば一番の力自慢になれるのに……」
エデリンが釜をかき混ぜながら何気なく言った。エピタフは積み上げられた薪を見つめ, 無味乾燥に答えた。
「私はここにいなければなりません」
「どうして?」
「主がおられるからです」
それ以上の会話は続かなかった。エピタフは薪を竈の横に整然と積み上げると, 再び入り口に戻って立った。彼は家財道具のように、静寂の中に溶け込んだ。
夜になると, 森の霧は紫色に染まり, さらに濃くなった。エデリンは薬草の成分が十分に抽出されたのを確認し, 瓶に小分けした。明日の夜明け、森の境界にある朽ちた岩の上にこの瓶を置いておけば, 村の薬師が金貨を置いていくはずだ。
エデリンは小さな灯火を一つ点け, 食卓についた。彼女の夕食は, 硬いパン一切れと薄いスープが全てだった。エピタフは食べる必要がないため, ただ暗闇の中から彼女が食事をする姿を見守っていた。
「今更聞くのもおかしいけど……あなたも時々、嫌にならない? 毎日同じ森, 同じ日常」
食事を終えたエ데린が頬杖をついて尋ねた。エピタフの兜の下から、低い響きが漏れた。
「私は時間の流れを感じません。同じ日常も、私にとってはただ過ぎ去る時間に過ぎないのです」
「羨むべきか, 哀れむべきか、分からないわね」
食事を終えたエデリンは食器を片付け, ベッドに横たわってロウソクを消した。小屋の中は瞬く間に闇に包まれたが, エピタフの瞳から放たれる蒼い光が、幽かに室内を照らしていた。
彼は彼女のベッドの脇に, 少し距離を置いて蹲っていた。
「明日は村へ行くから, 少し早く起きるわ」
「荷物を準備しておきます」
「荷物って言っても……あそこにある籠の中身が全部だもの。ふふっ……」
エデリンはくすくすと笑い, 首を巡らせてエピタフの方を見た。
「おやすみ, エピタフ」
「……はい」
エピタフの返事はいつも同じだった。「おやすみなさい」というありふれた挨拶の代わりに, 彼はいつも非常に硬く, 感情のこもっていない口調で答えた。 だが、彼女にはそれで十分だった。 それこそが, 彼らしい姿だったから。
エ데린がベッドで規則正しい寝息を立て始めると, エピタフは扉を背にして立ち, 外を注視した。風が窓を揺らし, 森の獣たちが遠くで咆哮していた。しかし、この小さな小屋の内部だけは, 完璧な静寂に包まれていた。
エピタフは微動だにせず、夜の番を続けた。彼の影が床に長く伸び, 眠るエデリンの足元に届いた。 ここを訪れる者は当分いなくとも, 自分がいる限り, ここへ足を踏み入れることさえ許さないという、警告のようにさえ感じられた。




