※※ めでたい男
ヤートさま!という声を耳にして、視界が真っ黒になった。
斧に当たる直前まで獣の顔のようなかたちをしていたそれが、刃にふれたとたんに布のようにひろがって、顔にはりついてきた。
息どころか、顔の骨がみしみしと鳴り、こちらの『気』を吸われるのがわかり、懐からだした術札を顔にあてたままはじけさせるが、そのときだけ妖物が顔からはなれ、よける間もなくまたはりつかれる。
残っていた三人の兵士にもおなじようにとりついているらしく、うめきごえしかきこえない。
はがそうとすればするほど、顔からほかへとそいつがひろがってゆき、こめかみがみしりと締まり、顎から下へとひろがりだす。
この黒い妖物が、もっと大きく硬いなものならば、目がみえずとも斧をふりまわせばどうにかなったろうが、この薄さではどうにもならないし、なによりコイツは危険をかんじるとまたかたちをかえてよけるだろう。
めりめりと頭の骨が音をたて、首までが締まりだすのをヤートは感じた。
もう、近くで兵士の声のうめきはきこえない。
それならば ―― もう、斧をふりまわしても、わしの斧で兵が命を落とすことはないのだ。
最後の『気』を一滴まで絞るつもりで持ちなおした斧を、おのれの顔にたたきこんだ。
両手から伝わる衝撃と、聞いたことのない硬く高い音。
顔に痛みはなく、息ができ、視界がひらけた。
―― そこに、すらりとした人影がたち、みたこともない極太の太刀を砂につきたてている。
白く整った顔が、こちらをみた。
おのれの顔をめがけたヤートの斧はとばされ、むこうにささっている。
穴からでてはりついていたくろいものは、男の極太の太刀に抑え込まれたように、砂の中でもがき、穴の中へ帰ろうとしているようだ。
両手両膝をつき、咳き込むヤートは、この男が斧をとばし、妖物もはらってくれたのだとようやく理解した。
「東のヤート将軍か?遅くなってすまない。西の領土をすべて固めてからでてきたもので時間がかかってしまった。残ってたのは側近の三人かな?無事にあちらにいる」
にこりと微笑むその男がだれだかようやく思い出す。
天宮にある壱の宮の大臣、サモンだった。
ようやく呼吸をととのえだしたヤートは、まえに一度だけみかけたその大臣の容姿をあらためてながめ、わしはこの大臣になぜ声をかけなかったのか、と自問した。
「平気か?ヤート将軍、ここは一旦、このサモンと壱の宮の兵士に任せてもらえないだろうか?」
近づいたサモンはやさしい声音でわざわざ片膝をついてこちらをのぞきこむ。その顔は、ヤートが愛でたいほどに整っていて、どこかはかなげでもある。
「 ―― 大臣たちも、手を かして くれるのか」
むこうをみれば、砂山にある『穴』からはまだ、つぎのなにかが出ようかどうかと迷っているところのようだ。
サモンはほほえんでヤートにうなずいてみせると、手をとって立たせ、もちろんだ、とこたえたが、きゅうに顔をしかめ、ぽろぽろと涙をこぼしはじめた。
「ようやく、―― ようやくわたしも、《この世》の役に立てるときがきたのだ」
まだ持っていたヤートの手をぎゅっとにぎり、もう片手で泣く顔を覆う。
むこうで、「サモンさま」と名をよび、もらい泣きしている大柄な兵士は、サモンの側近だろう。
「いや、泣いている場合ではないのだ」これではセリに叱られると、参の宮の大臣の名前をだした男は、おおっていた手で顔をぬぐうと、やっと手をはなし、ヤート将軍も兵士たちといっしょに手当てをうけにゆくといい、といつのまにかむこうに並ぶ壱の宮の兵と馬車をしめした。
「 ここからすこし、 ―― わたしはおのれに術をかける。 ボッコウ、わかっているな? 」
とたんにサモンの『気』がゆれ、気配が変わった。
ふ、 とわらうサモンの顔がみえ、ヤートの肌は泡立った。
むこうで砂につきたてた太刀に両手をかける壱の宮の大臣は、砂のなかでもがくものをみおろし、にやりとしてから、片足をあげて勢いよくそれをふみつけた。砂の中のものが悲鳴のようなものをだし、動かなくなる。
「 そうか。おまえたち、西の領土をふさいだ分、こっちにでてきているのだな? それはいい。南でも北でもなく、この東に集まって出るといい。 ―― このわたしが、あいてをしてやる」
ぶん、と空を裂く音をたてて、投げられた刀が、砂山にある『穴』の中にささると、『穴』をひろげて黒く巨大なものがとびだしてきた。獣のような姿勢と勢いですぐにサモンにとびかかる。
ヤートは壱の宮の兵士に馬車にのせられながら、かたちをかえる黒い山のようなものを相手に極太の刀を微笑みながら軽々とあつかうサモンの額が割れ、目玉がのぞいたのを目にし、息をつきながら横になり、いつの間にか結界の張られている空をみあげ、つぶやいた。
「 ―― 好みではない、な・・・」
声をかけなかったわけに自分で納得し、目をとじた。
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